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8.グロリアの日記

 

「それは? グロリア嬢の日記なのか?」


 ジャン・ロベール副団長がテオドール王太子に手渡したのは青い表紙の日記帳だった。


「はい。使用人にも確認を取りました。グロリア嬢自筆の日記です……しおりの挟んであるページをご覧ください」


 しばらく日記に目をとおしていたテオドールは、そこに書かれていた内容に愕然とした。


 それは、グロリアの兄アレクサンダーによる異母妹フローラへの性的虐待の記録だった。

 フローラは母屋から離れた場所で寝起きしていた。

 夜、人目を忍んでフローラのいる別邸に忍び込むアレクサンダー。兄のそんな行動に不信感を抱き、彼を尾行して真実を知ってしまったグロリア。日記には兄に対する侮蔑と、異母妹フローラが踊り子の娘だから悪いのだと悪口雑言(あっこうぞうごん)が記されていた。



「これは、真実なのか?」


 テオドール王太子は自分の顔色が悪くなっているだろうと自覚しながら、副団長に確認の言葉を投げた。


「使用人たちにも確認を取りましたが、真偽のほどは分かりませんでした。だれもがアレクサンダー卿がそんなことするとは思えない、と。

 ただ、フローラ嬢にヒドイ言葉を投げつける彼は、皆認知していました。そして……」


「そして? なんだ、もったいぶらないで全部話せ」


 申し訳なさそうな表情でジャン・ロベール副団長は口を開いた。


「我々が聞き取りをしたせいで、真実であるかのように噂が広まってしまいました」


「おぉ……」


 アレクサンダー・ジベティヌスとは幼い頃に知り合った。公爵家の長男で、王太子の婚約者となったヴィクトリアの双子の兄。彼の為人(ひととなり)はよく知っていると思っていたが、まさか異母妹に欲情するような下種(ゲス)な人間だとは思ってもいなかった。


「ですが、これでアレクサンダーだけ遺体損壊が激しい理由の説明がつきます。公爵は知ってしまったのです。愛娘がよりにもよって自分の息子に汚されたという事を。だからこそ、あのように、まるで恨みを晴らすかのように滅多刺しされていたのでしょう」


「なんということだ……この件、箝口令(かんこうれい)()くことは可能か?」


「可能ですが……効果のほど、確約はできません」


 ジベティヌス公爵家の使用人たちとはいえ、下々の者が手にしたスキャンダラスな情報。

 幾ら箝口令を布いたとて、逆に『ここだけの話だ』という触れ込みで広まるなど目に見えている。

 しかも、騎士団の人間も知ってしまった。人の口に戸は立てられぬ。下々の者だけに留まる噂話などない。噂されればされるほど、貴族たちの耳に入るのもあっという間だろう。

 未来の王太子妃にそんなスキャンダルはご法度だ。

 事実か否かなど問題ではない。

 そんな噂があったということが問題なのだ。なぜなら王太子妃とは次代の国母となる立場だ。王以外の男と通じていたなど、あってはならないのだ。


「これを読む限り……フローラ嬢は毎回抵抗しているが、アレクの暴力の前に言うことをきかざるを得ない状況だったようだな」


 日記帳を引き裂きたいような心境で、それを開く。少しクセのある尖った文字が執筆者の性格を表しているようだった。


「グロリア嬢の視点では『最初にもう来るなと拒否するのは彼女の作戦だ』とか、『泣いて許しを請うような媚びる真似をしてあざとい』と悪し様に罵っていますがね」


 副団長も苦虫を嚙み潰したような表情だった。


「アレクも最低だが、あの姉妹は、本当にどうしようもないな! 姉が姉なら妹も妹だ! 同じ女性だというのに、相手を(おもんぱか)ることもしないのか!」


「……そんな調子だったからこそ、公爵の怒りに触れ、あのような目に……」


 なるほど。結果、公爵閣下の一刀のもとに物言わぬ姿に成り果てたのだ。部下の呑み込んだことばの続きが『自業自得だ』と言っているような気がした。

 副団長が沈痛な面持ちのままことばを繋ぐ。


「とはいえ。さきほど自分が申し上げた『フローラ嬢を王太子妃にできない』という件は、ご理解頂けたでしょう?」


 副団長のそのことばに、王太子は眉根を寄せた。

 部下の言い分は理解した。だが素直に頷く気にはなれなかった。


「……ならば、愛妾という手がある」


「え?」


「フローラ嬢にはジベティヌス公爵位を継がせよう。そして適当な男を見繕って結婚させる。誰かの夫人という立場になれば相談役とでもなんでも適当な役職を与え、私の宮殿に置けばいい」


