12.月夜のフローラ
ジベティヌス公爵は、自室で血に塗れた愛刀を丁寧に拭いた。
血糊がついたまま納刀すれば、そのまま錆び付いて使い物にならなくなる。その拭き取った血は、彼の妻と彼の血を分けた子どもの物であったがなんの感慨もなかった。
彼はただ彼の意に添わぬ者を始末しただけだ。
彼が愛した女を虐げた者など、この世に生きている価値などないのだから。
愛刀を鞘に納め、いつもあるように壁の定位置に戻した。
朝には使用人とジベティヌス騎士団に命じ、不埒者の死体を片付けさせようと思ったとき。
「……リオ……わたしの愛しいドゥリオは、どこ……?」
そのか細い声は、耳に懐かしく響いた。
慌てて窓を開け、ベランダから階下を見下ろす。そこには、愛しい女がいた。
月明りの下、異国の衣装を着たなつかしい姿。
旅芸人一座の舞姫。
金の髪の踊り子。
彼の唯一愛したオーロラが、そこには、いた。
「……オーロラ……」
階下の庭にいた彼女は、公爵の呟きに反応した。
振り仰ぎ、二階のベランダにいる公爵を見つける。彼女が動くたびに、手首や足首に巻いた鈴から可憐な音がしゃらりと鳴った。
「ドゥリオ! わたしのリオ! そこにいたのね……探したのよ……」
そう言って花が綻ぶような満面の笑みを浮かべた。
彼に向かい細い両腕をのばした。手首に捲かれた鈴がまた音を立てた。
そこにいたのはオーロラではなく、彼女に生き写しの娘フローラ。
フローラが母の遺品である昔の衣装を身に纏い、父の愛称を呼んだ。
「来て……会いたかったの、いますぐ、来てっ……リオ……!」
「……オーロラ! いま行く!」
公爵は愛する女がそこにいる事実に歓喜し、彼女が自分を呼ぶ声に応えてベランダの欄干を越えた。
何もなければ。
軍部に所属し身体を鍛えている彼にとって、二階のベランダから飛び降りるなど造作もない行為だった。実際、過去オーロラに会うために塀を乗り越え、何度も同じようなことをしてきた。
フローラは、そういった父母の一連の出会いを寝物語によく聞いていた。
だが今回は。
ベランダの隅には気配を殺したヤンがいた。
彼は飛び降りる直前の公爵の背後をとり、彼の首にロープをかけた。ロープの先は欄干に括りつけられており、当然のことながら公爵は地に足を下ろす前に首にかけられたロープのせいで、宙に吊られた。
フローラは目の前で起こった一連の事象、すべてをその目に焼き付けた。彼女の父親だった人間が苦しみ、絶命するまでを、全部。
表情を無くし月明りに照らされた彼女の美貌は、まるで秀麗な人形がそこにいるかのような錯覚を他者に与えた。
「今ロープを切れば、まだ助かるぞ」
身の軽いヤンが、さきほど公爵がやろうとしたようにベランダからひょいと降りてきて、フローラの耳元で囁いた。
「邪魔者は排除する。そう言ったのは私よ」
抑揚のない感情を抑えた声でフローラは応えた。
「無理して見なくても」
「最後の肉親だもの。――せめて、見届けるわ」
公爵自身が彼女の姿をみて、オーロラと認識したのだ。
きっと母が彼を迎えに来たのだ。
冥府の底から迎えに来たのだから、当然彼の行き先もそこだろう。
もし。
もし万が一、庭にいたのが彼の娘だとしっかり認識したのなら起きなかった悲劇だ。
フローラはそう思い、黙って瞳を閉じた。
「よし。じゃあ撤収……と言いたいところだが。このままズラかる訳にはいかないだろうなぁ」
「え? どうして?」
「明日の朝、スチュアートあたりがこれを発見したら、どうなると思う? その時俺らがいなかったら?」
邸宅内には刺殺遺体と首つり死体。三女は御者と共に行方不明。
……普通に考えて一大事だ。
そしてスチュアートとはジベティヌス公爵家に代々仕える筆頭執事である。彼は四角四面で融通が利かない。
「なるほど、今はダメね。今私とヤンがいなくなったらすべての罪をヤンが負う可能性があるわ」
「そ。俺がお嬢をイジメた奴らを始末して、お嬢を攫った誘拐犯になるかんじ?」
そうなったら筆頭公爵家の名にかけて犯人と目された者に捜索の手が伸ばされるだろう。
『お家だいじ』の筆頭執事スチュアートならそれくらいやる。
「それはマズイわ。ヤンだけでなく、屋敷の使用人に容疑がかかるのは避けたいもの。どうしたらいい? 考えて、ヤン」
「承知。――お嬢は離れに戻って普通に寝て。そのキラキラ衣装はちゃんと仕舞って置いて。――あとは、俺らに任せろ」
かくして。
翌朝、ジベティヌス公爵家で起こった惨事の第一発見者はトマス執事補佐(もともとはオーロラに仕える形でジベティヌス公爵家に潜入した旅芸人一座の人間)だった。
彼はいち早く騒いで王宮の騎士団に捜査権を渡した。これはジベティヌス公爵が起こした騒動だと王家に、この国の最高権力者に認識させたのだ。
第一発見者が、代々ジベティヌス公爵家に仕えお家だいじのスチュアート筆頭執事だったら、分家に連絡して内々に事件をもみ消そうとしただろう。
それではフローラが逃げる隙を奪われる。
もうフローラが公爵家に、この国に留まる理由はないのだ。
トマスはヤンから指示を受け、フローラの身を王宮に保護させた。
王立騎士団という外部を介入させ、この惨劇は当主による暴走だとお墨付きをもらったら、王宮から下がるその足でこの国を脱出させようと考えていた。フローラがジベティヌス公爵家の相続権を放棄する旨の書類を作ったら、もう柵はなくなる。
「あ。一つの嫌な可能性がでてきた」
「可能性?」
ヤンの呟きにトマスが問い返す。
「王太子がお嬢の美貌に目をつける可能性。あの人、婚約者を亡くしたばかりってことになるじゃん」
「あぁ……」
ヤンの言葉を聞いたトマスも、同じ可能性に思い至り苦い顔をした。
「そうなったら、お役御免だからって正面玄関から帰るのは不可能になりそうじゃね?」
「ふむ……こっそり抜け出すしかない、か」
「だな。その算段もつけておくか」
ヤンの懸念は当たった。
フローラは王立騎士団に保護される身となり丁重に扱われたが、王太子に目をつけられた。妃にならないかと持ち掛けられ、フローラ自身「まじサイテー! キモい信じらんないっ」と怒り心頭となった。
「あの人、夜会でわたしがオネーサマたちに虐げられていた現場に居合わせた人よ? あの場を見ていた人なのよ? あれを見ていながら! その場で最も高貴な身分で発言力がありながら、オネーサマたちの悪行を一切止めなかった人なのよ?! しかもわたしが公爵家の推定相続人だと思ったからこそ声を掛けたのよ? その上あの日記トラップを知ったら諦めるかと思ったら、愛人になれと言った欲深ジジイよ? わたしの胸ばっかり見てるのよ? ただの面白がった傍観者でわたしを庇おうともしない、下半身に意識を乗っ取られた男に靡く理由なんてないわよっ! いくら顔が良くてもお断りよっ! キモっ」
着替えと差し入れを持って面会に(ついでに撤収日を連絡するため)来たトマスとエイダ親子がフローラに、『王太子殿下の求婚に対してはどうしますか』ときいた時の答えである。
彼らももっともな意見だと頷いた。
次でラスト!




