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十六話 試練

 盆の上に蓋をされた粥が載っている。蓋を開けると、香辛料たちのぴりりと辛い匂いと、林檎酢の爽やかな酸味が香った。


 「美味そうだな。本当に薬か?」


 シェン淑妃しゅくひが粥の中身を覗き込み呟く。本当に疑問に思っているというよりは、からかってやろうという様な気がした。

 

 沈淑妃は匙で辣油の掛かった粥を掬って口に入れた。香辛料や辣油は、熱性のものなので身体のうちに熱が籠る性質の人に与えるのは不適切ではある。しかし、沈淑妃は顔に赤らみもなく、熱もない。


 そして普段から彼女が、熱性の拉麺や火鍋といった食べ物を好むのは冷えやすい体が、無意識に熱を求めているからだと判断した。それでも辣油などは香り付けに少し垂らしただけに留めている。


 「良薬口に苦しと言うが、こんな薬なら毎日でも食べたいよ」


 沈淑妃は唇を舐めながら、艶やかに微笑んだ。唇を舐めるという動作は一見、はしたないと思われがちだが沈淑妃がすると美しい動作に見えるのが不思議だ。


 「口に合ったのなら、良かったです。薬が飲みやすいに越したことはございませんから」


 杏雪シンシュエは沈淑妃の体質と薬膳が噛み合ったことに安堵した。いつも、薬が患者の口に入るときは誤診していないか不安になる。しかし、父の教えを思い出して背筋を伸ばして立つことにしている。


 「それにしても群主ひめ様、どうして医女になんかなったんだい?」


 沈淑妃が杏雪を見つめながら、尋ねた。


 「高位の妃嬪たちの間じゃ、お前は群主のお遊びとして噂されているよ。群主でいた方が、封銀きゅうりょうも良かっただろうに、医女という官職に就くなんて」


 止まり木に留まっていた鷹が、猛禽特有の鋭い目線を杏雪に向けた。その鋭さが、沈淑妃の目と重なった。獲物を見定めるように、沈淑妃は今、杏雪を試している。


 「私は遊びで医女をやっているわけではありません。それなりの誇りを持って職務に当たっています」


 杏雪の返答に沈淑妃は「誇り…ねぇ…」と意味ありげにつぶやいた。鷹の瞳が杏雪を射抜く。沈淑妃は勇猛な雌の鷹の様に鋭かった。


 「人を殺した手で、人を救うのかい?」


 沈淑妃の問いに杏雪は息を呑んだ。否、息が詰まってうまく呼吸できなくなったと言った方がいいのか。虞淵ユィユエンが何か言いたそうにこちらを見ていたが、きっと沈淑妃は他の者たちが口を挟むのをよしとしないだろう。


 沈淑妃の勇猛な鷹の様な瞳には周りを圧倒させる力があった。虞淵が思わず口を開きそうになったのを、花琳ファリンが袖を引っ張って止めている。


 「人を救うことは、私にとって贖罪なのです」


 杏雪は花琳の顔を思い浮かべていた。しかし、杏雪の答えに沈淑妃は乾いた笑いを漏らした。


 「お前がいくら人を救おうとも、殺した人間は帰ってこないんだよ」


 沈淑妃の言葉に、花琳が歯を食いしばった。きっと花琳は死んでしまった家族を思っているのだろう。一度は飲み込んだ復讐心が、沈淑妃の言葉で蘇ったのかもしれなかった。


 「それでも、何かしないわけにはいかなかったのです」


 杏雪はそう答えていた。沈淑妃は何を望んでいるのだろう。杏雪が牢に繋がれることを望んでいるのだろうか。龍帝がそれを望まないことくらい、寵妃の沈淑妃ならわからないはずないだろうに。


 「そうか」


 沈淑妃は杏雪の覚悟を感じ取った様に、深く頷いた。ばさり、と羽の音を立てて止まり木から鷹が飛び立ち、沈淑妃の腕に留まる。皮の手袋をした方に留まり、沈淑妃は鷹の胸あたりの毛を撫でた。


