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二十三話 龍の手先

 夷狄討伐の戦況の報せは神陽シェンヤンに正確には届かなかった。ただ快進撃とだけ伝えられていて、神華シェンファ軍が優勢という情報は民たちを湧き上がらせた。その熱気は後宮にも届いていた。


 しかし、杏雪シンシュエは戦場にいた経験から前線が死屍累々の状態であっても士気の低下を防ぐために隠すことを知っていた。


 「ご無事で…いますよね」


 杏雪は窓から外を眺めた。墨を含んだような黒い雲が近づいていた。


 今日も診察を終えて露葉閣ろようかくには静寂が訪れた。雨が降り出しそうだったので、急患でもない限りは患者は訪れないだろう。その代わり雨が止むと大量に押しかけることもある。


 「ごめんください。医女様に診ていただきたいのです」


 雨の中を小走りで門に駆け寄り、屋根の下に入ると雨露を払いながら、その宦官は現れた。腰には魚符を下げている。


 魚符は鯉の形を模した作り物で、金・銀・銅で作られ身分によって持てる材質が変わる。魚符には出兵の時に用いる兵符と、五品以上の官が携帯する佩身符があり宮城の門や城門を通行するときに用いる「開門符」を兼ねていた。


 なぜ鯉の形を模しているかというと、鯉は昇龍魚であり出世への願掛けと龍帝の配下であると言う身分証明の役割があった。そのまま龍を模ったものを身につけるのは恐れ多いという理由で鯉になったそうだ。


 宦官がわざわざ医女の元に来るのは珍しいな、と杏雪は思った。妃嬪たちは女性の医者を指名する理由があったりするが、彼らは医官で構わないのだ。


 「どうされましたか」


 杏雪が問いかけると、宦官は杏雪を試すように見つめた。その不躾な視線に虞淵ユィユエンが視界を遮るように立ち塞がってくれた。


 遠雷が鳴り響き、不穏な空気を出していた。


 「アタシが助手としてつくワ」


 虞淵が小声で杏雪に耳打ちした。患者が女官ばかりなので中には宦官である虞淵に肌を見せることに抵抗がある者もいる。そのため、診察の手伝いは主に花琳ファリンにやってもらっていた。虞淵は薬膳の食材調達などを主に行なってもらっていた。


 「魚袋を見た?」


 虞淵が不安そうに呟く。杏雪は小さく頷いた。魚符をつけているということは、龍帝に深い忠誠を誓っている証でもある。


 魚袋は魚符を入れる袋だ。その宦官が下げていた魚袋は紫衣に金魚袋。正三品以上を示す。緋衣に銀魚袋の場合はは正五品以上を示す。この宦官は只者ではない。


 宦官はファンと名乗った。


 「いやぁ、噂の医女に診てもらいたく。季節が移ろい、体調が安定しませんので」


 芳は笑みを浮かべていたが、瞳だけは杏雪を試すように鋭く光っていた。杏雪は彼が、龍帝の手の者であることを何となく感じ取っていた。杏雪が医女として、適切であるかどうかを確かめに、この芳という男を遣わしたのだろう。


 杏雪は手袋をしっかり嵌めているのを確かめてから、望診、聞診、問診、切診の四診を終えた。調査にきたのだろうから、病状は全くの仮病ではないかと疑っていたが、体内の気が乱れていることは確かなようだ。


 「薬を調えます。少々、お待ちください」


 杏雪はそう言って厨に引っ込んだ。厨の中には花琳が心配そうに様子を伺っていた。虞淵から芳という宦官の魚袋のことを教えてもらったのだろう。龍帝の息がかかった患者ということで警戒しているようだ。


 杏雪は緊張で、がちがちになっている花琳を安心させるように微笑んだ。


 「杏雪様、今日の薬膳は?」


 杏雪の変わらない様子に少し安心したのか花琳が尋ねた。


 「炸山菜てんぷらです」


 杏雪は籠いっぱいに盛り付けられた秋の山菜を目の前にした。


 竹の子、独活、樰芽など、春菜ではなく、秋の初めに芽吹く「返し菜」を選んで揚げたもの。粉には砕いた山薬と川芎が混ぜられ、ほのかに香る苦みが残っている。


 「これは薬でありながら、毒を制する膳。山菜は大地の中で毒を吸い、同時にそれを浄化する力を持ちます」


 腎に溜まった毒を排出する薬膳。からっと揚がった衣が剥がれないように箸でそっと掴んで油を吸うための紙の上に載せる。膳は籠の形を取り、山から摘んできた山菜がそのまま揚がったかのように演出した。


