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一話 毒姫

 天は鉛のように重く、雲は墨を流したように空を覆っていた。遠くで雷鳴がくぐもり、空気は湿り気を帯び、草木の葉裏に沈黙が宿る。


 神華シェンファ帝国からドゥイ国へ──

 和藩公主の輿入れを告げる行列は、国境の山道を音もなく進んでいた。数百に及ぶ兵と侍女、供の者たちの足音すら、ぬかるんだ土に吸い込まれてゆく。まるで死地へ向かう蟻の行列のように、重々しく、しかし秩序だった動きで。


 道の両脇には、枯れ木が並び風に葉を囁かせていた。何かを諦めるように、或いは何かを告げようとしているかのように。


 「姫、お疲れではありませんか」


 黒鉄の甲冑に身を包み、漆黒の駿馬にまたがったドン将軍が、簾の奥に向けて低く問いかける。彼の声は、峻厳な山の岩肌に響く雷のように、深く重い。


 揺れる簾の内から、鈴の転がるような玲瓏たる声が返る。


 「問題ありません」


 その声音には氷の気配があった。

 柔らかな響きの中に宿る静かな拒絶は、嫁がされる少女の儚さよりも、何か計り知れぬものを予感させる。

 周囲の兵たちは、ただ無言でその気配を肌に感じ取る。誰もが、この行列の「目的」を口にはしない。だが、全てが知っている。これはただの婚姻ではない──。

 董将軍は前方に視線を向けたまま、ぽつりと呟く。


 「しっかり、お務めを果たされてください」


 その言葉には、戦場に立つ者だけが知る、凄絶な敬意が滲んでいた。


 少女は、国を滅ぼす毒をその身に宿している。


 和藩公主とは、名ばかり。その輿の中にあるのは、滅びの神託であった。

 

 神華帝国と對国の国境には對国の使節が公主を待ち侘びていた。公主の受け渡しが済むと、これより先に神華帝国の兵士たちは進めない。


 「遠路はるばる、對国へようこそお越しくださいました。これよりは我々が王宮へとお連れいたします」


 使節の代表の言葉に、公主についてきた侍女たちは息を呑んだ。国境を越えれば自分たちを守ってくれる兵士たちではなく、對国の兵士たちに護衛されながら進む。つい最近まで敵国だった土地を。


 しかし、一番命を狙われるであろう輿の中の公主は動揺する様子を一切見せなかった。そして公主の輿は對国の使節に引き渡され、輿と行列が見えなくなるまで董将軍はそこで立ち尽くしていた。


 「對国国境付近に秘密裏に陣を配置しろ」


 董将軍の指示に帰路に着くものだと思っていた、兵士は驚いたように声を上げた。


 「公主の引き渡しは済んだのに?」


 「何をいう。ここからが本番だ」

 

 董将軍はにやりと笑った。その笑みは戦場で鬼神の如く戦った逸話に相応しい力強さがあった。神華軍は国境付近に陣を展開し、天幕を建てた。


 神華帝国の紋章である巨大な牡丹の花を模った旗が立てられ、その中の一番大きな天幕に煙管で煙を吐きながら、董将軍は自身は待っていた。


 そこへ大量の蹄の音と共に、青い旗を掲げた部隊が到着した。藍と鬱金を決まった配合で重ね染めしなければ、特別な青にならない。これは太子だけが使う特別な青だった。どんなに日に照らされても、雨に降られても、この青が褪せることはない。


 「到着したようだな」


 煙を吐き出すと、董将軍は天幕から出た。そこには、腐食しないよう漆を塗られ光るくらいに磨かれた、明光鎧を着込んだ皇子の姿があった。龍帝の長子、昊天ハオティエンである。若柳のような引き締まった体躯に、凛々しい顔立ちをした青年だった。


 「董将軍、援軍を引き連れ第一皇子、昊天到着いたしました」


 昊天が馬から降りてそう宣言すると、董将軍は膝をついて礼をとった。かちゃかちゃと甲冑が擦れる音が響く。董将軍に倣うようにして周りの兵士たちは膝をつき、昊天に頭を垂れた。


 「公主の引き渡しは済んだというのに、国境付近に陣を構え、さらに援軍まで要請するとは。今は對国とは休戦中で婚姻により和睦が成立したはずでは?」


 昊天は自身が抱えている疑問を董将軍に問うた。龍帝からの命令で禁軍を率いてきたが、疑問は膨らむばかりだったのだろう。


 「一晩、お待ちください。形勢は我らに有利になります」


 董将軍の言葉には自信がみなぎっていた。董将軍はいつまでも皇子を立たせておくわけにはいかないと、天幕の中に誘い煙管を勧めた。


 「すまないが、私は吸わない。お気遣い痛みいる」


 昊天は申し訳なさそうに煙管を返す。椅子に座った昊天は先程の「一晩待つ」という董将軍の判断はどういう意味か尋ねた。


 「まあ、そう焦らなくとも良いではありませんか」


 煙管に火をつけ、独自の配合の煙草を肺いっぱいに吸い込み煙を蒸しながら董将軍は落ち着いていた。天幕に恭しく易者が入ってくる。董将軍のお気に入りで、戦に行く時は必ず占ってもらうという高名な老爺だ。


