二十六話 憎悪
「お嬢?」
虞淵が心配そうに杏雪を呼ぶ。杏雪は自分が脂汗をかいていることを悟られぬように、無理矢理にでも微笑んで見せたが、ぐしゃりと歪んだような虞淵と花琳の顔から失敗したのがわかった。
「母は、大丈夫でしたか」
杏雪が震える声で尋ねると、虞淵は杏雪に一抹の不安も与えまいというように深く頷いた。
「智衡がすべてよくしてくれたワ。それがきっかけで、雅蘭様は智衡に嫁ぎたいと言い出すようになった」
虞淵の言葉に杏雪は安堵から息を吐いた。知らずのうちに呼吸が浅くなり、息を止めていたらしい。禁忌の子はなかったことになったらしい。杏雪は自分が、その禁忌の子ではないことに深く安堵した。
「楊徳妃様の診察のために、どうにかして柳太医丞に会わなきゃなりませんね」
花琳が困ったように言った。話を今に戻すのと同時に、彼女なりに気を遣って杏雪を辛い過去から引き戻してくれた。花琳は杏雪に「医女であれ」と伝えているのかもしれない。
「そうですね、花琳。どうにかして龍帝陛下を説得できるだけの材料を集めなければ」
杏雪は一瞬にして雅蘭の娘である杏雪から医女の杏雪への意識を引き戻された。龍帝が後宮に特例で医官を入れる許可を与えてくれるものは何だろうと考えた。あの、ぎらついた獣のような目。杏雪を雅蘭として、女として見たあの目。
龍帝が一番欲しがっているのは杏雪自身なのかもしれない。しかし、この身体を毒を抜きにしてもくれてやるわけにはいかない。杏雪に残った自尊心のために。
「皇后陛下みたいに泡菜の贈り物で懐柔できれば楽なんですけどね〜」
花琳がため息と共に吐き出した。龍帝を懐柔するのは至難の業だ。皇后の時は、妊娠中の彼女が悪阻のせいで泡菜を欲しているという情報を手に入れて利用した。
龍帝には和藩公主として国を滅ぼした後の凱旋の儀式で何度も会っているが、奴隷や珍しい品物を献上されようとも浮かれた様子を見せず形式的にしか返事をしない。きっと何を貰っても嬉しくはないのだろうと杏雪は思っていた。
「龍帝陛下が喜びそうなもの。アタシにチョットだけ考えがあるワ」
虞淵が明るい声で提案した。花琳は「何ですか。小姐!」と虞淵の頼もしい様子に思わず笑顔になっている。
「それは、アタシたちの手の中にすでにあるワ。露葉閣の中にあるのヨ」
虞淵が露葉閣の中にあるといったのは、雅蘭の遺品だった。公主時代の雅蘭が愛用していた披帛があるらしい。それが入った桐箱を抱えた虞淵は一人で龍帝に謁見すると言った。
「お嬢は来ちゃだめヨ。アタシが何とかするワ」
虞淵は心配させないようにわざと明るく振る舞い片目を閉じて笑って見せた。虞淵だって本当は複雑だろう。露葉閣を長年管理して、雅蘭の遺品を守ってきた。虞淵にとっても大事な遺品を、龍帝に渡したくはないだろう。
しかし虞淵は雅蘭の遺品を龍帝に渡すという屈辱的なことをしてまで、「今」の杏雪を助けようとしてくれているのだ。杏雪は感謝しても仕切れなくて、涙が滲んだ。
「お嬢、泣かないノ。美人が台無しヨ?」
杏雪は涙にも毒が含まれるので、素早く拭い取ったが後から涙は溢れて止まらなかった。そして杏雪は自分の心が自分で思うよりもまだ子供であり、大人の庇護を必要としていたことに気づかされた。巣から落ちて鳴いている雛鳥を思い起こさせた。
***
朱色の柱に巻き付いた金の龍たちが、厳しい眼で虞淵を見下ろしていた。龍帝への謁見はすぐに通った。露葉閣の管理者であり、雅蘭について話があると言えば龍帝はすぐさま飛びついた。
その執着が恐ろしくもあり、今は利用できることにありがたさも感じる。
