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その夜は簡単な夕食を部屋に運んでいただき、シーゲル卿が夜遅くにお帰りになったときに、ご挨拶に出向いた。卿は父親のように私の肩をたたいて、
「古代史が好きだそうだね。ブルクスアイド氏から聞いている。君が活躍してくれるのを期待しているよ」
と温かい言葉をかけてくださった。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「遅くなったが、君に頼む仕事の説明だけしておこう。明日はその暇が無いのでね」
「かしこまりました、御前」
私が答えると、卿は執事に灯りを持たせて、私を書斎へ伴われた。そこは、私が「貴族の書斎」という言葉から想像していた、高価な書物が収められている部屋とはまるで違っていた。壁には引き出しのあるチェストが、本棚よりも多いくらい、いくつも並べられていて、開いたまま中の紙があふれかけている。それでも物が収めきれないのか、床には蓋のある木箱が散乱している。おまけにあちこちに置かれた画架に絵や図が掛けられて混乱を深めていた。
執事はテーブルの上の紙類を横へ動かして灯を置いた。文鎮代わりに置かれているのは、大皿の破片らしい。卿はその席を示して、
「これから君の持ち場はここだ。私が研究をするのに必要な資料は基本的にこの部屋にあるはずだから、私が指示するものを探して書き物机に持ってきてほしい。私が不在の間は原稿の清書だ。とりあえず明日はこれを」
と書き物机の上から用箋の束をとって私に手渡された。
「こちらの用紙に清書してほしい。なにか必要なものがあればスナイスに言いなさい」
と執事を示される。執事は私に軽くうなずいた。
「かしこまりました」
と答えたものの、この混沌のなかから指示された資料を探し出すというのは、大変な難事業に違いない。卿は、書き物机の上の書類を繰りながら
「こちらの机の上は、触れないようにな。私が使いやすいようにしてあるのだ。それ以外は」
取り上げた書類でぐるりと周囲をお指しになった。
「君が片付けるのだ」
「かしこまりました」
私は、渡された用箋を握り締めて、震えないように答えた。
「どうも、女中などに任せると、何もかも混ぜて箱に詰めてしまうので困る。ああそれから、午後には適当に休み時間を取りなさい。奥が相手をしてくれるだろう」
「それは、もったいない事でございます」
私は改めてお辞儀をした。シーゲル卿からはそれ以上のお話はなく、私は部屋に戻って、不安ながら眠ろうと努めた。
翌朝、朝餉の間でシーゲル卿にお目にかかったけれど、ちょうど食事を終えられたところで、
「大学へ行く」
と簡単におっしゃられて、すぐに出て行かれた。給仕の召使に
「奥方様は?」
とお尋ねすると、いつもお部屋で召し上がりますとのこと。そこにあった料理はあまり多くなかったが、私が一人で食べるには充分だった。料理を取って椅子に座ると、別に温かいおかゆが運ばれてきた。窓の外にはお庭の植え込みが見えて、朝日が差し、気持ちのよいお部屋だ。私は思いのほか、しっかりと朝食をいただいてしまった。これで、いよいよお仕事を始める準備が整った、と言いたい。
しかし、シーゲル卿の筆跡は乱れがりで、私の知らないラテン語の語彙や、学術上の省略語が含まれていて、原稿の清書と言っても、まず読み解くのが一苦労だった。朝からペンを手にしていたものの、書いては消しの繰り返しで、いくらも進まない。ひと段落終えたと思ったら、<この段抹消>と注記があったことに気づいて、ペンを投げたくなってしまった。
お昼は奥方様にご相伴することとなり、着替えて食堂にお伺いした。奥方様の下手に席が用意されており、私の両親についていろいろとお尋ねいただいた。お答えしていると食事が進まないので、
「まあ、ブルクスアイド、マヨネーズソースは苦手かしら」
と奥方様は心配そうにお尋ねになった。
「いいえ、奥方様。おいしくいただいております」
私はあわててお皿を空にした。
「そう、若いのだからしっかり食べなくてはいけませんよ。うちの下の息子の嫁などは、好き嫌いが多くて、年中青い顔をしているの。本当に困ったものですよ」
「私もコリアンダーが苦手で」
奥方様は却下の手つきをなさった。
「それは普段食べる物ではないでしょう。他に好き嫌いはなくて?それは結構。あなたは健康的ね」
奥方様はむしろ残念そうに言われた。昼食後もお話するようと言われて、御前の原稿が気になったものの、そのまま邸内を簡単にご案内いただいてしまった。ご家族の肖像画を拝見して、お茶をいただくうちにもうシーゲル卿がお帰りになる時間だ。仕事が進んでいないのがうしろめたかったが、奥方様と一緒に御前をお迎え時には、特にお言葉はなくて、私は救われた気分だった。
しかし、恐れていた通り、夕食の席で、
「ブルクスアイド、初日はどうだった?」
とお尋ねがあり、私は申し訳なくてうつむいてしまった。
「恐れながら、あまり進みませんでした。あの、ラテン語のつづりが多くて、正しく書けているのか判断できませんの」
シーゲル卿は顎を撫ぜた。
「君には少しラテンをやってもらったほうがいいな。ビートンに伝えよう。とりあえずは、わからない言葉や質問があれば、紙に書いて私によこしなさい。君が考えていても埒があかないだろう」
「またビートンをお呼びになりますの。帰ったところじゃございませんか」
と奥方様がおっしゃった。私に向かっては
「ビートンはうちの領地の副牧師なの。御前が研究の手伝いばかりさせるものですから、教会の仕事がおろそかになって」
と説明なさろうとした。シーゲル卿は奥方様の言葉を遮るように
「構わん。牧師が何とかする」
と声を上げられた。私の至らないせいで、論争になったようで、ひどくいたたまれない気持ちになった。
夕食後、執事のスナイスに、大きな帳面と鉛筆をいくらか出してもらった。自分の部屋で、赤いインクを使って、一冊の帳面の表紙に<お尋ねいたしたき事>、もう一冊は<何処に何があるや>と丁寧に書いた。明日からは、もう少し計画的に作業を進めようと思う。
ああ、そうだ、今命じられている原稿の清書はいつまでに終えなくてはいけないのかわからない。<お尋ね>帳の最初にまずそのことを書き、明日の朝シーゲル卿にお渡ししようと、決意した。