十四話 雨の音
姚貴妃の宮で起きた幽霊騒ぎは収束した。姚貴妃の幻覚だったという真実は彼女の実家、姚家にとっても彼女の出身である水族にとっても良くなかった。
幽霊は見えなくなった。それだけで噂は廃れていき、姚貴妃はまた春の陽光のような笑みをたたえて後宮を闊歩するようになった。
「そうか。母はいなかったんだね」
昊天だけには真実を伝えた。彼はそれでうまく龍帝を説得し、姚貴妃を病と決めつけることを避けさせた。
露葉閣の玉瑛殿で二人は向かい合って座っていた。客を迎える正殿は院子の一番いい風景が切り取られたかのように窓から眺めることができる。
「母が成仏してくれているなら、…よかった」
昊天の顔は安堵しているようにも見えた。それでも彼が以前、幽霊でもいいから母に会いたいと言ったことは事実なのだろう。母が化けて出ていなくてよかったと思う反面、会いたかったと思っているようだった。
「お母様はどんな方だったのですか?」
杏雪は昊天の顔色を伺いながら、尋ねた。どんな答えを期待していたのだろう。杏雪は静雪という名前から、母親に重ねられたのではないだろうかという気がしていた。
「優しい方だった」
昊天がはっきりと「優しい」と言い切るということは人徳者だったのだろうと感じさせた。杏雪は母の暖かさを知らない。母、雅蘭を殺したのは杏雪だ。
「いつも私に食べ物を与えて、自分はお腹が空いていないからと嘘を言って我慢していたんだ…」
昊天は拳を握りしめた。
「本当はわかっていた。母が痩せ衰えていくのを。私は無知なふりをして食べ続けたんだ。母の優しさに甘え続けて、母の優しさを食い潰した」
昊天は泣きそうになるのを堪えたような表情をした。飢えとは苦しいもので、昊天は母のために菜を残しておかねばと思うのに、一口食べればまた一口食べたいと箸を動かしてしまうことを苦し気に語った。
それは昊天の懺悔だった。杏雪は黙ってそれを聞いていた。優しい慰めは彼にとって責めたてる言葉より辛いものだろうから。
静雪の最期は、最初に出会った時に昊天が語ってくれた。青い梅を食べて死んだのだ。それは昊天にとって幼少期の傷である。それを杏雪が「生きたい」と思わせるために、自らの傷を開いて見せて説得してくれたことがどれほどの優しさと痛みに溢れていたのだろうか。
「昊天殿下がお優しいのはお母様譲りなのですね」
杏雪は昊天の傷を抉りたくなくて、でも何か言わないと間が持たない気がして自分の思った素直な気持ちを言ってみた。
昊天が杏雪を見つめる瞳が揺れた。杏雪は間違えてしまったのかと不安になる。龍帝の魔の手から逃れるように日陰に生きてきた杏雪にとって、人との繋がりは父との親子の繋がりか、患者と医者としての繋がりしか知らず、その他の対人関係は経験不足だ。
昊天に嫌われたくない。彼が言ってくれたように薬として、恥じない生き方をしたい。
「優しい…だろうか。あなたにとってそうであるなら、嬉しい」
昊天のその言葉に、杏雪は昊天が自分のことを「優しい」とは認識していなかったことが窺えた。杏雪にとって昊天ほど優しい人は見たことがないのに。
「母亡き後、私は皇太后様に引き取られた。龍帝陛下の実母ではないから、私にとって血の繋がらない祖母ではあったが、皇太后様は私に優しかった」
皇太后──それも今は亡き人だった。先代龍帝の皇后だったという理由でその人は皇太后という地位に着いたが、龍帝、索蒙は兄弟を皆殺しにして玉座についた男だ。
皇太后も索蒙に自分の息子を殺された母の一人であり、自分の息子を殺した男の息子を引き取るという決断はとても重いものである。ただの美談として片付けて良いものではないと直感的にわかった。
「私は母を殺してしまったから、そして非道な龍帝の血を引くから、優しさを受け取る資格などないと思っていたんだ」
昊天は自身の両手を握りしめた。それが堅牢な貝の殻のように思えて、彼は優しさを拒絶しながら生きてきたのだと思わせた。
「皇太后様は母は龍帝陛下の被害者であり、私のことも恨んでいないと仰った。私は自分の中で人徳者だと思う母と皇太后様の優しさを真似しているだけに過ぎない」
