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十一話 幽霊

 「幽霊が出るって噂、知ってル?」


 朝餉の卓を囲みながら、虞淵ユィユエンが開口一番に言い放った。卓の上には朝粥が数種類、お米で巻いた揚げ物などが並んでいる。お粥の一つは鶏肉と卵を使っていて薄っすら黄色く、細かく刻んだねぎの緑が鮮やかに彩っている。白身魚と貝柱のお粥のいい香りが漂い、小籠包は包んだ形が綺麗だ。


 粥を掬った匙を止めて、杏雪シンシュエは虞淵を見た。小籠包を箸で割って汁を出していた花琳ファリンもその手を止めた。


 「朝っぱらから幽霊…って。話題考えてくださいよ、小姐」


 花琳はため息をついた。虞淵は「花琳ったらチョット顔つき変わった?」と茶化しながら、話を続けた。今、虞淵は花琳が幽霊に怯えているという形で茶化したが、きっと昨夜に何かあったことだけは気づいているだろう。


 花琳の態度が少しきつくなったこと。これが彼女の素なのだろう。


 「実は〜、ヤオ貴妃の宮で幽霊が出るらしいノヨ〜! あの女、ざまぁネ!」

 

 虞淵は意地の悪い笑みを浮かべていた。その笑顔が彼──彼女の魅力を存分に引き立てていた。虞淵は杏雪が侮辱されたことを根に持っている。


 「後宮に恨みや嫉みの話題は尽きないじゃないですか。なら、恨みから幽霊が出るのも当たり前かもしれませんね」


 花琳はそう言って小籠包で舌を火傷しないよう念入りに冷まし始めた。


 「それが、出るっていう幽霊がメイ昭儀しょうぎらしいのヨ」


 虞淵が声を顰めた。梅昭儀は第一皇子昊天(ハオティエン)の母であり、皇后の策略に敗れ冷宮に幽閉され青梅を食べて亡くなった妃嬪だ。男児を産んだから昭儀に格上げされたらしく、妊娠した時はもっと下の位だったらしい。


 皇后から目の敵にされ、公主を産んでいたら死ぬまではいじめられなかったかもしれないが、彼女は不運なことに皇后より先に龍帝の長男を産んでしまった。栄光の「天」という文字を皇后の子供から奪ってしまった形だ。

 

 「昊天殿下のお母様が幽霊に? しかも、恨んでいるはずの皇后陛下の宮ではなく、姚貴妃の宮にですか…?」


 杏雪は疑問を呟いた。「確かにそうですよね。恨んでる相手の元に化けて出るのが普通ですよね」と小籠包の汁を堪能しながら、花琳は頷いた。


 「姚貴妃は皇后寄りだったじゃナイ? それに、梅昭儀はもともと姚貴妃に仕える女官だったらしいノ。姚貴妃が龍帝陛下のお相手ができなかった時に代わりにお側に侍ったのが梅昭儀らしいワ。自分をいじめた皇后より、自分を見捨てた元主人の方に先に化けて出たんじゃナイ?」 


 虞淵は油条を粥に漬けた。


 「姚貴妃様、下品な侮辱を使う宦官を従えてるくらいですから、恨まれてても仕方がなさそうな女ですよね」


 花琳が姚貴妃の侮辱を覚えてくれていたことが杏雪は少し意外だった。あの時、虞淵は怒りを露わにしていたが花琳はそうではなかった。あの時杏雪は花琳にとって復讐すべき毒姫であったので、花琳は杏雪が馬鹿にされていても何も思わないだろうと思っていたのだ。


 花琳も、同性としてあの侮辱は一線を超えていると思ったらしい。それを平気な顔で自分の配下に言わせることを軽蔑しているようだ。


 朝餉を終えて、午前の診療の時間がやってくる。今日も医女としての杏雪は引っ張りだこだった。薬膳という名のご馳走が食べられると宮女の間で噂が広まってしまい、食事目当ての仮病が多かったのが大変だった。


 実際に病に苦しんでいる人と仮病を見分けなければならず、余計な手間が増えてしまった。そして、薬膳ではなく丸薬や漢方などの薬を処方すると、あからさまにがっかりする者も増えた。


 「ここは薬膳閣、医女様の診療所であって酒楼じゃないんですから。さあ、健康な人は帰った帰った!」


 花琳が仮病者は追い返してくれたので頼もしい限りだ。午後からは呼ばれた妃嬪の元へ往診へ行くこともあるのだが、今日は誰からの呼び出しもないのでまた薬膳閣で診察することにした。


