十八話 夏の陽だまり
夏は黄胆質の病が多い。発熱、下痢、脱水などだ。
「口の異常な渇き…ですか。口内を見せてもらっても? はい。口を大きく開けてください」
杏雪は手袋をした手で軽く顎を掴みながら、李才人の診察をしていた。才人とは二十七世婦に属する。婕妤と同じ二十七世婦だが位は低い。
患者の口内は乾いていて舌は赤く黄色い苔が確認された。熱が篭っているようだ。夏の乾熱による黄胆質病の典型的な例である。
「薬を調えます。お待ちください」
杏雪は拝礼して厨に下がった。下級とはいえ妃嬪がわざわざ露葉閣にまで赴いてくれることは珍しかった。彼女たちは妃としての矜持がある。自分の住まいに呼びつけるのが基本だ。
中には龍帝の寵愛を受ける杏雪を医女という立場だからと召使い扱いし、悦に浸るものもいる。龍帝の寵愛の群主をこき使うことで上に立ったと錯覚するのだ。
その点、今回の患者である李才人は誰に対しても礼節をわきまえる控えめな人だ。御渡りのない形だけの妃だと自分を卑下するようなところがある。花琳や虞淵に対しても態度が低いので逆に二人は困惑していた。
厨に入った杏雪に花琳と虞淵が心配そうな視線を向ける。
「お嬢、手伝うワヨ?」
「無理してませんか?」
虞淵と花琳が材料を用意しながら、杏雪を見つめる。二人が心から杏雪のことを心配してくれていることが伝わってきた。父が亡くなったとき、杏雪はこの世に味方はいなくなってしまったと思っていたが、ここには杏雪を心配してくれる人がいる。
虞淵は最初は雅蘭の娘だからと気を使っていただろうが、最近は杏雪自身を見てくれている気がする。花琳のことも復讐しようとした件があってから、深く理解できるようになった。
後宮は窮屈だけど、ここには虞淵や花琳がいて、何より昊天がいる。それが嬉しい。
「無理してませんよ。大丈夫です」
杏雪は二人の不安を取り除こうと微笑んだ。人から恐れられることが多かった杏雪だが、ここ最近は笑うことが多い。長年凝り固まっていた顔の筋肉が笑顔を作ることで、ぷるぷると痙攣するように震える。
台の上に食材を並べた。肺を潤す、清熱性の食材である梨。これまた肺を潤し、咳を止めたり精神を安定させる百合根。脾臓を補い安定効果のある蓮の実。
調和と緩和のための甘草。美肌と水の潤いの鳩麦。そして潤いを与えつつ、穏やかな甘みである氷砂糖を調整しながら足した。
「調いました。涼夏潤陽・梨百合氷湯です」
目の前に出された薬膳に李才人は目を輝かせた。匙で氷砂糖と梨の果汁が溶け合った汁と梨を掬い口に含む。梨は旬ではないので甘みは控えめだが、氷砂糖が甘さを補っている。
しゃりしゃりとした梨を咀嚼して、李才人はほっぺが落ちそうと呟いた。乾いた口が水分によって癒やされていき、喉の痛いほどの渇きが潤されていく。体に染み込む甘さが、李才人の顔を緩ませた。
李才人はもう一口、と少し急くように匙を掬う。今度は鳩麦の食感も加わり舌も楽しいのか目を細めて、溢れ出る甘さを余すことなく享受した。
「冷たい…。あんなに喉が渇いていたのに、身体に染み込んで涼しいわ」
李才人の熱ったように赤くなっていた肌も今は落ち着いている。薬膳が効き始めたのだろう。しかし、薬膳とは身体の気の巡りを補助するものであり、即効で効くものではない。それでも、李才人の絶え間ない喉の渇きが癒せたのならよかった。
「不思議だわ。果汁をいくら飲んでも、この渇きは癒えなかったのに…」
李才人は不思議そうに、薬膳の汁を匙で掬ってその清らかな水面を見つめた。杏雪は「…今、果汁と…?」と思わず聞き返してしまった。
「果汁では、逆に喉が渇くこともございます」
棗や野生りんご、杏などを茹でて濾して乾燥させ、粉末にしたものを水で溶かしたものを果汁と呼ぶ。
「それにこの薬膳、梨百合氷湯は氷室に保存されていた冬の霜を溶かした水を使っております。溶かした霜は体内の熱を取ります」
「まぁ! そうなのね!」
杏雪の知識に李才人は驚いたように声を上げた。杏雪は頭の中に覚えている医学書を開く。水を様々な種類に分類される。秋露は顔色を良くする、溶かした霜は体内の熱を取る、翡翠や鍾乳石などの珍重な鉱物を流れた水は延命に良い。
ただし、春季に溶けた雪は飲まないこと。これは病気になると信じられている毒だ。だが、毒は杏雪にとって栄養だ。以前、花琳に「白いのは雪でも飲んだのか」と尋ねられた時杏雪は「春の雪解け水を飲んだ」と答えた。
あながち、嘘ではない。白いのは毒の影響であり、春の雪解け水も毒だ。色々な毒が混ざり合って白銀の髪へと変化した。
「でも、普通の水ってちょっと苦味を感じるから苦手で…。果汁は甘いでしょう?」
水が苦い。李才人のその言葉に杏雪は李才人の味覚がおかしくなっていることを疑った。しかし、先程の薬膳の甘みは感じ取れているので、苦味だけを異常に感じやすいということだろうか。
「李才人様、もしかして酸味が強いものも苦手ですか?」
杏雪が尋ねると、李才人は頷いた。「苦いのも辛いのも酸っぱいのもぜーんぶ苦手!」とはっきり断言した。これは杏雪の感覚でしかないが、一つの可能性にたどり着いた。
「舌の感覚が過敏なのかもしれませんね」
そういう人がいる。感覚が過敏な人が。それは視覚かもしれないし、聴覚かもしれない。李才人は味覚が過敏だったのだろう。
「あの、医女様。李才人様は食の好き嫌いが激しく…。薬膳を主とする医女様なら、食の指導をしてくださいますよね?」
李才人のお付きの侍女が子供の好き嫌いを困っているかのように尋ねてくる。李才人は立派な大人だが、侍女はまるで母親のように見えた。
「味覚過敏は牡蠣、肝臓、赤身肉、木の実などを食に取り入れると改善する可能性があります」
杏雪がそういうと侍女は感心したように頷いた。李才人の味覚過敏は生まれつきのものかを尋ねると、入内する前後あたりから発症したことがわかった。
御渡りがない形だけの妃だと李才人が卑下したことを思い出した。彼女ももしかしたら王婕妤と同じく心理的圧力によって味覚過敏になったのかもしれない。
一人の男の寵愛があるか否か。それだけで心を病んでしまう人が後宮にはいったいどれだけいるのだろう。歪な形をした後宮という機関について杏雪は考えたが、杏雪は龍帝の寵愛がある側だと周りから見られている。
そんな杏雪に本当のことはわからないのかもしれないと思った。




