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十三話 春の雪解け

 「花琳ファリン、薬膳の基本をおさらいしましょうか」


厨に入り、薬膳閣やくぜんかくから食材を揃えた杏雪シンシュエが開口一番にその言葉を口にしたので、花琳は「げっ…」と思わずといったように声を漏らした。


 「今まで、杏雪様の言う通りお手伝いして来ましたから、今回もそれでいいじゃありませんか」


 花琳は苦いものでも食べたかのように顔を顰めた。虞淵ユィユエンも少し同情したのか、眉を下げている。杏雪は花琳をただの医女のお手伝いで終わらせるつもりはなかった。医女付きの女官よりも、医女という官職を手に入れた方が手に職がつく。知識は何よりの武器だ。


 「花琳、思い出しなさいヨ。春夏秋冬に対応するのヨ」


 虞淵がこっそりと花琳に耳打ちするが、杏雪にははっきり聞こえてしまった。


 「ええっと、火、空気、水、土で、確か臓器と体液に対応しているんですよね」


 「そうです。よく覚えていましたね」


 杏雪は微笑んだ。父はよく褒めてくれたから、杏雪も誰かに教える時は褒めようと思った。


 「今回の場合、ヤオ貴妃きひが蝕まれている顛茄てんかの毒素を排出する解毒薬を調薬します」


 毒素を排出する際に重要なのは、体内の湿熱を除くことと、血行を促進することだ。神経を落ち着ける食材、百合根、龍眼、甘草。湿熱を取り除き、体内の毒素排出を促す役割を果たす食材は、蓮の実、白木耳、生姜だ。


 血行を促進させる紅花と当帰。利尿作用のある冬瓜と竹の子。


 白木耳と龍眼は水で戻して、調薬開始だ。冬瓜を炊いて蓮の実、竹の子、百合根、龍眼、白木耳を煮込んだ羹にする。甘草で甘味をつけ、紅花や当帰といった生薬のいわゆる薬っぽさを軽減させる。体を温めて血行を促進させるために生姜は輪切りにしたものを鍋に入れて、とろみをつければ完成だ。


 「調いました。冬瓜と蓮の実のあつものです」


 姚貴妃は混乱しているようだったから、固形物よりも口当たりのいい羹にした。とろみをつけているので舌や胃に優しく生姜などで体の冷えを防ぐ。


 膳を姚貴妃の元まで運ぶと、姚貴妃は驚いたように杏雪を見つめた。ルォが匙を取り、羹を掬う。そして姚貴妃の口元まで持っていった。しかし、姚貴妃は羹を飲まなかった。


 「美しさがなくなれば、どうなるかはわかっているのよ。私は蚕みたいなものだわ。後宮という繭の中でしか生きていけないのよ!」


 姚貴妃は散瞳剤を手放すつもりはないというように杏雪の薬膳を拒否した。杏雪は切なそうに肩を落とす父の後ろ姿を見たような気がした。阿芙蓉アヘン中毒の患者を前にして、治療を諦めた父の姿を思い出した。


 仕事を捨て、家族を捨て、阿芙蓉中毒患者は阿芙蓉を吸い続けた。父は貧しい人からは治療費を取らずにいたから、その人からも金は取らなかった。患者は金を阿芙蓉に全て突っ込んだ。


 こちらがどれだけ救おうと手を伸ばしても、手が届かないどころか、振り払われてしまうこともある。杏雪は姚貴妃も美しさを保つために薬と共に沈んでいくのかと、諦めかけた時だった。


 「うるさい口だなぁ」


 羅が羹を口に含み、姚貴妃の唇へ接吻し羹を姚貴妃の口の中へと流し込んだ。


 「うぇえ!? ちょっ…ちょっと!」


 花琳が驚いたように声を上げて顔を赤らめさせ手で顔を覆ったが、指の隙間からしっかり瞳を覗かせていた。


 「なっ…何を…」


 唾液ともとろみがついた羹ともわからない液体が姚貴妃の口の端から漏れた。


 「桜玉インユー様は何もしなくても美しいんだから、ごちゃごちゃ言わなくていいです。それに、あなた様がしわくちゃの婆になっても美しいと思う俺がそばにいるんだから、いいでしょう?」


