むにむに、もみもみ
その瞬間、オフィスは歓声に包まれた。到底締め切りまでに終わらすのが無理だと思われていた仕事が奇跡的に片付いたからだ。
「うおぉぉっ、終わったぁぁっ」
「課長スゲー、課長マジ、神です」
「山口君、ありがとう。本当にありがとう、おかげで首が繋がった」
口々に部署の皆が山口課長を褒め称える。部長なんて文字通り感涙にむせび泣いていた。全国展開している大手ファミレスのPOSシステムのエラーが見つかったのは納入直前の出来事だ。すごいデカい仕事で、ポシゃるとシャレにならない事になったらしい。課長が取引先と交渉してくれなかったらマジでやばかっただろう。
「課長、飲みにいきませんか?」
修羅場は終わった。明日は休みだし、このまま打ち上げだ。当然、課長も参加するのだと思っていたら、山口課長は苦笑いしたまま俺たちに答えた。
「いや、やめておくよ。さすがに疲れた」
「ええ~、つき合い悪いっすよ」
「そうは言っても、そろそろ年だしね」
「そんなこと言って、まだ40代じゃないですか」
「もう40代だ。そういう訳で、おじさんは先にあがらせてもらうよ」
気づけば部長もいつの間にか消えている。まだ20代前半の俺には想像出来ないが、おじさんの肉体というのは想像以上にくたびれ易いらしい。
そんなことを飲みの席で言うと、先輩の社員がさっきの課長と同じような顔をして言った。
「咲山はまだ仕事初めたばっかしだもんな。俺は腰が痛いよ」
「私も~」
「座りっぱなしの仕事だからなぁ。咲山も気ぃつけろよ。若いからって油断してると腰いわすからな」
「そうですか?」
考えてみると先輩達はディスプレイの位置を工夫したり、骨盤矯正出来る座布団使ったりとか、何か色々とやっている。
「まぁ、気をつけてみます」
「マジで気をつけろよ」
先輩の忠告というのは、ありがたさ半分、面倒くささ半分だ。しかも酒の席ということもあってか、俺は適当に聞き流してビールの入ったジョッキを傾ける。黄金色の液体を何杯もガブガブ飲んでいる内に記憶の方もすっかり洗い流されてしまっていた。
俺の身体に異変が起きたのはそれから一カ月ほどしてのことだった。
◇
「ん? 咲山、どうした?」
向かいの席でグルグル首を回したり、しきりに肩を押さえているのが気になったのだろう。先輩が訊いてくる。
「いや……肩が何かおかしいんですよ」
「肩?」
「何か痛いって言うか、ダルいって言うか……」
うまく言葉に出来ないのだが肩の筋肉の中に芯のようなものが埋まっている気がする。
「肩コリか?」
「え? 肩こり??」
「ん? 違うのか?」
「いや……肩なんてこったことないんで」
肩こりって日本語は当たり前のように知っているけど、なったことがないから判らない。
まさか、これが……肩こり??
「俺は腰にくるんだけど、お前は肩にくるタイプか」
「別にまだ肩こりって決まったわけじゃ……」
いや、違うだろ。肩こりって、あれだろ?
日本人の何人に一人かがなってるとか、首が回らなくなるとか、頭痛がするようになるとか、何だかしんどくなったり辛くなったりするアレだろ?