 「お前さんも災難だなぁ。索蒙スォモンが可愛い姪っ子を敵国に花嫁に出すなんて、おかしいと思っていたんだよ」


 龍帝の名前、索蒙を気軽にそして親しげに呼べるなんて沈淑妃はただ者ではないと思わせた。索蒙の名前には神華シェンファ帝国の皇太子に必ずつけられる「天」と言う字がない。


 たとえば「天」と言う字を持った長男が亡くなった場合、次男に「天」という字は下げ渡される。その際に新たに「天」と言う字をつけるのは当代の龍帝である。

 しかし、索蒙は非道な手段で帝位についたので「天」の字は賜れなかった。


 周りは索蒙がいまだに「天」の名を賜れなかったことを気にしていると恐れ、索蒙の名前を呼ぶことはない。そして正式に「天」という字を賜った昊天ハオティエンを遠ざけているといわれている。


 「天」という字を持ち、東宮を賜りながらも立太子しない昊天は不安定な立場に置かれている。


 「龍帝陛下は私を()だとは思っていないでしょう」


 索蒙にとって杏雪は庇護すべき可愛い姪というより、肉欲を向ける対象としか見ていないだろう。だが、それを杏雪以外の人間がわかるはずもない。周りから見れば杏雪は寵愛を受けている様にしか見えないから。


 杏雪の言葉を沈淑妃は「姪」ではなく侵略の「道具」として見られていると解釈したのだろう。眉を下げて、同情するような視線を寄越した。


 「お前も、難儀だね」


 沈淑妃の言葉は、杏雪の真実を知らないながら杏雪の心を慰めた。雨が土に染み込み、夏の日差しで乾いていくかのように。


 「王母娘娘ワンムニャンニャンの廟を知っているか」


 沈淑妃はからかいでも何でもなく真剣な顔で杏雪に尋ねた。


 「天界の仙女ですね。龍帝陛下が信仰されているのか、北側に廟があります」


 杏雪自身は王母娘娘廟には行ったことがなかった。龍帝の燕寝に近い北側にあるので、できれば近づきたくなかった。

 

 「中には王母娘娘の姿絵が飾ってある」


 沈淑妃はなぜ急に王母娘娘廟の話をし始めたのか杏雪にはわからなかった。


 「表向き、皇后を王母娘娘に見立てて索蒙が建てたことになっているが、一度だけ入ったことがあるんだが、その姿絵は髪色は違うが皇后よりお前にそっくりだ」


 沈淑妃の言葉に、杏雪は悪寒が走った。索蒙は王母娘娘廟に詣っている話は知っていた。髪の色は毒の影響で杏雪は白銀の色をしている。しかし、毒がなければこの国では平均的な黒髪だったはずだ。


 「索蒙は閨の中で違う女の名前を呼ぶよ。雅蘭ヤーランとね」


 杏雪は母の名前を聞いたとき、うまく息ができなかった。索蒙の異常な執着が杏雪にも降り注いでいるとは思っていた。それでもここまでとは思わなかった。


 母はどうして自らの身体に毒を宿し続けたのだろうと考えたことがある。人間蠱毒はいったい誰に向けられたものだったのか、わかった気がした。


 沈淑妃の瞳が杏雪を見つめる。沈淑妃は全てをわかっているのかもしれないと思わされた。沈淑妃は近くで索蒙を見てきた。索蒙が異母姉に向けた異常な愛を知っていたのではないか。


 先ほど、「お前も、難儀だね」と言ったのは杏雪が索蒙の性愛の対象にされていることを察してのものだったのかもしれない。




***




 沈淑妃は「気に入ったから、また体調が悪い時は頼むよ。次は肉が食べたいなぁ」などとからかうように笑った。杏雪はうまく笑えていたか、わからなかった。自分でも血の気が引いていることがわかる。きっとそれに気づいた沈淑妃は誤魔化してくれようとしたのだ。


 「お嬢、顔色悪いワヨ」


 「最近、働いてばかりでしたからね」


 虞淵と花琳が心配そうにこちらを見ている。毒の影響で顔色が悪いなんて、いつものことだろうにこんな時だけ二人は見逃さない。


 露葉閣ろようかくへの帰り道を杏雪はどうやって歩いたかわからなかった。虞淵と花琳の声だけがぼんやりと響いていた。

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