16年前儚くなった君へ
墓石の前に佇む私の頬を風が撫でた。日が短くなり涼しくなってきた風は、金木犀の甘い香りを含んでいた。金木犀の香りが最後に見た彼の記憶を揺さぶり、胸が苦しくなった。思わず、胸をつかみ俯いて瞼を固く閉じるとより強く金木犀が香った。瞼の裏に浮かんだ彼の姿が鮮明で、涙がこぼれるのを我慢することは、もう無理だった。あふれ出る涙を我慢しようとすればするほど、胸が痛くなる。彼の記憶もとめどなく溢れてくる。笑った顔、怒った顔、困った顔、拗ねた顔、嬉しそうな顔の生前の彼の姿。ここ十数年、思い出せなった優しい記憶の荒波に揉まれ、うずくまるように私は涙を流し続けた。
彼と私が出会ったのは、今から十数年前。私が六歳のことだった。当時の私は、とても内向的な性格をしており、知らない人や知らない場所は恐怖の対象だった。そのため勿論、友達などいるはずもなかった。そんな私を心配した両親は、ショック療法でどうにかしようとしたらしい。嫌がる私を無理やり公園に連れ出し、姿をくらました。つまり、私を置いてとんずらしたということで、初めての場所に放り出され、両親も姿が見えず、私はもう泣きそうだった。知らない場所に、周りにいるのは知らない子。知らない大人たち。すべてが恐ろしく震えていた時、私に声をかけてくれたのが彼だった。彼と初めて会った時、私は混乱と恐ろしさでべそをかいていたと思う。そんな私をなだめすかし、同じぐらいの子供たちのところまで手を引いて、仲間に入れてくれた。それからは、みんなと打ち解けるのにさほど時間はかからなかった。もちろん、声をかけてくれた彼のバックアップあってのことではあったけれど。この日を境に、私の見知らぬ人への恐怖心が改善していったのはいうまでもなく、初めてまともに話し遊んでくれた彼に、私が懐くのは当然のことだった。意外だったことは、誰とでも仲良くなれる社交の塊である彼が、当時コミュ障であった私と、お互いに親友と口にするほど仲良くなっていったことだ。彼と出会ってから、両親や親戚が驚くほど私は明るくなり笑うことが多くなったらしい。自覚はなかったが、彼に出会う前までの私は無表情、無口がデフォルトだったようで、明るくなった娘をいたく喜んだ両親は彼の両親を巻き込み、家族ぐるみの付き合いをするようになった。それから、彼と出会ってからちょうど四年目、幸せ時間は終わりを告げた。
今でもよく夢に見る、忘れることもない悪夢の日。春のポカポカした陽気に包まれた穏やかな日だった。その日はみんなと公園で遊ぶ約束をしていて、向かっている途中ずっとワクワクしていたのを今でも覚えている。周りは林が茂っている田舎道で、目の前を横切った黒猫を見つめていた一瞬の出来事。瞳をあげたら、世界が一変していた。そこから先は、地獄だった。異世界へ召喚されてからのことすべては、覚えていない。途切れ途切れの記憶にあるのは、暴力と辱め、恐怖と絶望と死への渇望。痛くて、汚くて、怖いのが、ずっと続くのだと、首輪から伸びる鎖を引かれながら醜悪なケダモノが告げた時、私は絶望に突き落とされた。それからは、記憶がおぼろげで死ぬことだけを願っていた。早く殺してほしい。誰かこの地獄から解放してほしい。魂だけであれば、汚くなることも、痛いこともないはずだからどうか、私に死を。どれだけ時がたったのか、気が付けば望み通り私は、解放されていた。綺麗な花畑で、永遠に一人で遊んでいた。私以外誰一人いない、暖かくていい匂いがして安心できるそこから、出たくなかった。外にでても、死にたくなるだけならばずっと一人で安心できるところにいた方がいい。一人は寂しいけれど、痛いのも怖いのも汚いのも、もう嫌だった。異世界から救出された私は、正気を失っていた。外の世界を何も認識せず、自分の世界に閉じこもり漂っていた。だから、両親がどれだけ嘆いたか、親友がどれだけ衝撃を受け異世界人に憎しみを抱いたか私は知らなかった。そう、知らなかった。知ったのは、彼のお葬式の日。彼のお葬式の日は、雨だった。いつも暖かくて優しい世界で雨が降った。雨の中遊んでいた私に雷が落ち、世界が真っ白に染まった。瞳を開いた先には、花にまみれた彼が棺桶で眠っていた。勝ち誇ったように笑みを浮かべて。混乱した。花畑で遊んでいたのに、気が付いたら親友が棺桶で眠っているなんて。何が起きたか分からなかった。でも、本当に死んでいるように真っ白な顔をして、横たわっている彼に手を伸ばさずにはいられなかった。触れた彼の頬は、ひんやりと冷たく生気を全く感じなかった。まるで死体みたいだった。怖くなって、声をかけたが目を覚ますこともなければ、口を開くこともない。なんで、とこぼれた言葉に答える声の代わりに、両親が私を強く抱きしめた。泣きながら、よかったと、奇跡だと声を震わせながら。何がよかったのか、何が奇跡なのか、彼は棺桶の中だというのに。私を抱きしめる両親を振りほどき、彼をゆすった。起きて。ねぇ、起きて。なんでこんなところで眠っているの。