 一見して庶民の皿だが、緻密に選ばれた素材は、身体に潜む倦怠や湿気を静かに押し出していく。


 「ほう、これが噂の薬膳ですか。質素な食材を見事に昇華していますね」


 芳は感心したように薬膳の見た目に対して賛辞を贈ると、箸で炸山菜てんぷらを掴んだ。さくっとした衣が歯で軽く噛みちぎられる。


 揚げ物ゆえに、脂っこくなってしまうのは避けたい。さくさくと軽い食感でありながら、衣が剥がれず舌の上で解けるように粉を調整して独自の配合をしたものだ。

 山薬と川芎を粉に混ぜたおかげで、揚げた衣でありながらすっきりとした後味を作り出している。


 芳は炸山菜てんぷらを口に含んで、しばらく考えるように咀嚼した。


 「これが医女の薬膳なのですね。奥深いです」


 芳は杏雪が薬膳に施した工夫を舌の上で見抜いたかのように呟いた。芳の様子を観察していた虞淵が緊張を隠すかのように唾を飲み込んだのがわかった。こちらは芳の行動全てに何か意味があるのかと神経を尖らせている。


 「ただの飯事ままごとかと侮っていましたが、認識を改めねばならないようですね」


 芳は化け狸のように意地の悪い笑みを浮かべた。彼が今まで人好きのする微笑みで懐柔しようとしていたのだと、この時気づいた。本当に密かに杏雪の調査に来るなら、魚符は隠すはずだ。


 彼は堂々と龍帝の手先として現れ、圧をかけて杏雪を試していたのだ。


 「薬膳、ありがとうございました」


 芳はそう言うと露葉閣ろようかくを後にした。彼が去った後、虞淵は張り詰めていた息を吐き出していた。それにつられたのか、花琳は腰が抜けてしまいしばらく立てなくなった。


 「花琳、大丈夫ですか?」


 へなへなと床に座り込む花琳に、杏雪は驚いて声をかけた。虞淵すらも気を抜いたら、花琳のように座り込んでしまいそうになるのを気丈に保ち、花琳の腕を掴んで引き起こそうとしていた。


 「こ…こわかった…。だってあの魚符…偉い人の…」


 花琳は震えながら、呟いた。


 「ファンは龍帝の友人のような宦官ヨ」


 長く宮廷にいた虞淵には、魚符と顔を見ただけで芳が龍帝の側近であることを見抜いていたようだ。だから、虞淵は杏雪を庇うように芳の視線から守った。


 「龍帝陛下はなぜ芳さんを遣わしたのでしょうか」


 杏雪は震える肌をさすりながら、呟いた。虞淵が震えに気づかないふりをして、何でもないように答える。


 「龍帝陛下はお嬢を医女のままにしたくないんでしょうネ。だから、自分が信頼し目になってくれる芳に調査を頼んだ」


 医女じゃなくなった杏雪は龍帝の元で()になるのだろうか。考えただけでそれはおぞましいものだとわかった。


 「芳さんは私の医女としての仕事をただの飯事ではないと認識してくれたと思います」


 杏雪は自分を、そして虞淵と花琳を落ち着かせるためにそう話した。花琳はようやく虞淵の助けを借りて立ち上がれたところだった。


 「杏雪様は、生涯を医に捧げてください」


 花琳の言葉は力強く、どんなに龍帝の圧力があれど折れるなと杏雪を奮い立たせた。たとえ、医女の身分を剥奪されようとも、心まで医ではなくなってしまうのは避けたい。


 「わかっています。花琳」


 杏雪は花琳の存在が、罪悪の象徴でありながらも救いでもあることにもどかしさを感じながらも、自分は生きていくしかないのだと思った。

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