やがて春は来る
あの日は雪がちらついていた。擦り切れたトランクを持って、アーシャは郊外の閑静な住宅地、その角の家の前に立っていた。今日からここがアーシャの家であり、里親が住んでいる家である。
名目上、里親、里子と言った擬似的な親子関係に書類上なったがアーシャがいた孤児院には小間使いとして女の子が欲しいと連絡があり、そして里親とも一度面会したが彼女は確かに娘という暖かな関係よりも小間使いを欲しているように見えた。
ドアベルを鳴らすと、物音がして扉が開いた。中からは痩せた女が出てきた。これがアーシャの里親であるスヴェトラーナである。彼女は先の戦争に女の身ながら出兵し、脳挫傷を三回やり、片耳が聞こえないし戦後の地雷撤去作業で運悪く左足を失い松葉杖がなければ生活ができなかった。
歳は三十半ばらしいが正直に言えばもっと年上に見えるし、いつも疲れているように見える。
「スヴェトラーナさん、アーシャです。今日からよろしくお願いします」
彼女の片耳が聞こえないことを考慮して、少し声を張り上げる。しかし、彼女は顔を顰めて「聞こえているから早く入って」と冷たく、アーシャを家の中に引き入れた。
彼女の足取りは重く、松葉杖のカツン、カツンという音が軋む廊下に響いた。壁紙はカーキ色で彼女の愛国心を示しているかのようだった。
「さっそく仕事を頼んでもいいかしら」
スヴェトラーナがアーシャに問いかける。
「はい。荷物を置いたらすぐにでも」
そう言ってアーシャは廊下の脇にトランクを置いた。
「二階の角部屋があなたの部屋だから。荷物はそこに置くとして。とりあえず、お湯を沸かしてお茶を淹れてくれないかしら」
「わかりました」
アーシャはトランクを持って階段を駆け上がると二階の角部屋に荷物とコートを放り投げた。二階は誰かが住んでいる形跡はなかった。スヴェトラーナのあの体では二階と一階の行き来は難しいだろうから使っていなかったのだろう。彼女は一人暮らしだったようだし。
キッチンの使い方は慣れないながらも湯を沸かし茶を入れた。スヴェトラーナはリビングの一人掛け用のソファに座って待っていた。
「ありがとう。こんな体じゃ、キッチンに立つのも大変だからあなたが来てくれて助かったわ」
スヴェトラーナはスカートの下、質量があるべき場所がぺたんとへこんでいるのを悲しそうに眺めた。太ももはある。しかし、膝から下が何もなかった。
元女兵士の彼女が戦災孤児のアーシャを引き取る。そこに何かしらの因果のようなものを勝手に感じていた。
スヴェトラーナはアーシャが来たことに安心したのか、徐々に弱っていった。高齢ではないはずなのにその弱り具合はアーシャの祖母が亡くなる前を思い出させた。リードグラードでアーシャは家族と住んでいた。祖母は戦争が始まる前に亡くなっていた。父は出兵してベルンシュタインの首都で亡くなったと後から知った。
母と弟は空からの爆撃で亡くした。ちょうど川を船で渡って街から脱出しようとしていた時だった。アーシャは運が良かった。いや、家族と一緒に死ねなかった分、運が悪かったと捉えるべきなのか。
アーシャはスヴェトラーナに言いつけられる家事を淡々とこなした。食事を作って洗濯物をして。彼女は白いシーツを好んだ。ベージュや生成りでは駄目だった。純白のシミひとつないシーツを好んで、そこだけは口うるさかった。戦後の物資が不足している中で高級品である石鹸を彼女は惜しみなく使えと指示した。
彼女は軍からの恩給で細々と暮らしていた。あとは戦前外交官を目指していたという彼女は敵国であったベルンシュタインの文学などを翻訳して生計を立てた。
アーシャは彼女の書斎には近づかなかった。掃除を言いつけられても出来るだけ下を向いて手早く済ませた。元とはいえ家族を殺した敵国の文字を見たくなかった。本棚にはきっとびっしりとベルンシュタインの本で埋まっているだろうから。
スヴェトラーナはやがてベッドで一日を過ごすようになった。心臓も患っているらしく、医者が言うには戦時中に心筋梗塞をやったらしいがスヴェトラーナは気がつかなかったという。
死を覚悟したのか、スヴェトラーナはよく独り言を漏らすようになった。壁に向かって自分の人生を振り返るのだ。アーシャは彼女の寝室を掃除しながら、いつもその独り言に耳を傾けた。
いつもその独り言、スヴェトラーナの人生の回顧録は彼女が物心ついた頃、兄の真似をするように射撃クラブに入ったところから始まる。
戦争が始まったら母親の反対を押し切って出兵した。そして短い間だが、あのルフィーナ共和国最高の女狙撃手、 エカチェリーナ・ゴロホーフスカヤのパートナーを勤めたこと。ここは思わずアーシャも口を挟んでしまった。
