二十一話 痛み
その日、露葉閣には第一皇子である昊天が訪れていた。
「女官たちの待遇改善をしたそうだね。立派な心がけだと思う」
昊天の顔は穏やかだった。しかし、杏雪は皇后と接触したことで、杏雪が皇后派閥に抱き込まれたのではないかと心配して昊天が様子を探りに来たのではないかと思った。
杏雪は後宮の争いに疎いところがある。医者は中立であるべきという思想と、今まで市井で暮らしてきた経験からだ。でも、後宮にいる限り争いから逃れることなどできないのかもしれない。
今の後宮の最大派閥は皇后、神美の派閥だ。彼女は金族出身で、金族出身の妃嬪たちは大抵皇后派閥に属する。
姚貴妃の出身である水族は金族と同盟関係にあったので貴妃の派閥も皇后寄りではあった。
逆に対立するのが沈淑妃の火族の派閥である。
「暑さで体調を崩すものが多く、薬膳閣では手に負えなくなるところでしたから。仁の心というよりは、自分のためです」
杏雪は褒められてすこし照れ臭くなりながらも、昊天が探りにきていることは何となく感じ取っていた。
「杏雪、あなたは謙虚だな」
正殿には杏雪と昊天の二人きりだった。他の侍従たちは部屋の外で待機させている。昊天が大事な話があるから、と人払いを命じたからだ。杏雪はそれがなんだか嫌な予感がしていた。
「今日はあなたに会っておきたかった。しばらく私は宮廷を留守にするから」
「何かあったのですか」
杏雪は尋ねた。心配が顔に出ていたのだろう。昊天は「そんな顔しないで」と眉を下げて、無理に笑った。
「秋になると馬に乗って敵がやってくる。龍帝陛下は私に夷狄討伐を命じられた。お飾りの将だが、出来ることはやってみるよ」
天高く馬肥ゆる秋という言葉がある。実り多き秋に馬に乗った敵がやってくるという意味だ。秋を待たずして夏の間にこちらから攻勢に出ようというのが、龍帝の意思なのだろう。
今回、毒姫の要請はなかった。杏雪は医女だから戦場には出さないという龍帝の配慮ではないことは容易に想像がついた。索蒙は杏雪を手放す気がないのだ。
後宮に留まって自分の手中にいる理由が見つかった。それは杏雪を侵略の武器として国家に有用に運用するよりも、索蒙にとって重要なことだろう。
索蒙は杏雪が身に宿す最強の毒によって触れることができない。足を壊すことができないから、杏雪は脱兎の如く逃げ出してしまうと考えているのだろう。
「あ…」
杏雪は「行かないで」という言葉が喉まで出かかった。そしてその言葉が出る前に萎んでしまうと、次に浮かんできた言葉は「私も連れて行ってください」だった。しかし、それは杏雪が毒姫に戻るということだった。
杏雪は軍医か何かとして帯同できないかと思ったが、索蒙が許すわけがないとと思った。
「行く前に、あなたの手を握ってもいいだろうか」
昊天の言葉に杏雪は「でも毒が…」と手袋をしているのに、手を引っ込めてしまった。昊天との思い出が素手でふれあい温もりを感じたと色濃く残ってしまっていたから。
「あなたの痛みを覚えていたいんだ」
昊天は優しく笑った。杏雪の中でその言葉は青天の霹靂ともいうべきものだった。杏雪は初めて触れた人の温もりだったが、昊天にとっては痛みの記憶だったのだと深く思い知らされた。
そして、痛みだというのにそれすら覚えていたいと言った昊天に、杏雪は自分が他人に痛みしか与えられない身体を呪った。しかし、痛みすらかき抱くような昊天の覚悟を嬉しくも思ったのだ。
この人はもしかしたら全身が痺れて焼け爛れるような痛みに襲われても、杏雪を抱きしめてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いた。
「痛い…ですよ。本当に…」
杏雪は恐る恐る手袋を外した。青い血管が透ける白い肌の手のひらを、昊天は躊躇うことなく掴んだ。やはり、掴んだ瞬間は痛みで顔を歪めたが、彼は無理をして笑った。酷いことだとは思うが、与えられるのが痛みしかないのなら、杏雪は自分の痛みを昊天に生涯忘れないで欲しいと思った。
「あなたは生きている」
昊天は確認するように呟いた。蝋のように白い肌に死体を連想したのかもしれない。しかし痛みがあるからこそ、杏雪が生きていると確認できる。
「あなたの毒を解毒する策を探していた。夷狄たちの間にはジャダ石という家畜の結石が嵐を起こすらしい。何かあなたを解毒する方法があるかもしれない。それを探すよ」
昊天は痛みに耐えながらも、強く杏雪の手を握った。杏雪の痛みを覚えておくと同時に自分の体温を杏雪に覚えておいてもらいたいのではないかとすら思った。
「不老不死の霊薬の丹だったり、色々とあなたの毒について調べた」
「なぜ、そんなことを?」
杏雪は目を見張いて尋ねた。人間蠱毒の解毒。そんな考えを今までしたことがなかった。
「このままではあなたは、また毒姫として利用されるかもしれない」
それは杏雪の望むところではなかった。杏雪が毒姫に戻れば花琳との約束を守れない。
「あなたを普通の女の子に戻したい」
昊天の目には確かな光があった。杏雪は嬉しさで涙が出そうなのをくしゃりと笑うことで誤魔化した。この人は灰色の世界の中に突如現れた青だと杏雪は思った。
太子しか使えない藍と鬱金を決まった配合で重ね染めしなければならない特別な青。
昊天、名前通りの夏の澄み渡った青。その空の青だけが眩しかった。
「ご武運を…」
杏雪はそれだけを絞り出した。
***
痺れの残る片腕を眺めていた。侍従たちが鎧を磨き、馬を準備している。
「またご一緒しましたな。昊天殿下」
煙管を吸いながら董将軍が柱に背を預けていた。今回、共に出陣するのは董将軍だ。
「此度の夷狄討伐…国境の農村を守るという名目のもと、夷狄の呪術を調べよとの龍帝陛下の命令だ。いったいどうしたものでしょうな。今まで殲滅せよ、とは言われたが調べよなどと言われたことはない」
董将軍が煙を吐き出した。
「龍帝陛下は毒姫を解毒する術をお探しです」
昊天は痺れの残る手を握りしめた。口の中は食いしばりすぎて、血の味がした。
「姫様も、花の盛りを迎えられましたからな。色は違えど、雅蘭様そっくりで…」
董将軍の瞳には遠い過去を振り返るというよりは思い出したくないものに無理矢理目を向けて苦しんでいるように見えた。
「龍帝陛下は杏雪を手籠にする気です」
昊天は握りしめていた手が爪が食い込んで血を流していることに気づかなかった。
「皇后陛下は私が夷狄討伐で死ぬことを望むでしょう。私は大人しく生きていくつもりだった。帝位は弟に譲って、王に冊封され封地で静かに過ごしたかった」
董将軍は昊天の田舎でゆっくり過ごすというような望みを「つまらん」と吐き捨てた。
「母が青梅で死ぬのを眺めるしかなかった無力な私が、毒姫として諦めて生きる杏雪に重なりました。杏雪は私だったのです」
だからこそ、今は医として生きている杏雪は雪の照り返しのように眩い。それを龍帝のおぞましい欲で塗りつぶしてなるものか。
「私は帝位を目指します。杏雪が安心して生きれる世をつくります」
昊天の言葉に、董将軍はにやりと笑った。
「それでこそ、覇王の相だ」




