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二十八話 泥中金蓮

 寝台には薄絹の帳が幾重にも垂れ下がり、帳の手前には蓮の花を模った灯籠が置かれておりほのかな明かりを投げかけていた。後宮の南東に位置するヤン徳妃の宮である。


 杏雪はシェン淑妃の頼みで、楊徳妃の治療に赴いていた。徳妃の宮のものたちは杏雪シンシュエたちをもてなし、主人は寝台から起き上がれないと伝えられ、杏雪は寝室に通された。


 「楊徳妃様、医女の杏雪にございます」


 杏雪が拱手して挨拶をする。薄絹の帷が重なっていては見えにくいだろうが、衣擦れの音などで杏雪がお辞儀をしたのがわかったようだ。薄膜に包まれた繭の中にいるような気分だった。


 「私は医者を呼んでおらぬ。帰るがよい」


 薄絹の帷の奥から弱々しい声が届いた。


 「私はシェン淑妃様の頼みで参りました」


 杏雪がそう言うと、奥から「瑛夏インシアが…?」と呟く声が聞こえてきた。二人が友情を築いていたのは確かだったらしい。自分と協力してくれる派閥の妃という政治的な意図があったとしても、沈淑妃は楊徳妃を心配しているのは確かだ。


 友人の名前が出たからか、楊徳妃の態度は少し軟化した。


 「典医だちが匙を投げた私を治せるというなら、して見せるがよい」


 薄絹の隙間から白い手が伸びて手招きをした。ただし、うしろに控えている侍従、花琳ファリン虞淵ユィユエンは寝台に近づくことは許されず、医女の杏雪だけが来るようにと言われた。


 杏雪は薄絹の帷を掻き分けながら、寝台に近づいた。寝台の近くにある蓮の形をした燭台の蝋燭の火がぼんやりと寝台の中を照らしていた。


 蝋のように白い肌は陽を浴びていないから病的で、体は浮腫んでいた。


 「熱の後遺症は浮腫みだ。足が浮腫んで大きくなってしまったから靴が入らなくなった…」


 楊徳妃の言葉を聞いて、杏雪は「失礼します」と確認をとってからゆっくりとかけられていた布団を捲った。そこには蹄のように変形した足が、浮腫んで肥大化し膿のような酸い臭いを発していた。楊徳妃は纒足だった。


 「私は金蓮だったのに…」


 楊徳妃が嘆いた。金蓮とは三寸(九センチ)の大きさの纒足のことで、三寸金蓮と呼ばれる纒足の頂点だった。四寸(十三センチ)以内が銀蓮、それより大きければ鉄蓮と呼ばれる。纒足の中では金蓮ことが至高とされていた。


 「子が流れ、熱が出て足が大きくなって靴が入らなくなってから龍帝陛下は訪れなくなった」


 纏足では足裏に力が入らない分股関節や骨盤が発達し、男性を喜ばせるにはもってこいの体とされていた。内股の筋肉が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると考えられている。


 龍帝は腰回りの筋肉がついて、体幹もしっかりしている楊徳妃に雅蘭ヤーランを重ねたのだろう。踏ん張れないから、刺激をうまく体の外に逃がせず、声が漏れるのを男は嬌声だと思うのだろう。


 「子は流れたのに、腹の中にまだいるような気がする」


 楊徳妃の弱々しい手が自身の腹を撫でた。


 「過去に妊娠の経験がございますと、身体が妊娠の変化を記憶していて、想像妊娠の状態になることがあります」


 「たしか、前の医官もそう言っていた。リウ医官だったかしら」


 楊徳妃は苦しそうに寝台の上で寝返りを打った。浮腫む体の重さ、想像妊娠の悪阻などが彼女を苦しめているのだろう。そして何より彼女の心にかかる負荷。今、皇后が妊娠中であるというだけでも、流産を経験した彼女には堪えるだろう。


 熱で足がむくみ、三寸金蓮ではなくなると龍帝は訪れなくなった。それが彼女に深い影を落としていることは容易に想像がついた。


 杏雪はほのかに照らされた楊徳妃の顔を見た。そして気づいた。豊かな黒髪、そして顔の雰囲気が父が話してくれた母の姿に重なった。


 そして杏雪は自分が抱いていた可能性の点を線で結ぶことができた。龍帝の寵愛を受けている妃嬪たちに杏雪は会ってきた。神美シェンメイ皇后、ヤオ貴妃、シェン淑妃、ヤン徳妃。彼女たちはそれぞれ、どこかしらに雅蘭と似た面影を持っていた。


 神美皇后は、華やかで妖艶。大人になった雅蘭の面影を。


 姚貴妃は、少女のような無垢さ、我儘な美しさ。少女時代の雅蘭の面影を。


 沈淑妃は、大胆で快活。雅蘭の自由で明るい性格の面影を。


 楊徳妃は、纒足で自由を失い従順になった苦しみの時代の雅蘭の面影を。


 杏雪が会ってきた寵愛を受ける妃嬪たちは、それぞれが分散して雅蘭を象徴していた。誰もがどこかしら母と似た面影があるとは思っていたが、その中でも楊徳妃の容姿は父が話してくれた母の姿にそっくりだ。


 「熱による後遺症、浮腫みには浮腫み取りの薬膳を。想像妊娠には月のものを促す薬膳茶を、それぞれ調えさせていただきます」


 杏雪がそう言うと、楊徳妃は「そう」とそっけなく返した。浮腫みが取れ、三寸金蓮の足を取り戻したとしても、子が流れた事実は変わらない。心を癒すのを補助する薬膳はあれど、全てを綺麗さっぱり解決する術はない。