ねぇ、なんで。なんで。なんで。なんで。なんで。お葬式をしているの。この前まで、一緒に遊んでいたのに。お喋りしていたのに。なんで、目を覚まさないの。彼をゆすり続ける私の肩を、彼のお母さんが泣きながら止めた。目を真っ赤に泣きはらした彼のお母さんは、優しく私を引き離し、私を抱きしめながらよかったと呟いた。そして、私が聞きたくない事実を教えてくれた。息子は天国へ行ってしまったと。嘘だと叫んでしまいそうになった。けれど、涙を流しやつれている彼のお母さんを見て、のどの奥に言葉が詰まった。朗らかで笑顔が絶えなかった人の初めて見る痛々しいその姿が如実に、真実を物語ってた。彼が死んだ。死んでしまった。私が知らない間に、この世から消えてしまった。最後に交わした言葉はなんだっけ。ぼんやりと、そんなことを考えている間にお葬式は終わった。お葬式後、精密検査のため病院へ連れていかれそうになっていた私を、彼の両親が呼び止めた。渡されたのは、彼の日記だった。どうか息子を忘れないでほしいと手渡された日記はちょうど四年前の日付から始まっていた。たぶん私と出会ってから書き始めたのではないだろうか。私と彼が出会ったぐらいの時期の日付が記されていたから間違いない。日記には、私と彼の懐かしく優しい思い出が綴ってあった。彼との思い出に触れるたび、彼がこの世から消えてしまったなんて認められなかった。彼は死んでなんかいなくて、いつものように私の家に遊びに来てくれると、日記を読み進めるまでは思っていた。日記を読み進めていると、ある日を境に、異世界人への呪詛が書かれていた。友達が異世界に攫われたと綴ってあった。そこには、私が異世界へ攫われた数か月前の日付が記されていた。数か月前の日付以降は、異世界人への憎悪、自分自身への怒りや憤り、正気を失った友達への悲しみが書かれていた。ところどころ、字が滲んでいたり、筆跡が荒々しかった。彼が最後に綴ったであろう日付には、異世界人へ復讐を誓う内容が書かれていた。許さない。絶対に絶対に許さない。異世界人に彼女と同じ苦しみを痛みを味わわせてやる。復讐してやる。返せ。彼女を返せ。なんでだよ。なんで、彼女がこんな目に合わなければいけないのか。なんで、俺は何もできなかったのか。彼女に傷ついてほしくなかった。ずっと笑っていてほしかった。ねぇ、神様お願いです。彼女を治してください。彼女を元に戻してください。どうか、どうか、彼女ともう一度笑いあえますように。そこで日記は終わっていた。彼は異世界へ攫われ拷問されて末、息絶えたと聞いた。彼は、私の姿を見て異世界人への憎しみを募らせていた。そんな彼が異世界へ攫われたら、彼らに歯向かう。命よりも、復讐を選んだ果てに、彼は、死んだ。そう考えて、血の気が引いた。彼が死んだなんて嘘だ。認めない。どこに隠れているだけで、きっとまた会える。そう思い込もうとすればするほど、胸が張り裂けそうに痛い。呼吸が乱れる。遠くで獣のような、うめき声が聞こえた。私が発した声だと、両親が駆けつけて気づいた。私の頬は、涙に濡れていた。彼が死んだことを、私は認めてしまった。それからは、ずっと泣いていた。納骨の日、墓所には、彼と出会った時のように金木犀の香りが漂っていた。
彼がいなくなってから、十六年。十歳だった私はもういない。泣いて、悲しんでいた少女は、敵を討つために、大事な人を奪った者共の復讐するためにある部隊に入った。昔から、この村では子供たちが異世界へ攫われる事件が起こっていた。それに対抗するために、人々は救出部隊を発足した。私が所属している勇者救出部隊だ。目の前の小古瀬と彫られている墓石に、手をを合わせる。
「今日はね、ショウくんに報告したいことがたくさんあるの」
私以外誰もいない墓地からは、チルッ、チルッと虫の鳴き声が聞こえた。静かな墓地に私と虫の鳴き声だけが広がった。ずっと彼に報告したかった。ずっと彼に伝えたかった。彼が奪われた日から、願わずにはいられなかった真っ黒な願い。彼の殺した異世界を滅ぼしたい。苦しめたい。苦しめながら、後悔させながら殺したい。その願いがやっと叶った。それを伝えに、私は彼の元へと来た。真っ白で純真無垢だった私は、彼が死んだ十六年前に死に絶え、今の私は血に濡れ汚い大人になってしまった。こんな私を彼は嫌うだろうか。悲しむだろうか。たとえ、嫌われたとしても、悲しんだとしても彼の声が聞けるなら、私は構わない。もう一度、彼と会いたい。笑いあいたい。絶対に叶わない願い。それが、私の本当の願いだった。
彼は私の太陽だった。いるだけで、周りを明るく温かく照らし、時には灼熱のごとく苛烈に感情を露にする。太陽はもういない。落ちてしまった太陽が戻ることはない。これから先も、私は暗闇のなかで生きていくのだろう。闇の中で、私は祈る。どうか彼が安らかに眠れますようにと。
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