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十九話 革新

 リー才人さいじん杏雪シンシュエの診察に満足すると、「また食べたいから病気にならないかな」と本気とも冗談ともつかない言葉を残すと、輿に乗って帰っていった。


 「果汁ジュースの飲み過ぎ…。まぁた、揚げ芋の食べ過ぎみたいな理由でしたね」


 花琳ファリンは李才人の症状の原因からワン婕妤しょうよのことを思い出したのだろう。下級の妃嬪に慢性的に蔓延る、心理的圧力とそれを発散するために食に走るという行動は深刻なのかもしれない。


 シェン淑妃しゅくひも拉麺の塩分で疲れやすく浮腫んでいた。後宮の食は贅を極めただけであり、気の巡りには配慮していないのかもしれない。食生活の指導、そして薬膳は後宮に吹く新たな風なのだろう。


 「お嬢、次の患者ヨ」


 虞淵ユィユエンが診察室に次の患者を通した。衣服から尚食局の女官であり、妃嬪たちに配膳する係の者だ。


 「医女様、このところ食欲がなくなりました…。一食でも抜いてしまえば仕事にならないのに、食べられないのです! 私は…何か重大な病気なのでしょうか…」


 顔が土気色になりぐったりとした女官が入ってきた。妃嬪にはこの時期、鵲豆ふじまめという暑さや湿気を取り除き、胃腸の働きを調える生薬が混ざった米の粥が朝粥として出される。しかし、女官たちの食は蕎麦の実や雑穀を混ぜた薄い粥しか出ない。


 ただでさえ貧相な食事なのに、それにありつけないとなれば命に関わるだろう。


 杏雪は手袋をしっかりと嵌めていることを確認してから、普段通り診察を始める。女官の症状は胃に熱が溜まっているのだろう。夏の暑さにやられたのだ。


 「薬を調えます」


 杏雪はそう言って厨に向かった。畑からもぎたての瑞々しい野菜が揃っていた。露葉閣ろようかくの庭の一角を畑にして薬草などを育てている。畑の周りには彼岸花を植えて、悪臭と毒性で畑を守っている。


 桶に水が張られて、そこには日差しのように真っ赤な蕃茄トマトと深い緑の苦瓜が冷やしてある。花琳に畑に行って取ってきてもらったものだ。


 蕃茄トマトと苦瓜を一口くらいの大きさに切り、林檎酢を香り付け程度に垂らして和える。清熱、利湿、食欲増進のための薬膳。


 「調いました。苦瓜と蕃茄トマトの冷菜です」


 硝子製の透明な皿に薄く切られた苦瓜の輪が透けていた。女官は箸で苦瓜と蕃茄トマトを摘むと、口の中に入れた。林檎酢の酸味がさっぱりとしていて匂いもきつくないので、食べやすいだろうと杏雪が考えたものだ。


 さっぱりした酸味と仄かな苦味が心地よいのか、食欲ないと言っていた女官の箸は止まらなかった。


 「すごいです。あんなに食べられなかったのに、これは食べられます」


 女官の顔に多少の生気が戻った。しかし夏の暑さにやられている者たちは彼女だけではないだろう。抜本的な食事改善が必要だ。ただでさえ体力を奪われるうだるような暑さの中、薄粥だけで労働につけというのはひどい。


 「尚食局に女官の食事について掛け合いましょう」


 杏雪がそう提案すると、女官は申し訳なさそうに眉を下げた。


 「医女様にそこまでしていただくのは申し訳ありません…」


 女官は先程、卑しいくらいに箸を進めてしまったのを後悔したのか力無く箸を置いた。


 「いえ、同じ理由の患者が大量に発生すると薬膳閣でも対処しきれません」


 杏雪は恐縮する女官が薬膳を食べ終え、症状が緩和されたのを確認すると仕事場に帰した。女官は何度も頭を下げながら、杏雪に感謝を伝えてくれて杏雪はむず痒い思いをした。


 感謝されると自分が善人になったと誤解してしまう。この手は血まみれだけど、手袋で隠して。薬匙を振るっている間だけでも医女の手でありたい。それが杏雪の願いだ。


 杏雪は虞淵と花琳を引き連れ、御膳房に向かった。後宮の食事を作る調理場である。前掛けをした料理人たちが一斉に杏雪たちを見た。


 中には杏雪の白銀の髪を初めて見たのか明らかに怯え、目を逸らしたり、皿を落とした者もいた。そういえば、何か薬膳閣で足りない食材がある時は花琳か虞淵に出向いてもらっていたから、杏雪が来るのは初めてだった。


 自分の容姿がここまで恐れられることを突きつけられ、現実に引き戻された。今までの患者たちは内心は杏雪の容姿を不気味に思っていたかもしれなかったが、表には出さない優しさがあったのかもしれない。


 「化生ばけもの」と呼ばれ、子供たちに石を投げられたこともあるのを思い出した。そのときは、父が必死に庇ってくれた。


 「群主様…何用でございましょうか」


 尚食局の長である尚食尚書が前へ進み出て尋ねた。その呼び方に杏雪はここの人たちに医女ではなく群主だと思われていたことを知った。確かに杏雪のもう一つの立場ではあるが、杏雪が医女として必死にやってきたことは砂のように脆く積み上がらない。


 「女官たちの食事の改善を要求しにきました」


 杏雪の言葉に尚書はぽかんと口を開けた。食事が気に入らないと妃嬪が文句を言いに来ることはあっても、自分の食事ではなく女官の食事について言うとは思わなかったのだろう。


 そう考えれば、先程杏雪が直々に来たことにより龍帝の寵愛を受ける群主が文句を言いにきたのだと勘違いさせてしまったのかもしれない。索蒙スォモンの機嫌によっては料理人の首が飛ぶかもしれない。


 「女官たちは薄粥一杯で過酷な労働につかされています。もう少し食事の質を上げることはできないでしょうか」


 主人の豪華な食事の残りを下げ渡されることもある妃嬪付きの女官と違い各部署に配属された女官たちの食事はあまりにも貧相だ。


 「そうは言われましても…」


 尚書も困ったように顎を撫でた。


 「では、龍帝陛下に直接提案します」


 杏雪は息を吸って吐いた後、覚悟を決めてそう呟いた。虞淵が慌てたように「チョット!」と声を上げた。


 「お嬢が行くことないワ。そうならアタシが代わりに使者として行くカラ」


 虞淵の手はかすかに震えていた。彼が今、杏雪と雅蘭ヤーランを重ねていることはすぐにわかった。虞淵はもう二度と間違いたくないのだろう。


 杏雪はこの後宮に来て、身分の格差を思い知った。自分がどれだけ不自由でも後宮では恵まれている方だと知った。石を投げる子供たちから杏雪を庇った父の背中の広さを思い出しながら、今度は杏雪が弱い立場に置かれた女たちの盾になりたかった。


 「後宮の管轄は皇后陛下です。皇后陛下の承諾なしに、いきなり龍帝陛下に話を通すのは、止めた方がよろしいと思います」


 尚書は怯えたように杏雪に話した。尚書は無意識に自分の首を撫でていて、首が飛ぶかもしれないと言うことを恐れているようだった。


 「わかりました。では、皇后陛下にお話します」


 杏雪は気を抜けば、震え出しそうな身体を抑えた。北側の皇后の宮に行くと言うことは、龍帝の燕寝に近づくと言うことである。杏雪は母の毒を、愛を纏っている。何も恐れることはないと自分に言い聞かせた。

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