十話 復讐
月のない夜、杏雪は瑠璃で飾られた水晶製の寝台に体を横たえた。夜着でも、杏雪は首まで詰まった肌の露出が低い服を着ている。寝台に体を横にすると、杏雪は龍帝に寝所に連れ込まれ、組み敷かれた時を思い出す。
肌を弄ろうとして、索蒙は手が痺れて杏雪から離れたのだ。こうして母から受けた毒のおかげで杏雪の花は無惨に散らされることはなかった。
杏雪はゆっくり目を閉じようとした。過去の鬼の顔を思い出さないように慎重になりながら。一瞬、風が吹いたのかと思った。衣擦れの音がして、杏雪は飛び起きた。杏雪は暗闇の中の動きに敏感になって夜目が効くから。
「花琳ですか…?」
杏雪は暗闇の影に向かって声をかけた。花琳が灯りの油を足しにきてくれたのかと思ったからだ。暗闇の中に白っぽい鈍色が光った。次の瞬間、杏雪は馬乗りにさせられて鈍色の刃が振ってきた。
「死ね!!」
花琳の叫び声が響く。杏雪は抵抗して、手袋越しに刃を掴む。ゆっくりと血が流れて杏雪の血が杏雪側にぽたりぽたりと落ちて来た。花琳に血が飛び散らなくてよかったと思った。杏雪の毒は触れただけで危ないから。
「どうして…毒で死なないのよ」
小刀を握った花琳はかすかに震えていた。小刀の重さに細い腕が耐えられないのだろう。
「包子の中の青酸、美味しくいただきました」
杏雪は匂いを嗅いだ瞬間から青酸入りの包子だと気づいた。上手いやり方だ。餡に合わせるために木の実の香ばしさを隠し味に加えたようにも思えるかもしれない。ただし、毒は杏雪に効かないどころか栄養である。
「私に毒は効かないのですよ」
杏雪が小刀を押さえながら答えた。花琳はふっと息を漏らすように自嘲するように笑った。
「はっ! だから毒姫か」
花琳が握る小刀に力を込めたのがわかった。花琳の瞳は手負いの獣のようにぎらぎらしていて、いつものふわふわした花琳はいなかった。毒で杏雪を殺せなかったから、寝込みを襲いにきたのだろう。
「私の血は毒です。このまま刺すと返り血であなたまで死にますよ、花琳」
杏雪は自分の喉元に迫る刃を押し返そうとしながら、努めて冷静に話そうとした。
「毒姫を殺せるんだったら、私は死んでも構わない」
花琳は怒りという感情が昂ったのか、目には涙を溜めていた。
「私は、對の民だ」
花琳の血を吐くような呪詛は杏雪の耳を突き刺すかのような悲痛さがあった。杏雪は抵抗していた力を弱める。杏雪が意図的に力を弱めたのを悟った花琳は困惑したように杏雪を見つめた。
「抵抗しろ! 醜く命乞いをしろ!」
花琳は毒姫を救いようのない悪女だと思い込んできたのだろう。だから、花琳の中の毒姫は自分の罪を忘れて贅沢三昧で暮らし、死にたくないから必死に抵抗して、最後は醜く命乞いをする。花琳はその命乞いを断って、最後に絶望した毒姫の姿を見て悦に浸りたかったのだろう。
「私は、人を殺しすぎましたから。復讐されても仕方がありません」
杏雪は静かに目を閉じた。花琳の刃を受け入れようと思った。毒姫として利用され始めて、初めて人を殺してしまった時からいつかこんな最後になるのではないかと思っていた。父は、杏雪が見に宿す毒が人を殺さないように守ってくれていたんだとわかった。
眼裏に、昊天の顔が浮かんだ。「あなたは医になれる。人を助ける薬になれる。その素質を持っていると私は思う」その言葉が支えであり、もっと生きたいと願わせた。
「どうして…王様を殺しちゃったの?」
花琳は迷子の子供のようなか細い声を出した。杏雪は血を吐きながら、倒れる對王の姿を思い出した。
「それが、龍帝陛下の望みでしたから」
杏雪の言葉に、花琳の目に溜まった涙が溢れて杏雪に落ちた。
