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シーゲル卿のお屋敷に住み込んでから2週間が過ぎた。私は毎日時間を決めて、書斎のもののありかを帳面に記録し続けた。端から順に片付けようとしたが、壁のチェストの抽斗がどれも重くて、開けるのに苦労した。開けてみると、陶器の破片がいっぱい詰め込まれているものと、地図や図面がぎっしり詰められているものがあった。私の<何処に>帳は書いたり消したりできるように鉛筆書きで始めたが、同じような物がいっぱいあるので、いつ、どこ、誰のような見分けるポイントを追記していった挙句、結局、最初の方はページは破り捨てて書き直しをする羽目になった。
こうして、帳面に書いて整理しようとしても、お求めで取り出した図や破片はテーブルの上に放置され、いつ片付ければいいのかわからないままに積み重なってゆく。そのほかに郵便で雑誌や本が届く。(これを開封するのも私の仕事になった。)これまでは、
「こちらは、箱に納めてもよろしゅうございますか」
とお伺いを立てていたのだが、シーゲル卿は使うといったまま結局ご覧にならないことも多いし、いちいちご判断いただく時間が無駄であることが見えてきたので、これからは断らずに3日もすればどんどん仕舞うことにしよう。
そう心に決めて、書斎の扉を開いたところ、室内にいた男性が立ち上がった。突然のことで、私は驚きに身を固くした。卿は朝から外出なさっていて、召使なら着席していない。男性は戸口に近づいて、
「やあ、ブルクスアイド嬢」
と私に手を伸ばした。黒い詰襟、聖職者だ。
「もしかしてビートン師でいらっしゃいますの?」
「はい、ビートンですが、まだその敬称にはふさわしくありません、どうぞ、ただビートンさんとお呼びください」
ビートンさんは、眼鏡をかけた温和そうな方で、20代半ばくらいとお見受けした。握手をして
「初めまして、オリビア・ブルクスアイドですわ」
と名乗ると、
「リチャード・ビートンです。もうお身体はよろしいようですね」
と微笑みが帰ってきた。
「もしかして、私が参った日に‥」
「ええ、そう、ご気分が悪そうでしたので、傘をお貸ししました」
私が車に酔って道端で吐いてしまった時に家の中へ連れ込んでくれた男性はビートンさんだったのだ。私は恥ずかしくなって、両頬を掌で押えた。熱くなっているのがわかる。
「すみません、み、見苦しいところを‥」
「なに、ご病気でしたら仕方ありませんよ。さて、私は2日ほど滞在いたしますので、その間に簡単にラテン語の初歩を手ほどきさせていただきます。でもその前にこちらを」
ビートンさんはテーブルのほうを手で示した。新しい図面が何枚も広げられている。精密に描かれた皿や杯の絵だった。
「御前様のご命令で仕上げた図面です。丸めて持参しましたので、まっすぐになるまで、しばらく重石で押えて置いてください」
「これは、ビートンさんがお描きになったんですの?このお部屋一杯にある図面もみんな?」
「ああ、こちらは私が描きました。この書斎には、他にも私が描いたものがありますが、多くの図面はイタリアで描かれて、石版刷りされたものを御前様が購入なさいました」
「まあ、印刷もございますのね。存じませんでした。でも本当に細かいところまでそっくりに描かれていますこと。すばらしい絵の才能をお持ちでいらっしゃいますわ」
私はビートンさんの描いた皿の図を眺めた。
「こういうものは、絵の才能とはまた異なります。私に風景を書かせて御覧なさい、ひどいものになりますよ」
ビートンさんは笑って、
「どうぞ、扉は開けたままでおかけください」
と私を招きいれ、ラテン語講座を始めてくれた。
私は文学作品を読むわけではないのだから、辞書を引けるようになれば及第です、とビートンさんは最初に断りをいれると、文字の使い方や文法の特徴を面白おかしく話してくださった。私は学校でフランス語を齧っていたので、フランス語との違いという点から説明していただけると、とてもわかりやすかった。ビートンさんは教科書というものを準備しておられず、その辺の用箋に手書きしながら、すらすらと説明されるのだ。私は女学生に戻ったような気分で、一生懸命ノートを取った。
導入の説明が終わって、では格変化を、というあたりで、ぐうという奇妙な音がした。
「ああ、失礼、私の腹の虫です」
ビートンさんは咳払いをなさった。
「空腹でいらっしゃるのなら、誰かにお茶でもお願いしましょうか」
「いや、じきに昼食だろうし、手間をかけさせては申し訳ないので」
「それでしたら」
私は立ち上がって、手提げ袋の中を探った。
「生姜パンですが、お嫌いでなければ、どうぞ召し上がって」
実家の料理人が持たせてくれた焼き菓子が入れてあったので、包みを開いてビートンさんに差し出した。ビートンさんは、一瞬驚かれたようだが、すぐに
「これは、懐かしい。いただきましょう」
と一枚とって口に運ばれた。召し上がるところをじっと見ているのも失礼だと思い、私が無意味にハンカチを出して畳んだりしていると、
「そういえば、私も、生姜パンを持ち歩いていた時があったなあ」
と、思いがけないお話になった。
「子供の頃、冒険小説を読んで、ほら、よくあるでしょう、船が難破してわずかなビスケットしかない、というのに憧れまして。生姜パンをもらうと食べずに蓄えるんです。それを背嚢に詰めて、遊びに行くとき持ち歩いてね」
ビートンさんはもう一枚取り上げて、二つに割ると、その一つを私に差し出された。
「『これが最後の食料だ。一時に食うんじゃないぞ』そう言って食べると、余計にうまく感じました。実際は腕力も体力もなくて、船乗りにはなれませんでしたが」
「私は、お洗濯物とおやつを持って川へ行ったものですわ。あの、ナウシカアごっこで」
子供の頃の自分と似た様な事をしていたというお話がうれしくなって、私は受け取った生姜パンを持ったまま、勢い込んで話した。
「裸の男が現れなくてよかった」
「まあ」
私は咳払いした。ビートンさんは手をはたいてパンくずを払い、
「どうもありがとうございました。あなたは飢えた航海者に食べ物を与えてくださった」
と、胸に手をあててお辞儀をされた。私も腰を浮かして答礼し、二人は微笑を交わした。