 「まずは占ってみましょう」


 董将軍は易者を手招きした。董将軍が占い好きという噂は有名だった。昊天は顔を顰める。


 「私はあまり占いといった類のことを信じない。それに、もし悪い結果だったら士気が下がるのでは?」


 昊天が尋ねると、董将軍は豪快に笑った。


 「逆境を覆すのが、戦の醍醐味ではありませんか」


 笑う董将軍の瞳は血に飢えた獣だった。誰もが思い付かないような奇策を考え、それを成功させてしまう手腕を持った英傑だからこそ、龍帝の覚えもめでたい。


 「たかが占いと馬鹿にしないでいただきたい。地を読み天を読む、それが占いなのです。当たるも八卦、当たらぬも八卦…ではありますが」


 易者はまじまじと昊天の顔を見た。「無礼を許してやってください。この者は目が見えておらぬのです」と董将軍は言った。確かに易者は杖をついて、地面を確かめるように歩みを進めていた。


 易者は目が見えない代わりに、他者の纏う「気」が見えてそれで占うそうだ。音の反響を頼りに周りを把握しているらしい。


 「おぉ…これは、【覇王の相】にございまする」


 易者の瞳は白く濁って昊天を写してはいなかったが、確実に目が合っていると感じさせるほどの不気味さがあった。


 「【覇王の相】…面白いことになりましたな」


 髭を撫でながら董将軍が面白そうに片方だけ口角を釣り上げた。


 「私はまつりごとには向いていない。ただ長子として生まれてしまっただけの凡夫だ」


 昊天は慌てて占いを否定しようとした。


 「そんなに卑下しなさるな。『天』という字を賜った立派な御子ではありませんか」


 龍帝の長子は必ず「天」という字をいただく。しかし、昊天は身分の低い側室の母から生また。皇后にうとまれ、戦場への指揮を任されるといえば聞こえはいいが宮廷から放逐されたに過ぎない。あわよくば、戦死すればいいと思われているだろう。


 「私は、決して覇王の器ではない」


 昊天の顔に影が掛かった。


 「しかし、あなたには帝位継承権がある。器ではない、向いていない、などと言っても逃げられる立場ではありますまい」


 董将軍はまた煙管で煙を吸い込んだ。紫煙がくゆり、霧のようになっている。


 「一晩待つ理由をお話ししようか。對国に送ったのは美しき花嫁ではない。鴆毒ちんどくよりも恐ろしい毒だ。接吻一つで死を運ぶ、毒姫。今夜にもドゥイ王は崩御される。その混乱に乗じれば、私たちは簡単に都を落とすことができる」


 「毒姫?」


 昊天は聞きなれない単語に首を傾げた。


 「龍帝陛下が私に預けられた、武器です。見た目はただの姑娘むすめですが、その血は鴆毒より強力です。唾液や汗にも毒が滲み出ますから、体液の全てが毒です。私はあの姑娘が、接吻一つで人を殺したのをこの目で見ましたから」


 そんなものが存在するのかと、昊天は目を見開いた。董将軍は鷹揚に煙草を蒸すばかりである。何度も繰り返してきた戦法なのだろう。董将軍は元から優秀な将軍だったが、ある時期から破竹の勢いで戦功を上げ続けた。


 神華帝国が五族協和を成し遂げられた裏には董将軍がいる。董将軍が目を見張るような戦功を上げ始めた時期というのが、龍帝から毒姫を預かり受けたときだろう。


 そして董将軍の予言通り、對王は和藩公主が輿入れしてからたった一夜で崩御した。その混乱の最中、神華帝国は国境を侵略し、最短で都に辿り着く。沢山の血を流しながら、ついに王宮を占拠した。


 その毒姫は、襦裙の裾を血で汚しながら屍の中で佇んでいた。色素が抜けた白銀の髪には蟲入りの琥珀の簪を一つ挿していた。


 「お待ちしておりました」


 感情を表に見せない抑揚のない声で、毒姫は董将軍と昊天に頭を下げた。董将軍は「待たせたな。回収にきた」と慣れた様子で、姑娘の衣が血塗れなことを気にも止めない。


 「こちら、龍帝陛下の長子である昊天殿下だ。ご挨拶を」


 董将軍が促すと、毒姫は昊天に拝礼した。


 「刀圭の一族、リウ 智衡ジーヘンの娘、柳 杏雪シンシュエと申します。昊天ハオティエン殿下にご挨拶申し上げます」


 これがのちに覇道を突き進み稀代の賢帝となる昊天と、彼の治世を陰ながら支えた女医の杏雪の出会いである。

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