杏雪は自分の呪われた体が恨めしかった。握りしめられている昊天の手にそっと寄り添いたいという衝動に駆られた。人に触れたいと願うことは自分には過ぎたことだと諦めていたから、また昊天の体温を感じてみたかった。
でも自分のわがままで、また昊天を杏雪の毒で苦しめることも本意ではなかった。
「真似であってもいつかは本当になります。私も医術は父の真似事で始めましたが、今は本当に人を救えるようになりました。これも、昊天殿下が私に医として生きる道を示してくれたからです」
手を握ったり、抱きしめたり。そういった行動で気持ちを示せない分、言葉だけは惜しまないように杏雪は感謝を伝えた。
「あなたは元から医の素質があったんだ。毒姫として利用され本来を歪められていただけ。あなたは医に戻ったんだ」
毒を持って生まれたのだから、毒姫のような利用のされ方が自然だと思っていた。でも昊天は最初から杏雪を医として、人として見てくれている気がした。
外の日差しが曇る。そしてぽつりぽつりと雨が降り出し、咲き誇った花々は雨に打たれて散っていく。それは花の雨のように見えた。雨が、大地を潤し全てを洗い流してくれる気がした。
「通り雨かな」
昊天が呟いた。
「雨宿りされて行かれませんか? お茶一杯分くらいは雨は続くでしょうから」
杏雪は雨が昊天を引き留めてくれたような気がした。きっと天は杏雪のもう少しだけ昊天と一緒にいたいという気持ちを見透かしたのだろう。
杏雪は以前調合し、効果のために寝かせていたものを取り出した。疲労回復と滋養強壮の効果がある「黒葡萄枸杞茶」だ。黒葡萄、枸杞、陳皮を混ぜて蜂蜜で甘みをつける。
透きとおる深紫の液体が、瓷器の盃に静かに注がれた。底には黒真珠にも似た小さな丸い珠が沈んでいる。やわらかな酸味と、蜜の甘みが舌に広がり、喉奥をすっと撫でた。
「熟した黒葡萄を潰し、龍眼蜜と山査子酢で数日寝かせました。枸杞、陳皮を混ぜ、底の珠は黒米粉で練った小さな団子で、肺を潤し、腎を養います」
優しい酸味と滋養の甘味が、からだの奥をそっと癒す薬膳茶だ。昊天は杏雪が持ってきた茶を「これが噂の薬膳か」と嬉しそうに飲んでくれた。
茶を飲んでいる間、二人は穏やかに談笑した。杏雪は弱まりゆく雨の音を聞きながら、もう少しだけ雨が降り続いてくれないか祈り、惜しむようにちびちびと茶を飲んだ。
***
梅雨が大地を肥沃にし、初夏の日差しがやってきた。梅雨は湿気や気温で頭痛などを訴える患者が多く、杏雪は毎日、頭痛を抑える生薬を調合することに追われた。作っても作っても、それ以上に薬を必要とする患者がいたのだ。
季節の変わり目は体調を崩すものも多く、湿気で衣服が痛むので仕事が増えた尚服局の女官たちが患者として薬膳閣の戸を叩くことが多かった。
杏雪たちは薬や薬草の管理などには細心の注意を払った。
「薬の在庫も減りましたね」
薬剤の仕分けを行ってくれていた花琳が伸びをしながら貯蔵室から出てきた。杏雪はすり鉢を片付けようとしていた時だった。
「また新しく補充しなければなりませんね」
杏雪は花琳に薬剤の仕分けだけでなく薬の調合も教え始めた。仕分けで生薬の名前や効能をそれとなく教えて、これとこれを組み合わせればどんな薬になるか…といった知識を幼少の杏雪が父から自然に教わったように、教えていた。
花琳は最初はわからなそうな顔をして何度も間違えたが、一度理解すれば忘れることはなかった。對国の侵略には杏雪も毒姫として加担してしまっている。その罪滅ぼしとも言えないが、花琳がいつか医女の官職を賜り給金が上がったらいいと思った。
宮廷勤めを辞めても知識があれば、薬種商などにも転身できるだろう。
「夏が来てくれて、これで湿気ともおさらばです。髪がうねって仕方がなかったんですよぉ」
花琳は髪を指でいじった。花琳は湿気によって髪がうねる癖毛らしい。杏雪はその様子を見て、最初は杏雪の髪を結うのが下手でぐちゃぐちゃにしていた父が頑張って練習してくれたことを思い出した。
花琳の父は神華軍の侵攻の際に人間の盾となって亡くなったと聞いた。花琳にも家族がいたこと、それを奪ってしまったことが杏雪の胸を痛めた。