「どうして、龍帝の寵愛があるのに、それを利用しないの。質素に暮らしてみたり、医女の真似事して人を救ったり。そんなことしなくていいじゃない。もっと嫌な奴ならよかったのに」
花琳は抑えきれなくなった涙をこぼし始めた。
「龍帝陛下が私に向けるのは愛ではなく、支配欲と性欲です」
杏雪が淡々と語ると、花琳は震える手に力を込めてもう一度小刀を振り上げた。
「父さんは神華軍の進行を止めようと人の盾になって馬に頭を踏み潰されて死んだ。母さんは弟を庇って斬り殺された。弟は…まだあんなに小さかったのに、殺された!」
花琳は自分を鼓舞するように恨みを叫ぶ。今から自分のすることに正当性を探そうとしているように。人を殺すのには相当な体力と気力がいるから、花琳は今、恨みを燃料に絞り出そうとしているのだろう。
對国の民が神華軍の騎馬隊の進行を少しでも遅らせようと、首都の主要な街道に集まり人々は手を繋ぎ人間の盾となって行く手を阻んだと聞いている。花琳の父はそれに参加したのだろう。
董将軍は街も人も全てを踏み潰したと聞いた。董将軍という人間にとって人の盾は怯むものではなかった。
杏雪が医女を拝命して、宮廷に戻った時、花琳は今日が宮廷勤めの初日であると虞淵は言っていた。賎民に落とされた對国の民たちを献上品として神華帝国に持ち帰ったからだと考えれば、ぴったり合う。
「あなたはそうやって嘆いて諦めて、人に流されながら生きていくのか?」昊天の声が蘇った。杏雪はまた流される選択をしようとしていた。復讐されて死ぬのなら、仕方がないと。
花琳は大人しく抵抗しない杏雪を差し殺そうと小刀を振り上げているが、震えてばかりで一向に殺そうとはしなかった。むしろ、「命乞いをしろ」だったり自分が復讐する理由を話して引き伸ばそうとしている。それは彼女にも迷いがあるからだと杏雪は思った。
杏雪は刃を掴んだ時に出た血に気をつけながら、花琳が油断して氣が緩んでいる経穴に突き技を繰り出した。氣功や鍼灸、そして按摩は父から教えられたので一通りわかる。
「ぐっ…!」
花琳はよろめき、杏雪はその隙をついて小刀を床に叩き落とした。形勢逆転である。花琳は杏雪のそばに落ちた小刀をどうにか回収できないか、小刀に目線をやったが無理だと悟ったのだろう。
「私を龍帝の前に突き出せばいい。可愛い群主を殺そうとした大罪人なんだから」
花琳は諦めたように両手を広げた。もう何もしない、降参だと示すように。花琳は、龍帝の寵愛を受ける群主に仕えたら少しの粗相で打首になると噂が流れていた中、復讐のために杏雪付きに志願したそうだ。
「花琳、あなたは私によく仕えてくれました。これは変わりません。感謝しています」
杏雪は小刀を蹴って自分からも花琳からも手の届かない部屋の端へとやった。
「馬鹿じゃないの? 殺そうとしたのよ?」
花琳は感謝している杏雪を信じられないものを見るように見つめた。
「私が医女として、人を救うのは贖罪でもあるのです。ですから、花琳…私が奪ってしまった命の数だけ救うまで復讐を待っていただけないでしょうか」
医として生きたいという願いの中に、贖罪があるだろう。きっと贖罪を終えたら、杏雪の医として生きたいという願いも果たされたような気がする。
「どうして、もっと嫌な奴じゃないのよ…」
花琳は泣きながら呟いた。どうせ殺すなら、最低最悪の嫌な奴で、気持ちよく殺したかったらしい。
「殺すより救う方が難しいですよ。… あなたが殺した分だけ、人を救ってください。そして救い続けてください。私はそれを見張っています。どこまでも」
杏雪が医から毒姫に戻ったら、花琳は今度こそ殺すだろう。花琳は杏雪が毒に戻ることを許さない。花琳は自分の言葉を表すためか、膝をついて礼をとった。
これが医女、杏雪を支え続けた花琳の真の忠誠の始まりである。




