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私たちの唇が重なっていたのは、ごく短い間にすぎなかった。私が慎みを取り戻して、なんとか顔を背けたのだ。
「申し訳ありません。私、いけないことをいたしました」
私の声は震えていた。魔法にかけられたように、唇が震えて…
「いけないこと?」
ビートンさんの声には、おもしろがるような響きがあった。私は彼に握られていた両手を引き抜くと、後ろを向いて、熱い両頬を掌で覆った。恥ずかしくて、彼の顔を見ることなどできない。こともあろうに、聖職者を誘惑するような態度をとってしまった。
「このくらいのキスには何の罪もありますまい。もっと罪深い振る舞いはいくらでもございます」
ビートンさんは罪科の計量には慣れ切っているかのように仰る。私は驚いて、肩越しに彼の表情を盗み見た。激しい情熱や、押さえかねて溢れる感情といったものはそこからうかがうことはできず、いつもの眼鏡のビートンさんのままだった。では、本当に、彼にとってはなんでもないことなのだ、私との、キス、は。
「それでも、ご心配なら」
と言いながら、ビートンさんは大股に戸口へ向かうと、先ほど私が閉ざした扉を、元のように少し開かれた。
「こうしておけば、つまらない邪推もないでしょう」
ビートンさんが戻ってこられるのを見ている間も、私の唇は震え続けていたけれど、その原因には先ほどまでとは違って、いくばくかの落胆が混じっていたはずだ。ビートンさんが片手を差し伸べられ、私が機械的にとると、私をいざなって手近な椅子に掛けさせてくださった。ハンカチが欲しかったけれど、手提げ袋はテーブルの向こう端に置いたままで、私は指で目の縁を押さえることで我慢した。そんな私に、ビートンさんは、
「もっと罪深いことをお教えしましょうか」
と声をかけられた。
私は仰天して顔を上げた。ビートンさんは何をおっしゃっているのだろう。急に心臓の鼓動が早まった気がした。何か言おうと口を開いたが、言葉が出ない。ビートンさんは私の傍らに立って、そばにあった画架に指を走らせながら、掛けられた図でもなく、私でもなく、床の方をご覧になっていた。
「私は、聖職について、神の教えを説きながら、この職業に幸福を感じられません。これほど罪深いことはないでしょう」
ビートンさんは寂し気な微笑を浮かべられた。
「まあ、ビ、ビートンさん」
私はなんとか声が出せるようになって、咳払いをして続けた。
「そんなふうにご自分を卑しめられることは、ありませんわ」
子供の頃の私は、聖職者は皆、神の呼び声をきいてその職に就いたのだと、無邪気に信じていたものだ。今ではもちろん、そこまでの使命感を抱かずに聖職に進む人がいると心得ている。ビートンさんもおそらくはそうなのだろう。彼は次男だから、と奥方様から伺ったことがあった。
「叶うことなら、考古学で身を立てたいと望んでおりましたが、我が家にはそのような余裕がなく、いわば次善の策として私は神学を修めました。現在の地位を与えてくださった御前様にはもちろん感謝しています。しかし、私はやはり、古代を語るときが最も幸福なのです。田舎の牧師館に閉じこもってはいるのではなく、他の学者と議論を交わし、質の高い資料に触れたい、そういう望みが捨てられない」
男性から、そのような内面のお話をしていただいたことは初めてで、私は彼に認められたように感じ、少なからず誇らしかった。背筋を伸ばして、真心を込めてお応えした。
「ビートンさんは素晴らしい学識をお持ちですもの。きっと、何か機会を得られることでしょう」
「そう言っていただけると光栄です」
ビートンさんも画架から離れて、まっすぐに私に向きなおられると、改めて
「ブルクスアイド嬢、もし、ですが」
と話はじめられたところにノックの音がして、女中が石炭を運んできた。ビートンさんは落ち着いて、
「ああ、いいところに来てくれた。皿を割ってしまってね、片付けてくれ」
とお命じになる。そして、
「ブルクスアイド嬢、この破片は処分させますよ」
と告げられた。破片をマーティン叔父様の所へ送り返すと、いずれ贋作であることが知られるかもしれない。ここで無くしてしまうのがいいのだろう。私はうなずいて処分を承諾した。ビートンさんはそれを機に、私に挨拶して書斎を立ち去られた。彼が何を言おうとされていたのかは、わからず仕舞いだ。
ちょうどその夜は、御前様と奥方様は揃ってお出かけになったため、ビートンさんと私の夕食は、簡易的に階下の食堂で、執事と家政婦とともにすることになった。気取らない席で、私も受け答えはしたものの、どうにも会話に集中することができなかった。ビートンさんが話されるたび、私は彼の唇に視線を走らせずにいられなかったのだ。
ビートンさんは、真面目な方だ。恋愛の戯れをなさるとは思えない。やはり、私とのキスは、ただの友愛の表れで、言ってみればああしてカップに口をつけるのとたいして変わらないことなのだろう、と私はひそかに考えた。その一方で、彼が考古学について語られたときの口ぶりには、紛れもない切望の調子があった。私のことをあんな風に望んでいただけたのだったら。執事のスナイスさんが私にソースの器をまわしてくれる。私はお礼を言って受け取り、料理にかけて家政婦に器を回す。つい、大きく息を吐いてしまったことに気付いて、私はうろたえた。食卓でため息なんて、礼儀に反する。あわててフォークを取り上げ、私はできるだけ喜んで食べていると見えるように努めた。
夕食を終えて、自室に引き取れば、思う存分ため息をつくことができた。ベアトリスに、お皿を壊してしまったお詫びと、弁償の申し出のための手紙を書きながら私は繰り返しため息をついたが、まったく胸の裡は晴れなかった。最後に彼が言いかけられた<もし>が気にかかる。<もし、彼が学者として世に出ることができたら、その時には彼との縁組を考慮してもらえないか>自分本位なお言葉を想像してしまった自分がひどく浅ましく思えた。書きかけの手紙を台無しにしないよう、私は机から離れて立ち上がったが、すがれるものはなに一つない。部屋の中に立って、両手で反対の肘を掴んで、ちょうどお腹が痛いときのように、私は自分を抑え込もうとしたが、彼に女性として求められたいという気持ちを消し去ることはどうしてもできなかった。




