三話 毒姫
「本当に毒である私が薬に…医になれるとお考えですか?」
杏雪は震える声で尋ねた。手袋をしていない手が久しぶりに空気にさらされ、秋の風が汗を冷やしていく。
「私の、呪われた出生を知っても?」
杏雪は淡々と語り始めた。杏雪の母、雅蘭は龍帝の異母姉で公主であった。刀圭の一族の医官であった父と出会い恋に落ち、結婚したと杏雪は聞かされている。
父、智衡は医術を学ぶために外の国を回っていたが、実家からは放蕩息子と思われていた。父は好奇心を抑えられず、罪人の死体を解剖したことにより、刀圭の一族から追放された。
追放された智衡に雅蘭もついて行ったそうだ。雅蘭は身分の低い側室から生まれた公主だったので、帝室と今の龍帝を憎んでいた。そして人間蠱毒という禁術に手を出す。蠱毒を人間の体内で再現するその呪いは雅蘭の中で着々と育っていた。
そして雅蘭が摂取した毒は胎児だった杏雪に受け継がれた。出産時、纒足だった雅蘭は踏ん張りが効かず、母子共に危険な状態になった。父は一族から追放される原因となった異国の医術「外科手術」で帝王切開を行い、杏雪を取り上げた。
しかし、毒を接種し抗体がついていた雅蘭は麻酔である芥子が効かず、大量出血と腹を裂いた時の痛みで命を落とした。
杏雪は母の毒を受け継ぎ、母の腹を裂いて生まれた。杏雪の産声は、雅蘭の絶叫に掻き消されたという。
「母を殺して生まれてきた私が恐ろしくはありませんか」
杏雪の瞳は冷たく昊天を見つめた。
「あなたの母上は気の毒だが、大切なのは生まれよりもどう生きていくかではないだろうか。あなたは今、毒姫としてではなく、医として生きたいと感じているではないか」
昊天の言葉はまっすぐ、それこそ名の通り夏の蒼穹のように澄み渡っていた。桜より早く花をつける杏は春を表し、古事から医者を表す。そして雪は冬を表す。冬と春を冠する杏雪の名は、どうあっても夏には届かない。交わらない季節なのだ。
名は体を表すというが、ここまで人の在り方は違うものなのかと昊天と杏雪は互いに感じ取っていた。
昊天の考えは、潔癖であり理想であり、血に汚れた杏雪とは対極にあるように感じた。雪は血で赤黒く染まり、泥のようになっている。
「星は手が届かないからこそ輝き眩く、理想も遠くにあるからこそ美しく感じるのです。私は、医として生きるには汚れすぎました。──人の暖かみに触れてみたいという願いは私には過ぎたものです」
理想と現実を杏雪は身に染みてわかっていた。昊天の言葉は清流のようであり、泥の中で生息する杏雪という生き物にとって澄んだ水は息がし辛かった。
「あなたはそうやって嘆いて諦めて、人に流されながら生きていくのか?」
昊天の瞳には多少の怒りの炎が灯っていた。そして、手袋を外していた杏雪の手を優しく掴んだ。杏雪は驚いて手を引き抜こうとしたが、逆に昊天は強く握りしめた。末端から痺れのようなものが昊天から身体を走る。
「ほ…ら、私の体温を感じてくれただろうか」
痺れという苦痛に顔を歪めながら、昊天は笑って見せた。
「早く離してください。汗は微量な毒しかありませんが長時間、毒を皮膚から摂取すると焼け爛れたみたいになるのです!」
杏雪の手は震えていた。彼女が震えた時、こうして手を握り優しく慰めてくれる人は今までいなかったのだという悲哀が滲んでいる。
「私は、もう誰も殺したくないのです」
杏雪の灰色の瞳には涙が浮かんでいた。昊天は手を離す。
「ようやく、自分で選ばれたな」
まだ痺れは残っていたが、昊天はそんなことはどうでもよいと思えるくらいに嬉しかった。杏雪が、まだ年若い娘が戦場で毒として使われていくことが、可哀想だった。同情だけではない。怒りと悲しみが混じった、そんな気持ちだった。
「あなたが医として生きられるよう、私が龍帝陛下を説得する。もうあなたを武器としては使わせない」
昊天は初めて自分が第一皇子で「天」という字を戴いたことを良かったと思った。杏雪を助けられるなら、疎んでいた自分の地位が今は嬉しかった。
木の葉たちが風によって舞い踊る。その隙間から雪のような髪が揺れたこの光景を、昊天は生涯忘れることはないだろうと思った。