「帝国の太陽、龍帝陛下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
虞淵の態度に龍帝は怒った様子はなかった。形式を崩しているというのに、二人を結ぶ雅蘭という共通の思い出が龍帝の牙を丸く削っているかのようだった。
「そのような口上は不要だ。雅蘭の遺品を持っていると聞いた」
五級階の壇の上に置かれた玉座で大男の肩が動いた。玉座は金箔・彩色・朱漆・玉装飾に彩られ、龍の紋章があしらわれている。天蓋からは金の鈴と玉飾りが下げられていた。
美しく整えられた眉と髭が豊かに生えている。獣の血走ったような印象を受ける目をしていた。
「はい。こちらに」
虞淵は披帛が入った桐箱を見せた。龍帝の手は今すぐにでも触りたいというように宙に浮いた。
「杏雪様が医女として、楊徳妃の治療のために柳太医丞の後宮への立ち入りを許可していただきたく参りました」
虞淵の言葉に、龍帝はただ媚びるために遺品を献上しに来たのではなく取引しに来たのだと気付いたようだった。獣の血走ったような熱のある瞳の温度が下がって冷たくなっていく。
「柳太医丞か…。確か歳は三十に差し掛かったあたりだったな」
髭を撫でなら、龍帝は柳太医丞のことを考えたのだろう。虞淵は、太医丞という太医署の次官がまだ三十に差し掛かったあたりというほど若い人物であることに驚いた。虞淵の記憶にある太医丞は白髪の老人だったはずだが、虞淵が後宮に引きこもっている間に代替わりがあったらしい。
「楊徳妃様の治療だけでなく、柳太医丞との面会は杏雪様を医女としてさらなる高みへ導く学びの場になると考えております」
虞淵は頭を下げた。群主の杏雪が医女として立場を確立するということは後宮という場所に根を張るということだ。自分の手元である後宮から杏雪を出したくない龍帝にとっても利のある話ではあるはずだ。
寵妃である楊徳妃が治るかもしれないし、杏雪も手元にいる。
「柳太医丞は三十。十八の娘の恋人であってもおかしくはないな。杏雪の周りに男が余以外にいるのは許せん」
龍帝はそう呟いた。その言葉に虞淵はぞっとした。冷や汗が背中を流れていく。龍帝は杏雪の相手を自分以外に許さないのだろう。杏雪と柳太医丞は会ったことはないのだから、恋に発展していないが、龍帝は杏雪の個人的なこと。色恋にまで口を出そうというのか。
壮年に差し掛かった大男が、姪に性愛を向けているという状態が異常であった。虞淵は奥歯を噛み締めた。こんな男に雅蘭様は…、と亡き主人の無念を思った。
「龍帝陛下。心配なさらずとも、杏雪様は毒で身の清らかさを守っております」
虞淵は龍帝の会話の温度に合わせた。それがたとえ心にもない演技だとしても、杏雪を龍帝の性愛の対象として差し出しているようで、虞淵は吐き気を堪えた。目の前にいる邪悪の権化と、それを利用するために穢らわしい言葉を吐いた自分に。
龍帝は低く、くっくっくっ…と堪えるように笑った。
「たとえ、毒に痺れようとも愛しの雅蘭が残した娘の肌のきめの細かさ、柔さ、白さを知るのは余だけで良いのだ」
龍帝の言葉に虞淵はきゅっと喉を鳴らして唾液を飲み込んでしまった。ぎりぎりのところで雅蘭の毒が杏雪を守ったのだと悟ったのと同時に、杏雪が怖い思いをしていたことは事実なのだと分かったから。
あの小さな背中に何を背負っていたのか、虞淵は本当にはわかっていなかったのだと後悔した。初めて会った時から、虞淵は杏雪を第二の雅蘭にはしないと誓っていた。
「余は必ず、あの哀れな娘を解毒してやる。二度と離さない。永遠にだ。我が愛はあの哀れな娘を包むであろう」