 王太子のとんでもない発言に副団長は眉を吊り上げて非難した。


「……あんた、自分が何をいっているのか理解しているのか?」


「口調!」


「まだ15歳の少女に! 10も年下の! あんた、なんてことさせようとしてんだって聞いてんだよっ! あんた、サイテーだっ! 見損なった!」


 ジャン・ロベール副団長はもともと王太子と幼馴染みで兄弟のように気安い間柄だった。だからこそ、カッとなって昔のようにことばを崩した捨て台詞を残し、激しく扉を叩きつけるような勢いで退室した。


 静かになった執務室で、王太子はひとりごちる。


「……私はいずれ王になる身だ。それが許される身だ……」


 瞼の裏で、フローラの(まばゆ)い金髪が跳ねた。


「どうしても……彼女が欲しい……」


 不安げに瞳を揺らし、王太子を一心に見つめたあの藍の瞳が忘れられない。

 質素なワンピースに包まれた細い身体に似合わぬ豊満な胸。

 陽の光を弾く金の髪。

 彼女を構成するすべてが王太子のために用意されたもののように感じた。だがその身はすでに汚されている。


「アレク……奴とも昔馴染みだが、死んでよかった。公爵は罪を犯したが、奴を葬ったことだけは褒めてやってもいい」


 ほの暗い表情のまま書類仕事に戻る王太子の横顔を、空の細い月だけが見ていた。



 ◇



 翌日。

 ジベティヌス公爵家の執事がフローラ嬢を訪ね登城した。彼女の着替えなどを持って来たという。荷物だけ預かり、彼女との面会は許さなかった。


 王太子は今回のジベティヌス公爵一家殺害事件を、公爵本人が容疑者だと断定、容疑者死亡として始末をつけた。


 途端に、ジベティヌス公爵の弟カペー伯爵がフローラの身柄を渡すよう申請してきた。それを断るとせめて遺産相続について話し合いたいからと彼女との面会を要求してきた。

 カペー伯爵だけでなく、前公爵の弟の息子と名乗る男や、遠い親戚たちがこぞってフローラとの面会を望んだ。

 すべて王太子の一存で却下した。


 その間、日に一度はフローラの様子見と称し、お茶の時間を設けた。フローラは日に日に花が(しお)れるように元気を無くしていった。




「もう、帰ってもよろしいのでしょうか」


 王太子の贈ったドレスには袖を通さず、あいかわらず質素なワンピース姿のフローラが王太子の対面に座り、不安そうに尋ねた。


「だめだ。まだ強欲な親戚どもがそなたとの面会を求めている」


「殿下、わたくしがここにいては、騎士団みなさまのご迷惑にはなりませんか?」


「構わない。か弱い貴族令嬢を守護するのも騎士団の務めだ」


 フローラは何度か口を開いては躊躇(ためら)い視線を落とし、また意を決して話そうとするという動作を繰り返した。


「ですが、殿下……わたくしは、その……先日殿下から有り難いお誘いをいただきましたが……その、妃になどなれません……その資格が、ないのです……実は、わたくしは」


「みなまで言うな」


 思い切って話そうとしたフローラの発言を、王太子は強い口調で止めた。


「言わなくていい。すべて、承知している」


「え?」


「そなたがアレクに無体を強いられていたこと。ぜんぶ承知している」


 王太子がそう告げた途端、フローラは思わず、といった調子で立ち上がった。

 そして王太子に背を向け壁の隅にまで移動した。それは小動物が捕獲者から逃げる行動のように見えた。


「もうしわけ、ありません……わたくしのことは、お捨て置き、くださいませ……」


 涙に滲み途切れ途切れになった声は痛々しかった。


「フローラ!」


 王太子は彼女の側に駆け寄ろうとしたが、


「来ないでくださいませっ」


 悲鳴のようなフローラの声に、立ち止まらざるを得なかった。





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