二十話 泡菜
北側にある北宮、別名を中宮という皇后の宮は雅な朱色の柱、金銀豪華絢爛に飾られた屋根。屋根上には伝説の竜や燦然と輝く金色の細工が目に眩く咲き誇る花々は瑞々しい。
皇后の宮は三重の垣に囲まれ、内・中・外の三区に分かれている。
外苑は広大な庭園が広がり、曲折した朱塗りの回廊が池の周囲をめぐる。池には白蓮が浮かび、夜には灯籠の光が水面に映る。蓮の合間を錦鯉が泳ぎ、幻想的な風景が広がっていた。
中苑は女官や侍女たちの居所、衣装庫、香料を調合する「香房」などが並び、常に沈香の香が漂う。麝香や伽羅といった高級な香木が惜しげもなく使われていて、杏雪は勇気を出すためにつけてきた蟠桃の香が、かき消されてしまうのではないかと不安になった。
内苑には、「鳳華殿」と呼ばれる正殿があり、金箔を貼った龍鳳の文様が梁を飾る。床には錦の敷物、天井には透かし彫りの雲龍模様がめぐる。
杏雪が拝謁を許され、正殿へと入る。皇后、神美の鳳冠には龍鳳があしらわれている。
厳粛な式典では十二龍九鳳を被るがこれは略式なので三龍二鳳だ。冠の中央に配された龍は口に一つの宝珠を含み左右に配された二匹の龍は顔の横まで垂れる一連の明珠をそれぞれ加えている。
瑪瑙と真珠を交互に連ねた耳飾り、優美な光沢を放つ紅珊瑚の首飾り、向かい合い番の龍を模った腕輪。百花咲き乱れる七宝の指甲套が指で輝いている。吉祥文様が鮮やかな香り袋を腰から下げていた。
床には花文を織り出した毛氈が敷かれていた。美貌に優れた黒地に銀刺繍が映える宦官服を身に纏った宦官たちに孔雀の羽を使った扇で仰がせていた。額には花鈿が美しく、目尻と唇に乗せられた紅は光沢があった。
「皇后陛下に拝謁いたします」
杏雪が頭を下げ、後ろに控えていた花琳と虞淵が杏雪よりも深く頭を下げた。
花梨彫刻四件櫃、珊瑚翡翠の玉雕花、水晶の柱、珊瑚の瓦、真珠の帳、鸚鵡の羽の絨毯。皇后の宮は贅沢に溢れていた。
「免礼。面を上げよ」
神美は椅子に座って優雅に杏雪を見下ろしていた。
「いきなり、医女が何の用か? 腹の子に何かあったなら、責任が取れるのかえ?」
神美の懐妊が発覚したのは梅雨の最中だった。夏の盛りに入った今、腹は少し膨れているもののまだ衣服の着方次第では誤魔化せる範囲だった。
杏雪は群主であり、産科も担当する医女という立場から皇后の懐妊を知っていたが、皇后は信頼している医官にばかりかかり医女である杏雪にお呼びがかかったことはない。
「本日は皇后陛下にお願いしたいことがあり、参りました」
杏雪は務めて冷静に口を開く。華美に装った神美の威圧感に押されてしまわないように。皇后の神美の噂は後宮の何処でも聞けた。彼女は派手好きだが、その贅沢を龍帝に咎められることもない。
彼女は今、第二子を妊娠中で第一子の皇子はまだ六歳だった。彼女はこのまま昊天が帝位につき、自分の子供が王として冊封されることを望んでいないと噂だ。
沈淑妃の話を聞いて、あの噂も真実なのかもしれないと杏雪は思っていた。皇后は龍帝が閨で他の女の名前を呼んでも、許す女だという噂だ。
「わらわに阿るには、ちと遅かったな。そなたが後宮に来たときに、真っ先にわらわに頭を下げにくるべきだった」
神美は口をまっすぐに引き結んだ。杏雪を睨みつけているように見える。彼女からすれば夫の寵愛が姪に向いていることが気に食わないのだろう。
杏雪は知らず知らずのうちに皇后と寵愛を競う存在になってしまっていた。
「私は群主としてではなく、医女として後宮に来たと思っておりました。たかが医女風情が皇后陛下に直接ご挨拶するのは憚られたのです。無礼をお許しください」
杏雪の言葉に神美はふんっと鼻を鳴らして美しい紅が引かれた唇を歪めた。
「わらわはそなたを呼んでいないし、たかが医女風情がわらわに謁見しにくるのも気に食わぬ。そなたは今、どの立場で物を申しておるのだ?」
杏雪は一瞬、言葉に詰まった。群主としての立場を利用するなら、後宮に来た時に挨拶するべきだった。あの時の杏雪は柄にもなく浮かれていたのだ。自分は医女だと信じ切っていた。
群主というもう一つの立場が杏雪を縛る足枷になっているとも知らず。皇后に謁見できたのは群主という立場があったからだ。
「申し訳ございません。私は今は医女です。しかし群主でもある、という自覚が足りておりませんでした。本日は皇后陛下にご挨拶の品をお持ちいたしました」
杏雪は目線で花琳と虞淵に合図をした。二人は小さく頷くと、正殿から出て用意した贈り物を持ってくる。布が被せられ盆に乗ったそれを、神美の目が冷たく見つめていた。