 しかし診察を始めようとすると、東宮より昊天からの遣いが来た。昊天が露葉閣ろようかくに訪れるという報せだった。報せを聞いた杏雪は部屋の掃除を始めた。

 

 「昊天殿下が来るなんて。油断していました。床を磨いて窓も拭かなければ…」


 箒で掃き掃除をした後、井戸から汲んできた水で雑巾をしぼり窓の拭き掃除に取り掛かろうとした時だった。


 「チョットお嬢! 掃除はアタシたちがやるから、お嬢は目一杯お洒落しなさいヨ。貰った蟠桃の香つけたりとかあるでショ」


 虞淵が埃だらけになった杏雪の衣服から埃を払いながら、手から雑巾を取り上げた。


 「杏雪様、他の服に蟠桃の香を焚きしめておきますから、着替えてください」


 花琳が手早く衣桁に上襦うわきをかけて下から香炉で香を焚き香りをつけてくれた。杏雪は医女として働く時には動きやすさから、胡服を好んで身につけていたが花琳が用意した着替えは翡翠色に染められ、白い糸で細やかな草花の刺繍が施された襦裙じゅくんだった。


 白い糸が杏雪の白銀の髪と合わさってまるで雪の精霊のような雰囲気になった。下級の女官たちの衣服に皇后を象徴する派手な牡丹や、蓮、梅、芍薬、金木犀などは使えない。


 野に咲く花々は派手ではないけれど逞しい。杏雪は自分の身につける衣服にそうした野の花たちがあしらわれていることに、安心と誇らしさを感じた。野に咲く花は踏みつけられるばかりではない。たとえ、踏みつけられても強く咲く。


 杏雪は裳を履き帯を締め上襦を羽織った。ふわりと蟠桃の香が香る。虞淵の「男が女に香りを贈る。自分好みの匂いを纏えっていう独占欲ヨ〜」という言葉が蘇った。杏雪は袖を鼻に押し当て小さく呟いた。


 「…これが、昊天殿下の好みの香り…」


 戦場で怪我人を治療し、血に塗れていた杏雪からすれば似合わない遠い国のような匂いだった。でも、父が杏雪が年頃の若い姑娘むすめと同じように、と蟲入り琥珀の簪を贈ってくれたように。蟠桃の香を纏えば普通の女の子になれる気がした。


 宦官と宮女たちを引き連れて、昊天は龍の意匠が施された輿に乗ってやってきた。正殿である玉瑛殿ぎょくえいでんに通し、椅子に座って貰った。杏雪も卓を挟んで向かい合うようにして座る。


 二人の間には今朝、花琳が水仙が花瓶に生けてくれたものがあった。水仙は「雪中四友」の一つであり、残りは梅、蝋梅ろうばい山茶花さざんかだ。いずれも良い香りを放ち、文人たちが好んで絵に描く。


 露葉閣ろようかくのどこにも、梅はない。昊天はきっと梅を見たら亡くなった母親を思い出すだろうから、杏雪は昊天が来ると知ってから庭木から装飾の花に至るまで梅がないことを確認した。


 「突然、訪ねてしまってすまない」


 昊天は申し訳なさそうに眉を下げた。


 「いえ。医女の診療所はいつでも開いております」


 杏雪は微笑みを返したが、昊天のどこか影のある表情は和らいでくれなかった。


 「貴妃の宮に出るという幽霊の噂を知っているだろうか」


 昊天は重い口を開けた。貴妃の宮の幽霊の噂は露葉閣には虞淵が仕入れてくれたが、後宮内ではすでに知らぬものもいないくらい広まっているらしい。


 「はい。虞淵さんが教えてくれました」


 杏雪は頷いた。でもその幽霊が昊天の母親らしいという話題は避けた。しかし、昊天はそれを知っているように思う。自分に関係しなければ、きっと後宮の幽霊騒ぎの話題を口にはしないだろうから。


 「姚貴妃が、私の母の幽霊を見たと騒いでいるらしい。馬鹿らしいとは思っているが、私は幽霊だとしても母に会いたい。龍帝陛下は貴妃の訴えを心の病として、片付けたいそうだ。杏雪、医女として貴妃を調べてはくれないだろうか」


 昊天は申し訳なさそうに、書状を取り出した。そこには尾を噛んで円環になった龍の紋章が押されていた。龍帝の判子の図案だ。二体の龍が輪になって相食んでいる。これは不老不死を象徴している。


 「龍帝陛下が、幽霊騒動を病として片付けろ…とそう命じられたのですね」


 「そうだ」


 昊天は頷いた。龍帝の命令を杏雪に伝えにきたのだ。


 「わかりました。調べてみます」


 杏雪は椅子から立ち上がり、頭を下げた。

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