 杏雪は部屋の隅に控えていた花琳と虞淵に目配せをして、厨を借りることになった。


 月経を促す薬膳茶は、紅棗、当帰、生姜、黒糖を使い濃厚な甘みと当帰の独特の薬香が立ち昇る。そこに血を補う、玫瑰花(ばらの蕾)、陳皮を加え、花の香りと仄かな渋味、柑橘の後味をですっきりさせる。朱色に染まった湯の中に、薔薇の蕾がそっと開き、花弁がゆるやかに揺れた。


 「婦人養生、紅棗当帰紅花玫瑰茶ナツメトウキホンファメイクイちゃです」


 まずは心を落ち着かせることが先だと、杏雪は食後ではなく食前に茶を出した。寝台から女官たち二人がかりで背を支えられてなんとか上半身だけ起き上がった楊徳妃は、杯から直接、茶を飲むことも難しかった。

 

 小さな銀製の匙で茶を一口分掬いながら、なんとか彼女は薬膳茶を完飲した。杏雪は楊徳妃の女官たちに薬膳茶の調合した茶葉を渡し、月経が来るまで定期的に飲む方が良いことを伝えた。


 紅棗当帰紅花玫瑰茶は工芸茶のように湯を入れると、蕾が開き、目にも楽しい。少しでも楊徳妃の心が凪いでくれればいい。


 想像妊娠はその「妊娠」を形作っている何かが壊れれば自然と治る。数日から数週間後には月経がまた始まるだろう。そうすれば体は妊娠していないと判断し、元に戻るはずだ。心も元に戻れば簡単なのだが。


 「わぁ、花が咲くみたいでしたね。あのお茶。とっても綺麗です」


 杏雪の隣で茶葉の調合を見ていた花琳は思わず、頬を赤らめて少女らしい無邪気な反応をした。


 「楊徳妃様も花琳みたいに喜んでくれたらいいケド」


 虞淵は空になった杯を見た。そこには茶葉の欠片と花弁が張り付いている。まだ楊徳妃が茶が綺麗などと言う小さなことに喜びを見出す余裕はなかったようだ。彼女は茶を飲むのに精一杯で、見た目など気にしていなかった。


 小さな匙の一口だったが、それでも咽せて吐き出しそうになるのをなんとか堪えて飲み込んでいたのだ。


 杏雪は楊徳妃は高熱により気の巡りが乱れ、さらに下肢に水が滞ってむくみが出た。三寸金蓮の纒足靴が入らないほど張りつめた足を軽くするため、「気を巡らせ」「肝のこわばりをほどき」「余分な水を流す」という三つの働きを一皿にまとめた薬膳を考えた。


 まずは虞淵と花琳に用意してもらった材料を並べる。


 鶏肉は消化しやすく補気して疲れを支える。 香橙は柑橘で気を巡らせる。花椒は、気の乱れを整え、温めて流しやすく。陳皮は理気・健脾。青豆は軽やかさを添え、脾を助ける。少量の酢は巡りを促進し、赤小豆は利水・むくみに。冬瓜は身体に負担なく水を動かすため。


 まずは赤小豆を下ゆでし、軽く食感が残る程度に煮ておく。鶏肉は蒸してから軽く焼き目をつけ、余分な脂を落としておく。冬瓜は角切りにし、香橙皮・陳皮とともに軽く蒸す。鶏肉に香橙の果汁・皮、花椒、少量の酢を加えて香りを立てる。最後に冬瓜と赤小豆、青豆を合わせ、鶏の旨味を吸わせるように軽く煮絡める。


 杏雪は蒸した鶏肉を火であぶり、ほのかな焼き目をつけると、香橙の皮と花椒を和した香り高い調味をそっと絡めた。鍋の隅では、冬瓜と赤小豆が澄んだ甘さを湛えながら静かに揺れている。


 楊徳妃のため、蒸し鶏は柔らかくほぐしておくが、焼き目をつけたため香ばしさも残っていた。


 「調いました。調気舒肝・香橙こうとう椒鶏ジャオジー、利水補脾を添えて」

 

 香橙の酸と花椒の麻がふわりと立ち上ると、荒れた気が流れ出す気配があり、冬瓜の透きとおる汁気が、それに続くように重だるさをゆるめていく。その一椀は、楊徳妃の胸のこわばりと足の張りを、静かにほどくための薬膳だった。


 ほぐして小さくした蒸し鶏を、女官たちが箸で掴み、楊徳妃の口元へと持っていく。小さく口を開けた楊徳妃は蒸し鶏をよく噛んで嚥下した。


 「ご飯がおいしいと感じたのは、いつぶりかしらね」


 小さくぽつりとつぶやいた。その言葉を聞いて、周りにいた女官たちは涙ぐんでいる。杏雪は浮腫みを改善する薬膳をまた作りに来ると女官たちに告げ、楊徳妃の寝室を後にしようとした。


 「杏雪」


 それを楊徳妃が呼び止めた。「何でしょう」と杏雪が振り返ると、楊徳妃はまだ身体を起こしているのが辛いはずなのに、敷布を掴みながら苦しさを隠すように言った。


 「索蒙スォモンはどうしようもなく、壊れたものしか愛せない」


 沈淑妃の友人だからか、それとも彼女自身も龍帝の妻として感じてはいたのか、龍帝の異常性と杏雪への執着を知っていたのかもしれない。そして楊徳妃は忠告めいた言葉を残した。


 それは杏雪にその志が折れることはないように、壊れることはないように、という激励だったのかもしれない。

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