二十四話 桃を思う
「夷狄討伐は快進撃だそうだ」
保湿のために薄く蜂蜜を塗った自然な淡い血色を持つ唇が動いた。化粧で引かれた紅のような派手さはないが、杏雪はそういった自然そのままの素朴な美しさを好む沈淑妃の感性を好ましく思う。
沈淑妃は西から伝来した小麦粉で作る胡餅を食していた。杏雪も胡餅を食す席に呼ばれ同席している。胡餅の表面には胡麻がまぶしてあって香ばしく、中には蓮の実を練り物にした餡が入っていてほっくり甘い。
「夷狄討伐には火族の騎馬隊が主戦力だから、私は同胞の損耗が少ないように祈るしかない」
胡餅を齧った沈淑妃のその瞳に同胞への祈りが込められていることがわかった。
「水師が多い水族は、今回は出番がないだろうな。姚貴妃が羨ましいよ。…おっと、愚痴っぽくなってしまったな」
沈淑妃は忘れてくれ、と笑った。しかし、彼女が同胞を心配していることも、姚貴妃に少し羨ましいと感じていることも事実なのだろう。
夷狄と呼ばれる騎馬民族は、かつては火族も同じ暮らしをしていた。氏族こそ違えど、火族は農耕を主とする民族とは相容れないところがある。火族は今回の夷狄討伐で複雑な立場に置かれていた。
火族が主戦力として使われるのも、同じ騎馬民族の夷狄を倒すことで神華帝国への忠誠を試しているのだ。五族共和を謳いながら、神華帝国は薄氷の上での平和を築いているに過ぎない。
「私も、今回の夷狄討伐は無事に終わって欲しいと願うばかりです」
杏雪は胡麻の油分で濡れた指先を布巾で拭いながら、呟いた。
「確か、夷狄討伐を率いるのは董将軍だな。お前を毒姫として使っていたのは、彼だったな。知り合いが危険な地にいるのが不安か?」
沈淑妃が尋ねた。董将軍は火族出身の将軍なので、沈淑妃も知った顔なのだろう。彼女と共通の知人がいたことを知った。
「董将軍は強い方ですから、さほど心配はしておりません。私はまた戦があるなら毒姫として戦地にいくことを強要されるとばかり思っていましたから、こうして後宮で医女のままでいれることに少々驚いております」
杏雪は自分が思っていたそのままの気持ちを伝えた。龍帝と友人のように親しい沈淑妃なら、杏雪が戦場に送られなかった理由を知っているかもしれないと少し探りをいれたのもある。
「お前、今年でいくつになった?」
沈淑妃が突然、尋ねた。杏雪は疑問に思いながらも答える。自分の歳が何の関係があるのだろうかと。
「十八になりました」
遊牧民族の侵入に抵抗して「誠節夫人」に封ぜられたある刺史(州の長官)の妻や、異民族侵入の際に同じく功績を上げた「徇忠県君」に封ぜられたある県令(県の長官)の妻がいる事例を考えた。八十歳以上の女性を郡君にしたという事例もある。
しかし、杏雪は特別に長寿というわけではない。ただのありふれた若い娘である。命婦には月ごとに銭と米が、春と冬には絹と真綿が、それぞれ支給される。
公主の収入源は食実封。荘園主でもあった公主たちは、田園や碾磑(石臼のこと。転じて、製粉業を指す)を経営したりする。加えて駙馬(公主の婿)の収入もあることがある。杏雪の群主としてそういったことはしていない。医女として働いているだけだ。
「歳が何か関係あるのでしょうか」
杏雪は戸惑いを隠せず、沈淑妃に尋ねた。沈淑妃は眉を下げて、悲しみを堪えるような表情を見せた。
「雅蘭の享年だ」
沈淑妃は出来るだけ淡々と答えたように見えた。杏雪は母の名前を突然聞くことになり、戸惑った。母は今の杏雪と同じ歳で出産した。この歳で、麻酔が効かず意識を保った状態で腹を裂かれたのだと想像するだけで、杏雪は悲しくなった。