珍しい宝石か、布か、毛皮か。神美にとってつまらない贈り物をしたら、きっと杏雪は許されないだろう。
虞淵が盆に乗った布を取り払った。そこには蓋のついた器が載っている。花琳が器の蓋をあけると、酸味と辛味の酸辣麻の香りが漂った。
「皇后陛下が悪阻の際に所望されていた辛い泡菜にございます。医女としての私、そして群主としての私からの贈り物にございます」
杏雪は震える手を握りしめて、震えを誤魔化した。御膳房の者たちから聞いていた。皇后は最近味覚が変わったのか、辛い泡菜を所望するようになったと。
御膳房の料理人たちはまだ懐妊のことは知らなかったが、味覚が変わったと何となく感じ取ってはいた。そこで杏雪は皇后の懐妊を龍帝から知らされていたため、情報がつながり、皇后は悪阻に苦しんでいるのではないかと仮説を立てた。
泡菜は野菜を生姜、唐辛子、大蒜、花椒などと塩水に漬ける漬物である。杏雪は漬け込むのに時間がかかり、このような時期になってしまったと謝罪した。
しかし、この泡菜は皇后に謁見に行く前に急遽、準備した浅漬けである。しかし、深く漬け込んだような風味になるように、裏技を使っている。
まず、浅漬けの泡菜の漬け汁に発酵乳と味噌を少し加えて常温で放置することによって軽い発酵を促し、まろやかな酸味と旨味が出るようにする。
そして、米酢と砂糖、昆布茶と醤油を少々足して酢の酸味で熟成させたような深みを出した。
皇后があまりにも辛い泡菜をよく所望するので、御膳房に保存されていた熟成された泡菜は底をつき、他の泡菜はまだ漬ける期間が足りないという事態に陥っていた。
そのせいで、皇后は最近は泡菜にありつけていないという状態だった。悪阻の期間は食べられるものに制限がかかることがある。神美にとって熟成された辛い泡菜は今、喉から手が出るほど欲しいもののはずだ。
無意識だろうか。神美は唾を飲み込み、「こきゅ」と喉がなる。
「……そなたからの贈り物。受け取ってやらねば、そなたの面子もあるからな。受け取ってやろうぞ」
神美は贈り物を受け取った。杏雪の目論見通りだと花琳が顔のにやつきを止められなさそうなのを裾の下で虞淵が軽く花琳の足を踏むことで止めていた。
「ありがとうございます、娘娘」
杏雪は改めて頭を下げる。
「後宮女官たちにお優しい娘娘のお慈悲を賜りたく存じます」
神美の気は杏雪よりも、先程送られた泡菜に向けられているようだった。虞淵の手から皇后の宦官に泡菜が渡されるのを皇后は無意識に目で追ってしまっているようだった。
「女官が何か罪を犯して嘆願にきたのか?」
神美は興味はないような顔をしていたが一応、尋ねてくれた。
「女官たちは薄粥一杯で過酷な労働についております。王母娘娘の生まれ変わりとも言われます、皇后陛下に麒麟の如き慈悲を哀れな女官たち施してやってはもらえないでしょうか」
淡々と女官の現状を説くより、褒めて仁の心に訴える方が良いと杏雪は判断した。神美は暫く護甲で守られた爪を見ていた。
「…良いだろう」
神美が頷くと杏雪はまた深々と頭を下げ「娘娘の慈悲に感謝いたします」と礼を述べた。そして皇后の命令により、女官の待遇が改善され粥の他に蕎麦の実を練って焼いた饅頭や雑穀の餅が追加されるようになった。
***
「それにしても、よく騙されてくれたワネ」
皇后の宮を後にしながら、胸を撫で下ろすように虞淵が呟いた。
「杏雪様が浅漬け泡菜を熟成泡菜に誤魔化したんですから、大丈夫ですよ! 匂いは熟成に似てますし、今は食べ比べなんてできないんで、騙せますよ」
花琳が誇らしそうに杏雪を見つめた。花琳には記憶を頼りに誤魔化した泡菜が熟成泡菜と似ているかを味見して確認してもらった。
「そうじゃなくて…」
虞淵も味見したので泡菜の味については文句がないようだったが、虞淵が言いたいのは別のことらしい。
「お嬢は、泡菜を漬ける期間がいるから贈り物が遅れたって言い訳したケド…。お嬢が後宮に来た時には、皇后陛下の妊娠は明らかになってなかったじゃナイ」
「あ…」
虞淵の言葉に、花琳はこの誤魔化し泡菜の致命的な穴に気づいたのか口を大きく開けた。
「ふふ…。私たちは未来を予知していた、ということになりますね」
杏雪は微笑んだ。杏雪が後宮に来たのは春。皇后の妊娠が発覚し、辛い泡菜を食べ始めたのは梅雨から。皇后は後宮に来て真っ先に挨拶しに来なかったことを怒っていた。つまり、この言い訳は時系列がおかしいのだ。杏雪は春から泡菜を漬けて準備していたことになる。
「今の皇后陛下は、悪阻と来たる出産に備えて、私たちの泡菜の矛盾には気づきませんよ」
杏雪は悪戯っぽく笑った。