俺がまさか、そんな恐ろしい病にかかるなんて……勘違いだと思いたい。
「とにかく肩こりじゃないですよ」
「そうか? まぁ、本人が違うって言うんならいいけどさ」
俺が慌てて否定すると先輩は興味なさげにキーボードを叩き始める。当の俺は心の中で「違うはずだ」と全力で否定して、そのまま仕事を再開した。
……うぅ、体、しんどい
しんどい。
痛いでも、苦しいでもなく、しんどい。
全身が倦怠感に支配されていた。肩こりじゃないと先輩の前で断言してから数日経つが、症状が軽減されることはなかった。それもそのはず。俺は何の対策も打たなかったからだ。これまで疲れが溜まって身体がだるくなるという経験はあったのだが、大抵は風呂に入って一日寝れば治っていた。だから今回も勝手に治ると思っていたら、全く以て回復する兆しがない。肩に埋まった芯がさらに大きくなったような感覚がする。
しかし俺はこれが肩こりだと認める訳にはいかなかった。そう、これは肩こりじゃない。もしも肩こりだと認めてしまった、俺はこの恐ろしい不治の病と闘う決意をしなければならない。それが恐ろしかった。
そもそもしんどいが別に我慢出来ない訳じゃない。痛みにのたうち回るとか、そういう訳じゃないんだ。首が回らなくなったり、頭痛が出ている訳でもない。もしも、恐らく、万が一、肩こりだったとしても、重症ではないはず……なのだ。
そう思って数日経つが、この重ダルさが消えることはない。巷ではマッサージしたり、ヨガに行ったり、サウナに行ったりすると良いなんて言われているようだが、そういったものに行く決心もつかなかった。
「肩……しんどい」
俺はゾンビのように町内を徘徊していた。土日月と世間では三連休。二日も連続で休んで三日目だというのに疲れが取れる様子はない。
こういうときは運動が良いと聞くので、散歩でもすれば気分転換出来るかと考えたからだ。だが当然のように足が疲れるだけで、肩のだるさが取れることはなかった。
「疲れた……」
家の近所をふらりと歩いただけなのに疲労感がヤバい。自宅のアパートまですぐそこだというのに、歩くのさえ面倒になっていた。そんな俺の目に入ってきたのは、寂れた喫茶店の看板だった。
「休憩しよう……」
就職を機にこの街に引っ越してきてから数カ月。視界には入ってくるので気づいてはいたが一度も入ったことのない喫茶店だ。というか、俺は普段、喫茶店になんて入らない。行ってもせいぜいアメリカ生まれの有名なチェーン店で、こんな如何にも「昔からご近所の方々に愛されています」ってな雰囲気の喫茶店なんて一人で入ろうと思ったことはない。まるで昭和の世界から取り残された店構えに気圧されながらも、俺は喫茶店のドアをくぐった。
ご近所の人なのか、奥の席に髭を生やした中年の親父が座っている。店の中は綺麗に掃除がされているのだが、どれもこれもが古びた風情だ。使い込まれた二つ折りのメニュー表の一番上にあるブレンドコーヒーを頼むと一息ついた。
「疲れた……」
まるで鉛のマフラーでも首に巻いているみたいだ。首を回しても、ちっとも動いている気がしない。やって来たコーヒーをちびちびと飲みながら俺は肩に手を当てると血流が悪くなっているのかヒヤリと冷たい感触がした。そんな時だった。
「兄ちゃん、大丈夫かい?」
「はい?」
「いや、さっきから今にも倒れそうな顔でため息ばっかりしてるからね」
老年の男性が声をかける。喫茶店のマスターだ。初見のお客さんにさらっと声をかけてくるなんてさすがは昭和の喫茶店。アメリカ生まれのチェーン店ではありえない出来事だ。そんな所に変に感心しながら、俺は苦笑いで「肩がだるいんです」と答える。けっして「肩こりなんです」とは答えない。
「へぇ、肩こりかい」
いや、肩こりではない。
けっして違う。
しかし俺のそんな固い決意を無視してマスターは喋り続けた。
「まだ学生さんなのに、肩こりかい?」
「あ、いえ……今年から社会人で……」
「ああ、そうか。仕事するって大変だろ。肩も凝るよな」
「ま、まぁ……」
思わず頷いてしまう。
いや、別に肩こりの部分に頷いたわけじゃない。仕事が大変な部分に頷いたんだ。
それにしても昭和の喫茶店……ヤバいな。マスターがぐいぐい来る。
そんな様子に気圧されながら、俺はコーヒー残して店を出ようかと思った矢先だった。
「なぁ、ぐっさん。ちょっと兄ちゃんの肩揉んでやってよ」
マスターがぐっさんを呼ぶ。
ぐっさん……奥の席に座っていた髭の親父だった。如何にも職人気質なオーラを放った、厳めしい顔の親父だ。明らかに不機嫌な様子で「何だよ、急に」とぼやいていた。
「まぁ、いいじゃねぇか。今日のコーヒー代はいらないからさ」
髭の親父は常連なのだろう。マスターは気安く親父の背中をバンバン叩く。嫌々ながらも、髭の親父もマスターに従うようだった。
え? 何? この髭の親父に肩もみさせようとしてるの? 俺の肩??
昭和のノリがキツイ。
とはいえ、この状態から「はい、すいません」でダッシュで出て行けるほど、俺の肝も太くはない。
「兄ちゃん、ツイてるな。ぐっさんのマッサージは一級品だぜ」
「ハハッ……そうなんですね」
もう、しょうがない。
このクソしんどいってのに、俺は今から見ず知らずの髭の親父に肩を揉まれるらしい。当の親父も「俺は散髪屋なんだがな……」と謎のぼやきを発していた。
そうして髭の親父の指先が俺の肩に触れた。
……………………みにょり
変な音が鳴った。
後から考えれば、こんな音が人体から聞こえてくるはずがない。何しろ「みにょり」だ。どうしたらこんな音が肩からするのか意味不明だ。
しかしこの時の俺は、もうそれどころではなかった。
「………………あ?」
快感に頭をガツンと殴られた。
親父の野太い指がシャツの上から俺の肩を押した瞬間、肩にこれまで感じたことのない感覚が走ったのだ。
え? あれ? 何だこれ?? ぬぉぉぉっ!??