人間蠱毒に手を染めなければ、麻酔は効いたのに。いや、そもそも人間を産む気じゃなかったから難産になるなんて思っていなかっただろう。そもそも龍帝がおぞましいことをしなければ、母は人間蠱毒で復讐を企まなかった。
「索蒙は雅蘭に関して特別な思いがある。だから、お前を手元に置いておきたいんだろう」
特別という言葉にどれほど複雑な思いを込めていたのかを杏雪は知らない。妻という立場でありながら、索蒙の執着も愛も自分には向いていないということを沈淑妃はわかっているのだろう。
だから彼女は女らしく振る舞わないのかもしれない。妻以外の立場を探しているのかもしれない。
「夷狄討伐、第一皇子が功績を上げたら、索蒙は第一皇子を皇太子に据えるだろう。そうすれば選秀女が始まるよ。杏雪、噂で聞いたが第一皇子から贈り物を貰ったそうじゃないか。好いた仲なのか? こっそり教えてくれよ」
沈淑妃は身を乗り出して、机に頬杖をついた。その行動が様になっていて、彼女が女官たちから「かっこいい」と人気がある理由がわかった気がした。
「…特に深い意味はないと思われます。姚貴妃様より、臭いについて指摘がありましたので、昊天殿下が気を遣い蟠桃の香を贈ってくれました」
「深い意味はない…ねぇ…」
杏雪の言葉に沈淑妃は面白そうに口の端を吊り上げた。
「風水では桃・橘・柘榴は三甘の実と言われ幸運を運ぶ果実だ。桃は古来より邪気を払い妖魔を退けるとの伝承その呪力から『天下無敵』と呼ばれる」
沈淑妃の指摘に、杏雪はもしかしたら蟠桃の香をつけることにより姚貴妃に侮られなくなるように、「天下無敵」になるようにと願いを込めたのかもしれない。杏雪は桃にそんな意味があったのなら、深い意味はないと期待を切り捨てた自分がその意味の深さを探ろうとしてしまうような気がした。
「桃は花も愛でられるが、その実も美しく香り高く、食べれば甘い。それ故『貴女の虜』という意味で男が女に婚姻を申し込む時に贈ったりするそうだ」
沈淑妃が語る言葉に、杏雪は昊天の真意がどうなのかが気になって胸が苦しくなった。最初は自分に病気の症状が出たのではないかと疑ったが、王婕妤の言っていた嬉しい痛みを思い出した。これが嬉しい痛みであり、恋の味なのかもしれない。
「蟠桃の香は希少で高価だ。深い意味はないとお前は言うが、好いた相手に贈るような品だぞ。それでお前は深い意味はないと考えるなら、第一皇子は可哀想だなぁ」
沈淑妃はからかうように笑った。杏雪は期待してはいけないと諌める自分の声が、鼓動でかき消されていくのを感じていた。
「まぁ、今は色恋に浮かれるよりも地道に医女としての地位を固めていきたいとお前は思っているのだろう」
沈淑妃はそれ以上、杏雪をからかうことなく勝手に納得してくれた。杏雪はその言葉で熱を持ち始めていた胸の中に冷水を浴びせられたような気がした。昊天とのことを根掘り葉掘り聞かれなくてよかったと安心する反面、先程胸が嬉しく痛んだのが間違いだと言われているように思えた。
浮かれていた。その一言に尽きるだろう。蟠桃の香の意味も、昊天の選秀女が始まるかもしれないという現実も。たとえ、昊天をどれだけ大切に思っていたって、杏雪が選秀女に参加できない。
体内にある毒を考えれば、基準である健康な身体を満たしていないことになる。
「あなたを普通の女の子に戻したい」という昊天の言葉を思い出した。昊天は普通の女の子にしたいではなく、戻したいと言った。杏雪は生まれた時から毒を持ち、普通であったことなど一度もないのに。それでも杏雪は昊天の中では元は普通の女の子だったと認識されていたことが、なんだか泣きそうなくらい嬉しかった。




