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二話 毒姫

 救護部隊の天幕には、腐臭が漂っていた。桶には切断された手足が入っていて蛆が湧いている。蝿が飛び回って、耳の周りを旋回しているかのようにうるさかった。


 昊天ハオティエンは吐きそうになる口を手で押さえた。ドゥイ国の都を囲むように設営された野営地の天幕の一つに、毒姫と称された杏雪シンシュエはいた。


 動きやすい胡服に着替え、下衣ははかまである。白い前掛けと手袋は血で黒ずんでいた。口元を清潔な白い布で覆い、髪は簪で器用にお団子にまとめられている。


 杏雪はよく動き回り、腐り始めた兵士たちの手足をきつく縛り上げて切断した後、火で炙った刀で傷口を止血していた。


 「布をしっかり噛んでいてください。いきますよ」


 杏雪は猿轡のように布を噛ませて、蛆が湧いている壊死した足を一思いに切断していた。足が壊死していた兵士は布を歯が割れてしまうのではないかと思うほど、強く食いしばって絶叫していた。


 「こ…これは…」


 あまりにも凄惨な状況に昊天は言葉を失った。すると、そこへドン将軍が現れ、怪我人たちは将軍が直々に自分たちを見舞いにやってきてくれたことに歓声をあげていた。


 しかし、そんな歓声の中でも浮かれることなく杏雪は水を含んだ布巾で怪我人の体を拭き、包帯を取り替えたり、骨折した患者の腕に添え木をきつく巻きつけたりしていた。


 「董将軍、彼女がなぜこんなことを?」


 昊天が尋ねると、董将軍は髭を撫でながら答えた。


 「刀圭の一族出身で、昔から医の心得があるそうです。彼女が望むので、怪我人の治療をさせています」


 昊天も怪我人を見舞うことによって士気を高めようとした打算があったことは事実だが、まさかそこで若い姑娘むすめが腐り蛆が湧く人体に臆せず、適切な治療をしているなんて思いもよらなかった。


 彼女は名乗った時に、刀圭の一族の娘だと名乗った。刀圭の一族とは医の名門の家系であり、典医を輩出している。


 杏雪の父、 智衡ジーヘンの名は聞いたことがあった。腕のいい宮廷医官であったが、死体を切り刻むという死者への冒涜行為により、一族から追放された男だ。


 怪我人の治療が終わったのか、杏雪が顔をあげた時、昊天と目があった。彼女は一礼すると、昊天のそばまできた。腐臭が漂う天幕の中で、彼女だけが花のような、果実のような甘い匂いをさせていた。


 「昊天殿下、顔色が悪いです。この天幕は腐臭がしますので鼻に詰め物と口の中に生姜の欠片を噛んで含んでおくと、いくらかましです」


 そう言って杏雪は腰から下げた小巾着から、布と生姜片を取り出した。中には他にも生薬の粉末に蜜を加えた蜜膏剤みつこうざい、生薬に煎液や絞り汁に糖を加えて、更に煮詰めた糖漿剤とうしょうざい、生薬の煎液に蜂蜜を加えてさらに煮詰めてから醋を加えた醋蜜剤すこざい、乾燥させた薬草や丸薬などが入っていた。


 姑娘が持つ飾りの小巾着ではない。医者が持つようなものだった。


 「姫、私には何もないのですか?」


 生姜片を渡された昊天に対して、揶揄うように董将軍は杏雪に尋ねた。


 「董将軍は血の臭いがお好きかと思って」


 杏雪は口元を袖で隠しながら、微笑んだ。


 「確かに。私は血の臭いに昂る。戦場こそが私の居場所だ」


 董将軍は昊天が顔を顰めた腐臭さえも、自分を昂らせる材料なのだろう。人々は董将軍を英傑と称えながらも、裏では戦闘狂と揶揄する。女であろうと子供であろうと行手を遮る障害物は踏み潰してきた男だ。


 そんな男に龍帝が預けたのは、珠のように美しき毒。その毒を手に入れてからの董将軍の戦い方はより斬新に大胆に、より姑息になっていった。


 董将軍はドゥイ国の残党の掃討作戦を練るために自分の天幕へと戻っていった。杏雪は先程、治療していた患者が痛み止めが効いたのかやっと寝息をたて始めたのを確認すると、天幕の外へ出た。昊天はその後に続く。


 「あなたは毒姫だと聞いた」


 昊天は尋ねる。そして尋ねてから少し後悔した。毒姫という単語に、杏雪の顔が曇ったからだ。董将軍は何げなく使っていたが、毒姫という言葉は彼女にとって蔑称に近いのかもしれない。


 「私のことをそのようにお呼びになる方もいます」


 杏雪の返事は雪のように冷たく、本心を白く覆い隠してしまうようだった。


 「あなたは對王の暗殺を成し遂げた。その身のうちに宿る毒で…ということらしいが、私にはあなたは普通の女の子にしか見えない。あなたが毒を持っているとは俄かに信じがたいのだ」


