十二話 幽霊
「調べろって言われたケド、姚貴妃を診ろとは言われなかったワネ」
昊天たちが去った後、虞淵は面倒くさいことになったとため息を吐いた。
「姚貴妃が自分は病気じゃないと言って医官を追い返しているらしいですね」
花琳は「姚貴妃」という言葉を発する時には眉間に皺がよっていた。
「病によって幻覚を見ている可能性もあります。幽霊かどうかはわかりませんが、調査は必要かと。以前、瞳孔が開いていたのが気になります。最悪、阿芙蓉中毒だった場合も想定して慎重に調査いたしましょう」
杏雪は冷静に言葉を紡いだ。龍帝の判子が押された書状は昊天が杏雪に預けて行った。この印には誰も逆らえない。これを見せれば、強引に診察くらいはできるだろう。
「虞淵さん、貴妃の宮に出入りする人間や荷物に怪しいものがないか調べてくれませんか。花琳さん、姚貴妃に関する噂を調べて来てくださいませんか」
杏雪が尋ねると「まっかせなサイ!」と虞淵は自信満々に頷き、花琳は「わかりました」と淡々と答えた。花琳はきっと杏雪に対する複雑な気持ちを飲み込んで素直に指示に従ってくれたのだろう。
二人に指示を出し、杏雪は普段通り診療所を開けた。患者たちが舞い込んできたが、仮病者を勇敢に追い返してくれる花琳がいなかったので少々手こずった。
夕餉の時間になると、それぞれの情報を土産に虞淵と花琳が露葉閣へ帰ってきた。
「貴妃の宮に出入りする行商人や荷物を調べたワヨ〜。実家からの仕送りが多いわネ。目録の写しがあるから確認して。実家は異国からの輸入品を多く扱ってるらしいワ」
そう言って虞淵は紐で閉じられた目録の束を杏雪の目の前に差し出した。
「私は噂調べてきましたよ。幽霊って姚貴妃しか目撃していないみたいです。姚貴妃が怯えるから女官たちが警戒して夜通し見張ったり、お札を貼ったりしたみたいですけど効果なかったらしいです」
花琳の話を聞いて、杏雪は仮説を組み立てていく。そして虞淵が持ってきた貴妃の宮に送られている荷物の目録に目を通した。異国の宝飾や茶葉、香辛料などが多い。その中に紛れてそれを見つけた。
「だいたい、わかりました。龍帝陛下の印を使って姚貴妃の宮に行きましょう。手遅れになるかもしれません」
杏雪は龍帝の印が入った書状を持って東側の貴妃の宮へと向かった。「手遅れになる」という言葉で、猶予のない事態だと悟ったのか大した説明もしていないのに、虞淵と花琳は黙ってついて来てくれた。
貴妃の宮の門兵は、円環の龍の印を見せるとすぐに入れてくれた。索蒙の大粛正の恐怖は末端にまで影を落としていた。
「私が虚言を吐いたというの!?」
部屋からは姚貴妃の叫び声と共に花瓶でも投げたのか、何かが壁に当たって割れる音がした。杏雪は迷わず扉を開けた。
「わ…私は幽霊はいませんから安心してくださいと申しただけにございます…」
部屋の中には姚貴妃と涙目になりながら床に伏せている女官がいた。
「姚貴妃様、落ち着かれてください」
杏雪が口を開くと、姚貴妃は瞳孔の開いた目で杏雪を睨みつけた。
「どうして私の宮に医女が入り込んでいるの」
姚貴妃は甲高い声で叫んだ。
「緊急の事態でしたので、入らせていただきました。姚貴妃様を煩わせる幽霊の件です」
杏雪は謝罪を示すために頭を下げる。後ろに控えていた虞淵や花琳もそれに倣って頭を下げた。
「お前も私の頭がおかしくなったと言いたいのね!」
姚貴妃の顔は怒りからか真っ赤だった。元から白い肌をしていたから、血が上ると余計に赤く見える。
「いえ、おかしくなったのは頭というよりは目です」
杏雪はまっすぐ姚貴妃の目を見つめた。
「こちらに顛茄の実を抽出した散瞳剤が運び込まれていると伺いました」
杏雪の言葉に、姚貴妃は馬鹿にしたように笑った。
