9.貴賓室では
フローラの頼りなく薄い背中が、全力でテオドール王太子に対して拒否を示していた。
「わたくしを、憐れと思召しなら……わたくしなど、どうか、お捨ておき、くださいませ……どうか」
細い肩を震わせ、途切れ途切れに訴えるさまは憐れを誘った。
このように泣かせたくはなかった。
フローラには笑顔でいて欲しい。
この薄幸の美少女には。
「フローラ……私はそなたにジベティヌス公爵位を継いで貰おうと思っている」
「――え?」
思わぬことを聞いた、という表情で王太子を見上げるフローラ。あどけないその藍色の瞳に長く映っていたかった。
「ジベティヌス女公爵となり、婿をとれ。勿論、白い結婚だ。そうしてそなたは私の宮殿に上がりなさい。私がそなたをすべての物から守ろう。何人たりともそなたに近寄らせないと誓おう。そなたを悩ませる事象は私がすべて片付けよう」
「……」
「だから、私の手をとれ」
フローラは困惑した表情で王太子を見つめた。目の縁が赤く、まだ涙がそこに残っているのが愛らしかった。
こんな怯えた状態のフローラにこれ以上答えを強要するのは悪手だと思い直し、王太子は退室した。
去り際に強烈なことばを残して。
「そなたの次の公爵位は……そなたの生む私の子が、継ぐことになるだろう」
静かに扉が閉まり、ひとりになったフローラは壁に寄り掛かって大きなため息を吐いた。
「えっとぉ……おキレイな言い方してたけど、つまり愛人になれって、言われたんだよね……そいでもって、公爵家は事実上王家が乗っとるぞと宣言した……ってこと、でいいのかな」
先程までの、楚々とした令嬢と同一人物とは思えないぞんざいな口調での呟きに応える声があった。
『そう言ってたな。どうする? お嬢』
天井裏から聞きなれない男の声が落ちて来た。
「あの日記トラップが日の目を浴びたみたいだったから、穏便にお断りしたつもりだったんだけど」
『余計に火が着いたって感じだったぞ』
フローラは天井から落ちて来る声に平然と返答した。その言葉遣いは、どちらかというと市井のどこにでもいる下町娘のそれであった。
「ははは、やっぱそう思うよねぇ……失敗したなぁ」
『お嬢は悪くねぇよ。悪いのは余計なスケベ心だした殿下の方だ……で? どうするよ』
「どうするって決まってるよ……いつもみたいに上手い方法を考えてよ、ヤン」
『承知』
◇
翌日、フローラの部屋を訪れたのは王立騎士団副団長のジャン・ロベールだった。彼はジベティヌス公爵家のトマス執事補佐とその娘エイダを伴って訪問した。
「まったく、あの人は……」
そう言いながら、副団長はフローラに謝罪した。
主に軟禁状態で誰との面会も許さない現状について。公爵家内の捜索をしたときに知り合ったトマスから副団長に現状に対する陳情があがったのだ。せめてフローラお嬢様の無事なお顔を見せて欲しいと。
ジャン・ロベールにしても、フローラが元気を無くしているという報告が上がっている以上、彼女の安否を確かめたかった。彼女を慰めるため、よく見知った人間を伴ったのだ。
「トマス、まだお屋敷の方へ親戚の方たちは押し寄せてきているの? みなさん、わたくしをどうしようというのかしら」
少々窶れたようにも見えたフローラの様子だったが、顔なじみのトマス親子と笑顔で話すさまに副団長はホッと胸をなで下ろした。
「公爵の弟カペー伯は、フローラお嬢様に相続放棄して貰いたいようです。公爵の甥のバイロン卿はお嬢様と結婚したいと。あと公爵の叔父の嫁の兄の息子が、やはりお嬢様と結婚したい旨申し出てます。あと……」
「父さん、もうそんな事はいいから! お嬢様、不自由なことはありませんか? 大丈夫ですか? これ、あたしが焼いたクッキーです。どうぞ召し上がってください」
「わぁ! いつものエイダのクッキー? ありがとう!」
食べなれたクッキーの差し入れにはしゃぐ、年相応の顔を見せるフローラの様子に目を細めていた副団長だったが、従僕が近寄って彼に耳打ちをしたせいで、機嫌が急下降した。
「申し訳ない、急な呼び出しがありましたので席を外します。トマス、面会時間はあと五分だが、了承してくれ」
「はい。ありがとうございました」
副団長はその場に執事親子とフローラを残して退出した。扉前で警戒任務につく衛兵に五分後の面会人退出を命じたあと、彼を呼び出した上司の元へ向かった。
彼を呼び出したのは勿論、テオドール王太子である。
◇
「なぜフローラへの面会を許可した?」
開口一番、不満を漏らした王太子に負けず、同じような不満顔で副団長も応戦した。
「あんた鬼か。言っただろ? たった15歳の少女に何を背負わせようとしてんだって。そのくせ、彼女の心の面倒はみない気か? 軟禁状態にして散歩すらさせないなんて! せめて彼女のよく見知った人間くらい側に置いてやれよ」
幼馴染みのまっとうな意見に二の句が継げず、黙り込んでしまった王太子だったが、観念して彼に白旗をあげた。最初から口調を崩し、プライベートな会話として話していたからこそ素直に謝れたともいえる。
「すまん。急ぎ過ぎた……だが、老齢の執事とはいえ、彼女の側に男が近寄るのが許せんのだよ」
王太子の返答に、副団長はしばし沈黙で応えた。
「……今度は俺の開いた口がふさがらないよ、テオ。色ボケにもほどがあるだろうに……。今王宮内で即急に解決しなきゃならん事案はなんだ?」
昔から呼ばれ慣れたテオという愛称のお陰で、ふたりのあいだにあった剣呑な空気が少し柔らかくなった。
「……ビイロ帝国がキナ臭くなっているから、その外交と、……俺の新しい婚約者の選出と……」
「先日の大雨による穀物被害の対策! ……ったくしっかりしろよ! 大丈夫だよ、あの子は宮殿に居るのが一番安全なんだし、お前がそうしたいってんなら、部下もその意向を汲んで行動するし」
「ジャン、お前反対していたんじゃ……!」
「反対だ。だが王太子の意向がそうなら仕方ないだろう? ただし! 相手は今15歳だって、忘れるなよ? お前より10も年下なんだからな、無体な真似は絶対するな! お前がその顔で誠実に対応するなら、落ちない女なんかいないからな!」
「ジャン・ロベール副団長。たったいまキミの給与を倍額にするよう手配しよう」
「よせやめろ。余計な事務仕事を増やすな!」
王太子と彼の側近の騎士団副団長がそんな会話を交わした3日後。
フローラ・ジベティヌス公爵令嬢は忽然とその姿を消した。