 昊天は自身の疑問を包み隠さず打ち明けた。この時に虚飾で言葉を飾れば、彼女の本心には届かないだろうと思ったからだ。


 「私の毒は人の業により、生まれ出たもの。人にしか効きません。龍帝陛下は私を和藩公主に任じ、他国を侵略なさることを思いつきました」


 杏雪は自身の手を覆う手袋を見つめた。


 「昊天殿下は私の毒を信じていらっしゃらない。しかし、昊天殿下に毒を使って証明しようにも、殺してしまうわけにはいかない。困りました」


 杏雪は真顔で首を傾げた。眉ひとつ動いておらず、困っているようには見えないが、杏雪の言葉を信じるなら今、彼女は困っているのだろう。


 杏雪は自分の髪を一房、掴んだ。その髪は白銀に輝き、雪の積もった雪原を彷彿とさせる。


 「私の髪、色素が抜けていますでしょう。これは毒の影響です。私ははらの中にいたときから、母体が摂取した毒を摂取し、幼少の頃からさまざまな毒を摂取してきました。汗にも微量な毒が含まれていますので、触れると痺れるでしょう」


 これで毒の証明になったでしょうか…と杏雪は昊天に尋ねた。


 「確かに珍しい髪の色だが、遠い異国には薄い髪の者がいるらしいし、我が国にも白子と呼ばれる色素が薄い人もいる」


 昊天がそう言うと杏雪は「疑い深いのですね」と微笑んだ。猫のような目が昊天を見つめる。


 「年若い姑娘に戦場は似合いません。こんな、非人道なこと、天も麒麟もお認めにならない」


 昊天は毒姫を武器として扱う董将軍にも、杏雪を武器と定めた父である龍帝にも怒りが湧いていた。


 「あなたは普通の女の子だ。本当は人殺しを望んでいないはずだ」


 血まみれで董将軍を待っていた杏雪の姿を見て、昊天は痛々しさを感じた。彼女の衣服についていたのは全て返り血だったが、昊天には杏雪が傷だらけで体から血が吹き出しているような気がした。それが痛々しくて、思わず目を背けたくなった。


 「ですが、私は武器です。この毒を有効に活用するための董将軍の作戦は見事です。龍帝陛下もそれを望んでいます」


 杏雪の言葉は昊天を納得させようと言うよりは、自分に言い聞かせているようだった。


 「それは他者の望みだ。あなた自身の望みではない」


 昊天がそう言うと、杏雪は拠り所を失った迷子のように目を彷徨わせた。彼女の信じてきたものが昊天の言葉により、破壊されて混乱しているのだろう。


 「毒である、武器であると言うのなら怪我人を治療しなくてもいいはずだ。そしてあなたは刀圭の一族だと名乗った。毒姫としては名乗らなかった」


 昊天の指摘に杏雪は目を見開いた。無意識にやっていたことなのかもしれない。


 「確かに、刀圭の一族として…医の娘として生きられたら、と願ったことはあります。しかし、私の体液は触れるだけでも痺れるほど強力です」


 杏雪は手袋を片方外して見せた。爪は綺麗に清潔に保たれ、桜貝のように可愛らしく指先にくっついている。一見すると、ただの若い娘の手だった。


 「見た目ではわかりません。しかし、この手は間違いなく人を殺すのです」


 「人殺しが本当にあなたの望みか?」


 昊天が尋ねると、杏雪の瞳は揺れた。人を殺すことに快感を感じる者もいるだろう。董将軍がまさにその性質を持っている。ただし、彼は獣ではなく理性ある人間だ。董将軍は敵だと認識したら容赦がないが、味方には慈悲深い。


 「怪我人を看病し、治療する姿のあなたは立派な医であり、毒姫だとは思えなかった。武器は人を癒すことはしない」


 杏雪は昊天の言葉に驚いているようだった。手袋をしていない方の手を見つめる。先程「人を殺す」と言った手だ。しかし、手袋越しとはいえこの手で人を救ったこともまた事実だと、昊天の言葉で気付かされたのだろう。


 「私は毒であるより薬でありたい。医でありたい…」


 掠れたような呟きを昊天は聞き逃さなかった。


 「あなたは医になれる。人を助ける薬になれる。その素質を持っていると私は思う」


 昊天は力強く頷いた。杏雪から出た願いが、潰されてしまわないように。


 「私は皇后の策略に敗れ母と共に、冷宮に幽閉された。食べ物もろくに与えられず、そのわずかな食料のほとんどを私に与えた母は正気を失い、飢えに苦しんで、まだ熟れていない青梅を食べて死んだ。私は梅が毒に化けるなど知らなかった」


 昊天は自分の過去を語った。幼少期の記憶は灰色で冷たい。母が摘み取って貪るように食べた青梅だけが鮮やかに記憶に焼き付いている。昊天は梅干しの酸っぱさや、梅酒が苦手だ。梅やその花を見るたびに、母のことを思い出す。


「梅が毒に化けるように、毒も薬に化けるはず。あなたは毒のまま終わっていい存在ではない。杏雪シンシュエ

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