十七話 覚悟
目の前に湯気を立てた茶が置かれた。杏雪は一瞬だけ、自分が何処にいるのかわからずに戸惑った。霧の中に立っている様な気がしていた。
「お嬢、お茶よ。お嬢みたいに薬効があるワケじゃないケド…」
虞淵が気を利かせて、露葉閣に帰ってきた杏雪に茶を淹れてくれたのだとその時に気づいた。そういえば、花琳が椅子に座る様に促してくれていた気がする。
「ありがとうございます、虞淵さん」
杏雪は茶に手を伸ばしたが、茶の水面に映った自分の姿がおぞましく思えて、なかなか口にできなかった。
はじめて、自分が宮廷に連れて来られた日を思い出していた。父が病で亡くなった。貧しい人からは金を取らなかった父と杏雪の逃亡生活は決して裕福なものではなく、父は医者に罹る金が無かった。
杏雪は父の死体の横で一晩眠っていた。死体の冷たさに寂しさを感じながらも、これでもう父を殺してしまうんじゃないかと心配することは無いんだと安心していた。
病に臥しながら、父は杏雪に語ったことがある。
「杏雪、なぜお前は生まれながらに毒を持っているのか疑問に思っていただろう」
痩せて節が目立った父の手を手袋越しに握って杏雪は父の顔を見つめた。
「それはね、母さんが人間蠱毒という禁術に手を染めたからなんだ」
「蠱毒? 百種の虫を集め、大きなものは蛇、小さなものは虱と、併せて器の中に置き、互いに喰らわせて毒にするという」
それを人の腹の中で行うのが「人間蠱毒」である。
「本当はお前は生まれてくるはずじゃなかったんだ」
人間蠱毒によって腹の中にできるのは毒の集合体の奇形の肉塊であり、生きた赤ん坊が生まれてくるはずではなかった。しかし、何の偶然か杏雪は生まれた。
「でも、お前に出会った時…私は嬉しかったよ」
父は穏やかに微笑んだ。病の痛みで笑うなんてつらすぎてできないだろうに、無理して笑ったのだ。そうして息を引き取った。父を埋めるために時間がかかった。そして埋めた地に石で目印を付けた時に、龍帝の追手に見つかった。
わけがわからぬまま神陽に連行され、龍帝に謁見しろと放り込まれた。作法も何も知らない杏雪を、索蒙は優しく受け入れてくれた。最初、杏雪は愚かにも索蒙を優しい人だと勘違いしていたのだ。
そのあとは、思い出したくもない。でも、時々夜になると恐怖は襲ってくる。母の毒がなければ、杏雪はどうなっていただろう。索蒙は杏雪を雅蘭のようにもう二度と逃すまいと足を壊しただろう。
「杏雪様、様子がおかしいですよ。疲れたんですか?」
花琳が心配そうに杏雪に尋ねる。しかし、それを虞淵が「やめなさい」と止めていた。
「虞淵さん、気にしなくていいです。花琳にも心配かけましたね」
杏雪は心配ないということを示そうと茶を一口含んだ。匂いも味も感じられず、砂を噛んでいるかのような心地がした。
「それにしても沈淑妃様は…いろいろと豪快でしたね。閨の事情とか、普通は話したくないでしょ」
「チョット、花琳!」
虞淵が叱責するように花琳の口を手で押さえるが、遅かった。杏雪の耳には入ってしまった。事情を知らない花琳からすれば、急に沈淑妃が王母娘娘廟の話から、龍帝の夜の嗜好の話をしたように見えるのだろう。
「アンタはドジだけど、馬鹿じゃないと思ってたのに」
虞淵が軽く花琳の頭を叩いた。花琳は訳がわからないという様に目を白黒させ、叩かれた頭を労るように撫でた。
「いえ、重い話なので軽く笑い飛ばしてくれるくらいがちょうどいいのかもしれません」
杏雪は茶を飲み込んで一息吐くと、花琳に微笑んだ。彼女の無邪気さは、復讐を成功させるため杏雪を油断させるものかと思っていたが、彼女の素の性格なのだろう。「お嬢…」と虞淵が不安そうに呟く。
「雅蘭は私の母です」
杏雪の言葉に花琳は息を呑んだ。虞淵が顔を顰めて、やるせないように目を瞑り眉間の皺を指の腹で撫でた。
「えっ? でも、雅蘭って先帝の公主で龍帝陛下の異母姉…ですよね?」
同じ名前の別人かと思ったのか、花琳は「別人」だと言って欲しそうに虞淵と杏雪の顔を交互に見た。助けを求めているように瞳は揺れていた。
「はい。母は龍帝陛下と半分血のつながった姉弟でした」