龍帝は満面の笑みを浮かべた。虞淵は心の中で、お前が愛を語るな虫唾が走ると吐き捨てた。そして龍帝が杏雪を守っている毒の解毒に意欲的であることを知ることができた。これは情報として有用だ。どれだけ気色悪い情報でも、杏雪を守るためには持っていた方がいい。
「あの娘は余の比翼なのだ。天にあれば比翼の鳥、地にあれば連理の枝。杏雪はいずれ玉座に昇るであろう。余の隣で未来永劫、輝き続けるのだ。血も心も身体も繋がり、まさに余は扶桑大帝東皇父、杏雪は王母娘娘だ」
龍帝の夢想に耽るような話ぶりに、虞淵は何度目になるかわからない悪寒を感じた。表向き、皇后のために造られたとされる王母娘娘廟の中の姿絵は雅蘭に似ていた。だから、今でも龍帝は雅蘭に執着していると思っていた。
しかし、今の話ぶりから龍帝の執着の対象が雅蘭から杏雪に明確に移り変わっている。そして、龍帝は杏雪を妻にできるのであれば、今の皇后を廃してもいいと考えているのだ。もし、杏雪が解毒できてしまえば龍帝は杏雪を皇后にするだろう。
そして龍帝の中で、血のつながりは性愛の対象にするための障壁でも、何でもないのだ。龍帝は雅蘭にしたことに罪悪感など感じていないのだろう。
龍帝は「同じ」であることに安心感を覚えるのだろう。血が同じということは、彼にとって比翼と表現するほど自分の理解者になれると考えている。
「龍帝陛下、これは絶好の機会にございます」
虞淵はぐちゃぐちゃに荒れ狂った心に蓋をして、微笑みを浮かべた。
「柳太医丞の刀圭の一族の知識は、杏雪様を解毒する手がかりになるやもしれません」
龍帝は虞淵の言葉に少し目を見開いて口角を釣り上げた。醜悪な笑顔だった。自分以外の男が杏雪に近づくという拒否反応を見せていたのに、杏雪が真に自分のものになる近道という餌をぶら下げればこのように笑うのかと、虞淵は恐れを抱いた。
「これは、ほんのお心にございます」
虞淵は改めて桐箱を差し出す。龍帝の側に控えていた宦官の芳がそれを受け取って龍帝のそばへと持っていき、桐箱の蓋を開けた。虞淵は同じ空間にいたのに、龍帝の異常さを目の当たりにしながら平然と振る舞っている芳にも恐れを感じた。
龍帝は感極まったように微かに震えながら手触りを確かめるように、披帛に触れた。かつて雅蘭が身につけていたもの。それを懐かしむように、または肌をまさぐるかのように指は這った。
そして龍帝は披帛に包まれるようにして隠された何かに気付いたのだろう。慎重に披帛を捲ると、龍帝は絶句した。
「ひっ、ひぃ! 何だこれは。このようなものを龍帝陛下に献上して許されると思っているのか!」
そばにいて中身を見たのであろう芳が青ざめながら叫んだ。虞淵はにやりと笑う。
「雅蘭様が龍帝陛下に残した、最初で最後のものにございます」
暗に杏雪はお前に残したものじゃないという意味を込めながら、虞淵は自分を奮い立たせて怪しげに笑った。
中に入っていたのは、胎児の木乃伊である。虞淵が古い文献を読み漁り、堕胎された胎児を保管していた。智衡が無かったことにしてくれた、禁忌の子である。
龍帝は胎児の木乃伊を見ただけで、その胎児が雅蘭と自分の子であることがわかったのだろう。口元の笑みは消え、顔は土気色になり脂汗は吹き出して、怯えるように震えている。
虞淵は雅蘭のように自分の胎の中で蠱毒を行う、人間蠱毒を行ったことはない。しかし、腹の中で憎悪という毒をずっと飼い続けてきた。雅蘭は無かったことにした胎児を利用したことは怒るだろうか。生まれてこれなかった胎児は虞淵を恨むだろうか。これは自己満足に過ぎない。
人間蠱毒が人の業から生まれた毒であると広義に解釈するのであれば。これは、千種の毒を使わず純粋に憎悪だけで練り上げた人間蠱毒だ。