「あら! 私の美貌に嫉妬しているのね。私の瞳は龍帝陛下から宝石のようだと褒められたもの。あなたは王婕妤から白粉を下賜されたと聞いたわ。私から、散瞳剤を奪いにきたのね」
王婕妤から鉛白入り白粉を代わりに処分するという形で取り上げたことが、いつの間にか王婕妤が治療の褒美に杏雪に与えたという噂に変貌していた。
「顛茄、異国ではベラドンナと言います。この散瞳剤は毒です。失明する可能性があります。最悪の場合、死に至ることも。姚貴妃様は顛茄の幻覚作用によって幽霊を見たのではないかと思われます」
杏雪は興奮した姚貴妃を刺激しないように出来るだけ抑揚のない声で喋った。熊や虎と対峙しているかのような緊張感があった。
顛茄も用法容量を守れば薬だった。鼻水を抑える成分が顛茄根には含まれている。
「うるさい! ではなぜ、幽霊は静雪なのよ!」
杏雪はこの時はじめて、梅昭儀の名前が静雪であることを知った。梅はまだ寒い時期に咲く花だ。雪と結びつけるのは容易であり、杏雪は昊天が自分に優しくしてくれたのは母を思い出したからではないかと思った。
「幻は姚貴妃様の心を映し出す鏡です」
杏雪は静かに語ると、姚貴妃は床に崩れ落ちた。「桜玉様」と以前、杏雪を性的に侮辱した発言をした宦官、羅が駆け寄り姚貴妃のそばに寄り添う。
「桜玉様、落ち着いてください」
羅は優しい手つきで姚貴妃の背中を撫でる。杏雪はその様子を見て、父の言葉を思いだしていた。「心を治すというのは、とても難しいことなんだ」と。杏雪は気虚と診断した呂充媛のことを思い出した。
気虚は気が衰えている状態だ。呂充媛は薬膳で何とかなるほど軽度の患者だったから救えたが、深い傷を負った姚貴妃を治す薬はないのかもしれない。
顛茄に幻覚作用があるのは確かだが、幻覚の内容は人それぞれだ。幻覚に姚貴妃が恐れる「幽霊」である梅昭儀が現れたのは、姚貴妃の心の問題である。
「ずっと後悔しているのよ。静雪を庇ってやれなかったこと。あの子は暗くてじめじめした冷宮に閉じ込められて…死んじゃった」
姚貴妃は羅の服を掴んだ。瞳には大粒の涙が浮かんでいた。冷宮とは皇帝の寵愛を失ったり、罪を犯した妃嬪が入れられた場所で、「冷宮」という建物は無く禁足令が出され幽閉された宮のことを指した。
「桜玉様…あなたは悪くない。皇后陛下には逆らえなかった。龍帝陛下の寵愛を失えば、あなたも静雪みたいになるかもしれなかった」
羅が優しく姚貴妃の髪を指で漉いて撫でた。姚貴妃は子供のように大泣きして、羅にしがみついた。それは恋人との甘い抱擁のようでありながら、親と子のようにも見えた。
姚貴妃は顛茄の毒で混乱して、幼児退行のような状態になっているのだろう。杏雪の「幻は心を映し出す鏡」という言葉が姚貴妃の最後の命綱を断ち切ってしまったような心地がしていた。
姚貴妃が索蒙の褒め言葉にしがみつき、毒である顛茄の散瞳剤の使用に走ったのは、後宮という場所で寵愛を失えばどうなるのかを姚貴妃は痛いほど知っていたからだろう。
「姚貴妃様、顛茄の散瞳剤の使用をやめれば、幽霊は消えます。医女の私に出来ることは、薬を調えることくらいです」
杏雪の言葉に涙で化粧が剥げた姚貴妃の瞳が揺れた。化粧が剥がれた彼女の顔は存外幼くて、美しき魔性の春の花精の正体は淑女と少女の顔を併せ持っていた。
「厨をお借りします」
杏雪は花琳と虞淵を引き連れ、厨へと入った。女官たちは花瓶が投げつけられた音に怯えきっていて、きっと姚貴妃が立ち入らないであろう厨に一塊になって避難していた。
「あ…あなたは」
女官の一人が怯えたように杏雪を見た。
「薬を調えるため、厨をお借りします」
杏雪が頭を下げると、女官たちは希望の兆しが見えたかのように表情が緩んだ。