杏雪がそう言うと、花琳は龍帝が閨の中で姉の名前を呼ぶと言う異常なおぞましさに気づいたのか吐き気を抑える様に口を押さえた。
「虞淵さんはご存知だったようですね」
杏雪は青い顔をしている虞淵を見つめた。
「アタシだって長く後宮にいるからネ。それに、露葉閣はもともと雅蘭様の住まいだったのヨ。アタシは雅蘭様付きだった」
それは杏雪にとって初めて知る情報であり、目を見開いた。思えば、虞淵は最初から杏雪に友好的だった。「お嬢」と親しげに呼んでみせたり。杏雪はそういう距離の詰め方をする人なんだと気にしていなかった。
「雅蘭様が住んでた時の露葉閣はこんなに綺麗じゃなかったワ。側室の子で、雅蘭様は当時の龍帝陛下から見向きもされなかった。今の露葉閣が綺麗なのは、龍帝陛下が雅蘭様に戻ってきてほしくて綺麗に作り直したのヨ」
母を再び迎え入れるために、綺麗に整えられた露葉閣が娘の杏雪にあてがわれたのは索蒙の執着を感じさせた。公主に与えられるはずだった住まいを身分が釣り合わない杏雪に与えられた。
姚貴妃の「私は蚕みたいなものだわ。後宮という繭の中でしか生きていけないのよ!」という言葉を思い出した。雷の様に鋭く、耳を痛めつけている。
杏雪にとって後宮は檻である。沈淑妃の言葉に杏雪が牢に繋がれることを望んでいるのだろうかと思った時を思い出した。もうすでに杏雪は後宮に閉じ込められている。
「王母娘娘廟には母の姿絵があるのでしょうか」
杏雪はぽつりとつぶやいた。沈淑妃の言葉を信じるならば、索蒙は天界の仙女──最高位に君臨する女神の姿を雅蘭にしたのだ。彼の中を雅蘭がどれほど占めているのかがわかる。
「あるワヨ。あの男なら、雅蘭様を飾るワ」
当時を知る虞淵の言葉は重みがあった。
「な…なんで、そんなこと。姉弟なのに?」
花琳の顔は青ざめていた。彼女も弟がいた姉なのだ。龍帝の気持ちがわからなくて混乱しているのだろう。否、そんなことよりももっと初歩的なところかもしれない。近親という禁忌、感じる気持ち悪さ。
「誰にもわからないワ。わかりたくなんてない」
虞淵は顔を顰めた。憎い過去を思い出しているように。杏雪は索蒙を優しい人だと勘違いしていた時に認識していた彼の人間の顔がもう思い出せなかった。
索蒙は常に人喰い鬼のような形相をしている。ただし、儀式の時などの五爪の龍の袍を身に纏っているときだけは、泰山府君のような厳しさを感じた。
「杏雪様…」
花琳が怯えた様に目を潤ませて、杏雪を見た。杏雪自身に怯えているのではないということはすぐにわかった。花琳は以前、杏雪が言った「龍帝陛下が向けるのは愛ではなく、支配欲と性欲」という言葉を思い出したのだろう。
その言葉が嘘ではなく、現実味を帯びてきたことに怯えているのかもしれない。花琳も気づいたのだろう。杏雪が露葉閣という綺麗に整えられた檻にいること。
そして雅蘭付きだった虞淵に雅蘭が戻ってくる様に綺麗にした檻をずっと管理させたこと。そのおぞましい龍帝の思惑のそばに自分もいることに恐怖を覚えたのだろう。
「に…逃げた方がいいんじゃないですか?」
花琳は泣きそうになりながら、杏雪に縋るような声を出す。これは花琳が今すぐにこの場から逃げ出したいという気持ちの現れだろう。そして、復讐の相手でありながらも花琳は優しいから、杏雪にも一緒に逃げて欲しそうだ。
「逃げられませんでした。だからここにいます」
杏雪が逃げたら龍帝は禁軍を動かしてまで杏雪を捜索するだろう。前は一人で捕まったからいいが、一緒に逃げる手引きをしたとなったら花琳は処刑されるだろう。
「それに、医として生きるという約束を違えたくありません」
杏雪は目の前にいる花琳の顔を見つめ、そしてここにはいない昊天の顔を思い浮かべた。昊天は杏雪に道を指し示し、花琳は杏雪が医の道から逃れないように監視してくれる人だ。
「逃げられない、というより今は逃げたくないと感じているんです」
それは恐怖に屈したからじゃない。毒に守られている。だから、杏雪は医女でいたいと思う。花琳は納得がいかないと不満そうな顔をしたが、杏雪の意思を尊重するように頷いた。
虞淵は杏雪を心配そうに、しかし見守る覚悟を決めたように口を引き結んだ。