 羅の言葉と羹を含んだ姚貴妃は、怒りで赤らんで汗が見えていた肌は平常の白に近づき、血走ったように見開かれていた目も、今は平常に戻ったように見える。


 固く降り積もった雪が春の温暖な気候で溶かされていくが如く。姚貴妃の体を蝕んでいた毒が体外へ排出されようと動き出した。


 羅は口付けを繰り返して、拒否する姚貴妃に薬膳の羹を全て飲ませた。飲ませ切った頃にはその光景を見せつけられた花琳は茹蛸のように顔を真っ赤にし、虞淵はため息を吐いていた。


 「…お二人の関係は深くは問いません。散瞳剤は破棄させていただきます。よろしいですね?」


 杏雪が静かに問うとのぼせ上がったように茫洋とした瞳をした姚貴妃は大人しく頷いた。それを褒めるように羅が優しく姚貴妃の頭を撫でる。


 「パオ無しの宦官に何かできるわけでもない。黙っといてくれるなら、嬉しいね。桜玉様に失明されて、見てもらえなくなっちゃ困るし、散瞳剤は好きにしてくれ」


 羅は散瞳剤の在処を指し示した。羅が指し示した棚の中には散瞳剤が入った小瓶があった。杏雪はそれを回収する。


 「ああ、あと医女さんよ」


 羅が杏雪を呼び止める。杏雪は何事かと振り返った。そこには頭を下げている羅の姿があった。


 「以前、低俗な噂に振り回されたことを謝罪したい」


 杏雪はしばし黙った。そして「顔をあげてください」と声をかけた。自分でも思ったより穏やかな声が出せた。


 「私は気にしておりませんので」


 そう言って杏雪は懐にしまった散瞳剤の小瓶に触れてそこにあることを確かめると、貴妃の宮を後にした。宮の外に出てがまんしていた鬱憤を晴らすように虞淵が口を開いた。


 「お嬢が許したから黙っていたケド、アタシなら許さないわヨ。一発殴らなきゃ気が済まないワ。グーでいくわヨ、グーで!」


 虞淵はまだ怒っているようだった。杏雪は侮辱に対して何か物質的な謝罪を求めてはいないので、謝罪の言葉が聞けただけで満足だ。


 「で…でも、姚貴妃とあの羅っていう宦官…恋人同士だったんですね!? 姚貴妃は龍帝陛下の妻なのに。これって大丈夫なんですか?」


 花琳はずっと気になっていたというようにまだ赤色が残る頬を撫でた。


 「大丈夫…ではないわネ。でも宦官は妊娠させることはないから、秘密の恋人にしている妃嬪もいたりするワヨ」


 虞淵の「妊娠」という言葉と、羅が言っていた「何かできるわけがない」という言葉がつながったのか、花琳は「パオ」が何であるかたどり着いたのだろう。虞淵を見て、ちょっと複雑そうな顔をした。


 パオは宦官たちの間で切り取られたものを指す言葉だ。文字通り宝物という意味があり、子孫繁栄の孝徳を捨てた彼らにとってパオは棺に収めなければ来世は人間として生まれ変われないと信じられている。


 宦官は騾馬と言われて、後宮では畜生扱いだ。神華シェンファ帝国には、身体を欠損したまま棺に収めるのは良くないという考え方が根付いている。出来るだけ五体満足で棺に収められたい。


 宦官と妃の恋愛。もちろん、後宮では御法度で許されたものではない。しかし、姚貴妃と羅の間には確かに愛がありそうだった。羅は姚貴妃の今の美しさにこだわらず、歳をとって美貌が衰えようとも美しいと思うと言った。そこには間違いなく愛があった。


 恋愛の行き着く先とは子を成すことではなく、心を通わせることであると羅は体現しているようであった。


 愛の妙薬というものがあったとしたら、それはどんな味なのだろうか。甘いのだろうか、苦いのだろうか。杏雪は恋の味すら知らない。


 姚貴妃の自分は蚕と同じという叫びを思い出した。杏雪にとって自分を包んでくれた繭とは父の背中であった。


 自分で破った繭の暖かさを懐かしみ、春の雪解け水の甘さを思った。

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