「エカチェリーナ・ゴロホーフスカヤって切手にもなったあの人?」
「そう。あの人。でも私は彼女の数いるパートナーのうちの一人でしかなく、パートナーであった時期も僅かだった」
きっと私のことなんて忘れているわ、とスヴェトラーナは悲しそうに呟いて、一筋の涙を流した。何故、自分が泣いているのかわからないかのように困惑していた。
そしてエカチェリーナとパートナーが解消された後も、スヴェトラーナは前線を志願し続け各地を転戦したとのこと。その頃に兄と父の訃報を知ったそうだ。一人残された母が不憫でならず、逃げ帰ろうとしたこともあったが敵前逃亡は死罪だと知っていたので諦めたという。
「戦場に行く前、髪が切られた時、私は兵隊になって女の自分は死んだような気がした。でも、私は今までの自分を捨てきれなかった。隠し持ってた白粉の匂いを嗅ぐたび、私は私でいられた。だから私は髪を伸ばすの」
スヴェトラーナが隠し持っていた白粉は今でも彼女のドレッサーに大切にしまわれている。掃除の時も、アーシャはドレッサーの鏡を拭き清めるだけで中身は絶対に触るなと厳命されていた。
「あなたを引き取ったのは、女一人で暮らしてたらスパイ容疑がかけられちゃうでしょう? だから、一応娘としておけば都合が良かったのよ。男の子は駄目なのよ。すぐ不発弾があるかもしれない危険な場所に遊びに行くし、すぐ戦争ごっこをしたがる。戦闘機のおもちゃなんか持ってるのを見たら私は怒り狂いそうだから」
スヴェトラーナはシーツを撫でた。その柔らかい感触を覚えていられるように。しかし、彼女の独り言は全てを話したわけではなかった。彼女が貝のように固く口を閉したのは恋についてだった。
しかしそれも、アーシャが何度か聞くうちにポツリポツリと語るようになっていた。
「帰ったら結婚しようと約束していた人がいたの。でも私がこんな体になって、彼は私が子供を産めないと判断して私の従妹と結婚したの。母は味方になってくれなかったわ。不具になって帰ってくるくらいならいっそ死んでしまった方がマシだったと言ったのよ」
「そんな酷いことってないわ。スヴェトラーナさんの婚約者も従妹も母親もみんな最低よ」
アーシャは思わず怒りと悲しみで涙を流した。
「案外、間違いじゃなかったかもしれないの。戦争中、私は女のアレが止まっていた。もしかしたら子供は望めなかったかも。私はきっと死に時を逃したんだわ。それでも母はこの家を遺してくれた」
スヴェトラーナは泣くアーシャを慰めるように言ったが、それは全然慰めにはならなかった。
「死に時を間違えたなんてそんなことないわ。せっかく生き残ったのに」
「そうね。最近はそう思えるようになったかもしれないわ。あなたが来てくれたから。弁護士に頼んで遺書を制作したの。僅かだけど私の蓄えとこの家、あなたにあげるわ。家は住むなり売るなりしてくれていいのだけれどね」
スヴェトラーナは力なく笑った。それが彼女が弱りきってもう長くはないことを示していた。
「あなたに会えてよかった」
母娘にはなれなかった。でも、欠けたものを埋めるように互いに足掻いていたのだろう。それが今、埋まったような気がした。
「私もです。スヴェトラーナさん」
全ては戦争が奪って行った。しかし、繋がれた縁もある。
「私がベルンシュタインの首都に進軍したとき、廃屋の壁にチョークで『戦争を殺しにきた』と書いたのよ。私が憎んだのは敵じゃなくて戦争よ」
それが彼女の最後の言葉だった。疲れたから眠ると彼女は部屋の電気を消して、アーシャは部屋から出た。彼女は夜中に心臓の発作を起こして、そのまま帰らなかった。
葬儀は小さく静かに行った。葬儀に彼女のかつてのパートナー、 エカチェリーナ・ゴロホーフスカヤその人が駆けつけてくれたことが、彼女にとって救いになるかもしれなかった。
僅かばかりの遺産と家を受け継いだアーシャは彼女の書斎もそっくりそのまま受け継ぐことになった。しかし、アーシャは書斎に鍵をかけて出入りができないようにした。憎んだのは敵ではなく、戦争だとスヴェトラーナが悟ってもアーシャにはそこまで悟りきれなかった。
だから、鍵をかけ自分が死ぬ時にこの家ごと行政に処分してもらおうと考えた。しかし、スヴェトラーナの言葉がずっと頭の中にあった。
書斎の鍵を開けたのはスヴェトラーナが死んでから数年経った時だった。やっとアーシャも敵に対する憎しみが薄れて、彼女を真に理解しようと思ったからだ。
書斎は埃っぽく、カビ臭っかった。本棚から、手近な一冊を取り出したが当然、ベルンシュタインの言葉なんかわかるわけがない。その日は一日中書斎で辞書を探すことになった。
締め切っていた窓をあけると春がやって来る匂いがした。