二十七話 太医丞
柳太医丞との後宮での面会は虞淵の頑張りにより許可された。杏雪は虞淵がどうやって龍帝を雅蘭の遺品だけで説得したのか、教えてもらうことはなかった。虞淵は「秘密」と笑って誤魔化すのだ。
柳太医丞こと柳 大海とは後宮の医局の場所を借りて会うことになった。外部の医官は治療など必要な行為をするため以外に妃嬪の宮には入れない。杏雪の住む露葉閣は実質的には医女の診療所だが形式的には群主の住まいになっているから、そこで会うのは駄目なのだ。
本当は龍帝が男を杏雪の住まいに入れたくないだけなのかもしれないが。
医局の調薬室を借りて、柳太医丞との面会の場にした。医局の宦官医たちは外廷の偉い人がくる緊張半分と、「男」が来る嫌悪感半分という具合に慌ただしく動いていた。
身近にいる宦官が虞淵なので、杏雪はあまり気にしたことがなかったが、騾馬と罵られる宦官たちは外廷の男たちを嫌っている。自分が無くしたものをもっている憧憬のような恨みのようなものがある。
調薬室の天井の梁からは乾燥させている薬草などが垂れ下がっていて、杏雪が改造した薬膳閣を彷彿とさせた。柳太医丞は杏雪よりもう早く来ていて、厨子から紫檀の箱を取り出していた。几に置くと厨の戸棚にしまっていた薬碾を持ってくる。薬碾は、薬草などを挽く道具である。
箱の蓋を開けて乾燥させた矢車と檳榔子の実を薬碾に放り込んで、慣れた手つきで挽いていた。
「医局の一室を借りているので、少し手伝いをしておりました」
宦官医たちが恐縮してしまいそうなことをやっている。しかし、医局の調薬室はまるで柳太医丞の自室かのように馴染んでいて、杏雪はこの人は順応する力が高いのかもしれないと思った。
柳太医丞は三十くらいの若い男だった。杏雪はもっと老齢な医官を想像していたので、少し驚いた。親戚だからか、顔に少しだけ父の面影を感じる。長い黒髪を後ろで無造作なお団子に束ねていたが、髭は剃られていた。神華帝国の男は髪を長く、髭も伸ばすのが美とされていたから、髭を剃っている柳太医丞は歳よりも若々しい印象を受けた。
「医女の杏雪と申します。楊徳妃様の診察をされた柳太医丞ですね」
杏雪は拱手して、頭を下げた。後ろに控える虞淵と花琳もそれに倣う。柳太医丞と会う条件の中には密室で二人きりにならないこと、必ず宦官を同席させることが含まれていた。
「ええ。確かに、楊徳妃様を診察したのは私です」
柳太医丞は淡々と答えた。でもその言葉の中に、こんな小娘が医女を名乗っているのかという呆れのようなものが見えた。柳太医丞には沈淑妃の願いで熱の後遺症に苦しむ楊徳妃の治療を頼まれたと事前に事情を説明している。
柳太医丞は診察記録に熱は心因性の可能性ありと書き出していたが、表向きでは熱の原因は不明ということになっている。これは医者の失態であると当時はかなり責められたらしい。原因不明ではあるが、治療し解熱したから、首が飛ぶのは免れたものの、当時はかなりの緊張感が漂う空気だっただろう。
楊徳妃を治療する医者の後釜が、杏雪という若く技量が未熟な医女であることが気に食わないのだろう。
「楊徳妃様の診察記録を拝見いたしました。柳太医丞は楊徳妃様の熱を心因性とお考えですか」
柳太医丞は頷いた。そして、杏雪の目を見据えた。この男が若くして出世し太医丞になった理由が眼光の鋭さからわかった気がした。彼には燃えるような野心がある。
「ときに、医女の存在価値とは何だと思う?」
柳太医丞はそう杏雪に問いかけた。この問いを誤魔化したり不誠実な答えをすれば、きっと彼は心を開かないだろう。
「女、という立場で医者であるということです。私は実際に後宮で患者と接してきました。多くの女性は男性に肌を見せるのを嫌がります」
杏雪はこれまでに接してきた患者たちを思い浮かべた。吹き出物を恥ずかしがった王婕妤などを筆頭に、患者たちは月のものに関する話などは恥じらった。しかし、女であるという理由だけで安心して話してくれたのだ。
「医女の職分の主なものは産科だ。宦官医では不可能な領域を医女で補う」
産科以外にも、肌に触れる按摩や鍼灸は医女の職分であった。柳太医丞の目がぎらりと光った。杏雪を医女──否、同じ医者として相応しいか見極めようとしているように見える。
「茶をお淹れします」
杏雪は調薬室に備え付けられていた火を入れた風炉に釜を据え茶を煮出しす。銀製の塩台から塩をつまみ湯に加え、煮えた茶を匙で杯に注ぐ。
「柳太医丞にわざわざ御足労いただいたのに、気遣いが足りておりませんでした」
杏雪は侘びながら、杯を差し出した。茶の香りが広がる。柳太医丞は杏雪が直々に茶を入れたことに珍しいものを見るような目で見ていた。杏雪がそばに控える花琳などに茶を淹れるのを頼むと思っていたのだろう。
柳太医丞が茶に口をつけたのを確認すると、杏雪も杯に口をつける。柔らかな湯気と清澄な香りに包まれた。
「薬膳茶、養心安神の竜眼百合茶です」
竜眼肉、百合根、大棗、甘草少々混ぜて茶葉と調合したものだ。杏雪は柳太医丞に微笑みかけた。
「目の下にうっすらと隈が見えます。お忙しい柳太医丞にはこの茶が合うかと思います」
柳太医丞の眉が動いた。杏雪の観察眼に驚いたのだろう。こんな小娘にはわからないだろうと、なめられていたのかもしれない。しかし、これで杏雪の医女としての実力を少しは示せただろうか。
「…なるほど。形だけではないようだな」
柳太医丞は少しは杏雪を認めるような発言をした。
「産科を担当する医女のあなただから、教えよう。楊徳妃の熱が心因性だと考えた理由は、楊徳妃が熱の前に流産を経験されたからだ」
初めて聞く話だった。初期に流れてしまったから、懐妊の噂は広がらなかったらしい。
「そして当時、楊徳妃は想像妊娠の状態にあった」
柳太医丞の言葉に、杏雪は息を呑んだ。想像妊娠。実際には妊娠していないのに月経が止まり、悪阻が始まり、腹は膨れ、胎動を感じたり、乳房が張ったりする症状だ。書物でそのような状態になる人がいると症例では知っていたが、実際に聞いたのは初めてだった。
「楊徳妃の想像妊娠の状態は心と密接な関係がある。しかし、私はそれを解し治療する前に後宮から立ち退かねばならなかった」
楊徳妃が解熱したから、医官の役目が終わってしまったのだろう。しかし、医者としての役目は終わってなどいなかった。楊徳妃はまだ治療が必要だったのだ。
「私の治療を引き継いでくれないか。ずっと心残りだった」
柳太医丞の瞳は真剣だった。杏雪もその気持ちは同じ医者として痛いほどわかった。
「わかりました。楊徳妃様の心に配慮しながら治療にあたります」
杏雪は柳太医丞の意思を引き継ぎ、背負いながら治療に当たらねばならないと覚悟した。人の思いを背負うということは、こんなにも重いのかと実感した。