***
對国を征服した董将軍率いる軍は、都である神陽へ凱旋していた。爆竹が鳴り響き、花火が打ち上がり、祭りのような様子だった。今回の功績の立役者でもある杏雪は、昊天率いる禁軍の兵士たちが担ぐ輿の中にいた。
笑顔で手を振りながら、董将軍と第一皇子の帰還を喜ぶ民たちの笑顔を杏雪はまっすぐ見られなかった。彼らは知らないだろう。華々しい帰還の裏に故郷に帰れなくて死んだ者たちを。
怪我人、特に足を切断して動けなくなったものたちは荷馬車に荷のように積まれている。途中で行軍について来られなかった怪我人は、董将軍の命令でその場に捨て置かれた。
子供たちが、子犬のように駆け回りきゃっきゃと笑っている。手には山楂飴が握られていた。露店からは、饅頭が蒸籠で蒸されていて煙が立っている。香辛料が聞いた肉串や、鮎の塩焼きも串刺しで売られている。
「人を殺したあとでも、お腹は空くのね…」
杏雪は呟いた。肉が落ち蝿がたかり骨が見えるほどの重症を負った兵士たちの姿。杏雪の血を知らず知らずのうちに摂取し、閨の中で血を吐き、目や耳からも出血して死んだ對王の姿。對王と同じく宴の酒に杏雪の血を混ぜられて死んだ對の家臣たち。
杏雪は国の中枢を一夜にして毒殺した。杏雪が宿すのは人の業により生まれた人間蠱毒。千種の毒を地道に少量ずつ摂取して完成に至る。普通の毒ではないから、銀を腐食させないので、検知は不可能だ。
「あ…翡翠餃子」
杏雪は出店に皮が色とりどりの餃子が露店に売られていた。薄紅色は蟹、橙色は唐辛子、黒色は胡麻、黄色は乾酪、薄緑は翡翠、薄水色は帆立、青は鱶鰭、薄紫は海老といったように舌に旨く目にも鮮やかだ。
杏雪は父、智衡と翡翠餃子を作った時のことを思い出した。もちろん、杏雪は厳重に手袋をして皮にほうれん草を練り込んで、もちもちと弾力のある皮を作った。智衡は餡を作って、大蒜をたっぷり入れるのが好きだった。
智衡は流浪の医者だった。幼い頃から杏雪は父に連れられ各地を巡った。智衡は杏雪に必ず毒を摂取させた。慣れない新しい毒だと、杏雪は吐き気を催したりあまりの痛みに悶え苦しみ、泣き叫ぶ夜もあった。
今はすっかり、毒を嚥下するたびに燃えるように痛む喉を耐える方法を学んでしまった。
母、雅蘭が禁術である人間蠱毒に手を出したから、杏雪は毒を持って生まれた。しかし、それは母からの愛だったと今は思う。
禁軍の行列は皇宮へ向かっていた。皇宮へ近づくに連れ、杏雪の体の震えは酷くなっていく。毒姫の任務を終えると、杏雪は龍帝に呼び出される。杏雪の抱える恐ろしさから冕冠を被る龍帝の顔は、いつも鬼のようである。
皇宮の門を潜り、杏雪の乗った輿は龍帝の座す宮殿の前についた。杏雪は輿から宦官の手を借りて降りると、息を吸い込み覚悟を決めて中へ踏み込んだ。
緋色に塗られた六本の柱には金の龍が巻き付いている。口に咥えた玉飾りの色は、朱、青、白、黄、黒、そして紫がある。
この柱は神華帝国の五族、火族、水族、木族、金族、土族をそれぞれと皇帝の龍一族を表している。玉座の間に、六匹の龍を模った柱があるのは五族協和の証だ。
「對国への輿入れ、ご苦労だった」
階段のついた台座の上の玉座に座る人こそが、杏雪の叔父である龍帝、索蒙だった。杏雪は膝をつき礼をする。いつものことなのに、杏雪は昊天に頭を下げた時よりも頭を下げるのが苦痛だった。
「私の可愛い杏雪よ。身は清らかであろうな?」
龍帝は杏雪を和藩公主として送り込み、帰ってきた後必ずこの質問をする。それは政治的に利用してしまった姪を慮ってのことではない。いつも索蒙は自分の欲に忠実だ。
「毒のおかげで私はまだ生娘です。龍帝陛下が私の破瓜の血で死ぬ覚悟を決められたら、わかりませんが」
杏雪は震えを誤魔化しながら、毅然と龍帝を見つめた。母、雅蘭は纒足だった。この男に足を縛られ、纒足にさせられ支配された。結婚を機に雅蘭は索蒙の支配から抜け出せた。
雅蘭は索蒙に復讐を企んでいた。だから、人間蠱毒に手を出した。自身の毒を持ってしてこの男の息の根を止めるために。
智衡が杏雪を連れて各地を巡ったのは、龍帝から逃げていたからだ。それを杏雪は父が亡くなり、ついに龍帝の追手に見つかった時に知った。
龍帝は杏雪を手に入れようとした。しかし、杏雪に触れた時、体が痺れたのだろう。雅蘭の毒が杏雪を守った。だから、杏雪は母からの毒を愛だと思う。