親父の指が肩にズブリとめり込む……いやいや、世紀末救世主の操る一子相伝の暗殺拳じゃないんだから、指がめり込んだりするはずがない。しかし親父の指は確実に俺の肩の筋肉にある芯を捉えていた。冷えて固まった奥にある芯。それを確実に、捉え、潰し、解していく。
親父の親指がぐいっと肩にめり込む。
ぬほぉ!?
背骨に電撃が走った。
痛みはない。
ただ快感だけが脳天から股間まで駆け抜けていく。
「どうだい、兄ちゃん。ぐっさんのマッサージはスゲーだろ?」
「は、はいっ……!??」
親父の指が鉤爪のように曲がる。すると鉄板のように固まっていた俺の肩の筋肉が奥から掘り起こされていくような感覚がした。
ぐにょり
これもおかしな音だ。でも聞こえるんだから仕方がない。
親父が俺の肩のラインを撫でるとそれに合わせて滞っていた血液が流れ出す。首の周りがどんどん熱くなっていく。
肩甲骨の縁に親父の指がかかる。
めちゃりっ!!
めちゃり?? ヤバくないか? この音??
なのに全然痛くない。
これはもしや肩甲骨はがしというヤツか?
何かテレビで見た気がする。いや、本当にコレが肩甲骨はがしなのかどうかは知らないけど……
身体の外側ではなく内側から何かが盛り上がる。
何かって何だ!? そんなの分からない!
だけど体の内部からメチメチと癒着していた筋肉が剥がされていくような感触がして、何かが盛り上がる。
これはやっばり肩甲骨か?
俺は今、肩甲骨を剥がされているのか!?
多分そうだ。肩甲骨ってどんな骨なのか知らないし、漠然と背中のところにある骨ってことしか知らないが間違いない。
ぐにょにょっっ!!
親父の指が背中にめり込んだ。とんでもない力が加えられているだろうに、全く痛みはない。それどころかとんでもなく気持ちが良い。
背中が熱くなり、冷えていた筋肉に新鮮な血液が送り込まれていく。触られているのは肩なのに全身がポカポカと温かくなっていく。
……ぁぁ、きもちいぃ
意識が遠くなる。
まるで温めの温泉に浮かんでいるような浮遊感を感じた。もうこのまま意識を手放して寝てしまいたい。だと言うのに親父は「もう、こんなもんでいいだろう」なんて非情なひと言を放ち肩から手を放す。
首回りがカッカと熱くなる。だというのに、俺の心は親父の指が離れて行ったことに一抹の寂しさを感じていた。
ああ……至福のひと時が終わってしまった。
そんなとき
ペチ
音が鳴る。
それも一度ではなく連続して、何度もだ。
ペチペチッ
それは親父が俺の肩を叩く音だった。何か特殊な握り方をしているのか、親父が腕を振る度に俺の肩から音がなる。
ペチペチペチペチッ――
俺の肩の上で弾けるように親父の緩く握られた拳が躍る。振動が小刻みに背骨を揺すり、頭の中で振動が何度も反響する。
筋繊維が波打った。
ほんの僅か俺の肩の上に遺っていた強張りが溶けて無くなっていく。
親父が最後に「あいよ」と言って施術を終えた時、俺は完全に放心状態になっていた。
「どうだ、兄ちゃん。肩こりなんて吹っ飛んだだろ?」
「…………あ、はい」
マスターから声をかけられて正気に戻ったとき、髭の親父はすでに店の中から消えていた。
何という満足感だ。あれほど両肩の上から俺を抑えつけていた疲労感が綺麗さっぱり無くなっていた。後から聞いた話だと、親父が俺の肩を触っていたのは一分にも満たない時間だったらしい。
あの親父は何者だったんだろう?
散髪屋と名乗っていたが、そこに行けばまた肩を揉んでもらえるのだろうか?
謎が謎を呼ぶばかりだ。
とりあえず分かったことは俺の肩は凝っていて、放っておくととんでもない疲労感で動けなくなってしまうということだ。
「…………ケアしないと」
そう心に決心する。
とりあえず定期的にマッサージを受ける……いや、まずは親父のいるであろう散髪屋に行ってみよう。全てはそこからだ。
三連休の最後の日。
俺は肩こりと戦っていく決意と、親父との再会を心に誓い、晴れやかな気分で喫茶店を後にするのだ。
<了>