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その日の会が終わると、ビートンさんはギャラリーから直接、領地の方へお帰りになって、私はシーゲル卿と自動車でお屋敷へ戻った。シーゲル卿は締め切りの迫ったお仕事を二つ三つ、一時に思い出されたらしく、帰りの車内ではそちらの清書の進め方について、あれこれとご指示があった。
ついさっきまで、とてもやりがいがあると思っていたシーゲル卿のお手伝いの仕事だけれど、この時、急に少しばかり色あせて見えた。久しぶりに父に会ったので、わが家が、そして何の責任もなく過ごしていられたもとの暮らしが恋しくなったというのもあるけれど、どちらかといえば私は、自分自身にうんざりしていたのだ。
この日出会った令嬢方は、皆さんとても立派な方ばかりだった。ベアトリスは可憐で、ローズは堂々としていて、それぞれ違ってはいるけれど、華やいで魅力的だった。受付でご一緒したE嬢だって、ずっと世慣れておられた。それなのに私は相変わらず会話が苦手で、父に服装を注意されてしまったし、ラングドン卿には相手にしてもいただけなかった。私がもっと教養豊かで、もっと機知に富んで、そして、せめて少しだけでも美しかったら、そうしたら、いえ、そうであったら良かっただろうに。
私は頭の中に流れていたぼんやりした考えに急いで終止符を打って、シーゲル卿のお話に注意を戻した。私がどうであろうと、仕事をいい加減にして、締め切りに間に合わないようなことになってはならない。
「…のことを書いた論文がどこかにあるはずだから、3年分の雑誌を確認してほしい」
「かしこまりました」
内心を表情に出さないように、気をつけてお答えする。シーゲル卿は軽くうなずかれただけで、すぐに私への関心を無くされたように、運転手に向き直られ、明日以降の予定のことをお命じになった。私は車の窓から、煤煙にくすんだ首都の通りを眺めて、ますます寂しさが募るのを覚えた。
それからの数日間は、私が初めて経験する忙しさだった。昼間だけではなく、夕食後にも書斎に詰めることになったくらいだ。夜の灯りの下で、原稿を清書するのは骨が折れる。私もできるだけ字を書く仕事は明るいうちに済ませようと心掛けたのだけれど、シーゲル卿の筆記が捗らなかったり、資料を探すようご命令があったりして、結局夜までかかってしまったのだ。その甲斐あって、締め切りまでにお仕事を片付けることはできたらしい。
奥方様は気にかけてくださっていたようで、仕事が一区切りついた週末の夕食でご一緒した折にに、私の前でシーゲル卿に声をおかけになった。
「今度の水曜日、ブルクスアイドを連れて出かけてもよろしいわね。展示会の前から、働きづめなんですから」
「ああ、無論、構わんよ」
シーゲル卿は鷹揚におっしゃった。奥方様は私に向かって、
「映画のマチネに誘われているのよ」
とご説明くださった。私は頭を下げて応えながら、何を着るべきか、頭を悩ませた。残念ながら、新しい帽子はまだ出来上がっていないし、父の言うようなヒールの高い靴は、足首が痛くなるので私はどうも苦手なのだ。
後で自室に戻り、持ち込んだ衣棚を検分して、フレアの外出着の裾を、せめて父に言われとおり、一インチばかりあげようと決意した。ところが、まっすぐに一インチ折ったはずが、縫い目は妙にでこぼこして見苦しく、いかにもここを縫いましたと言わんばかりに目立つのだ。もともと私は裁縫が得意でもないので、縫ったり解いたり、針で指を刺したり、いっこうにはかどらなかった。
火曜の夜になって、私は外出着を持ち上げて、まだ4分の一くらいの縫い残しがあることを確認して、すっかりやる気を失ってしまった。もちろんこのまま明日着ていくわけにはいかない。だからといってもう一晩、目を酷使して夜なべしたからといって、きれいな出来になるとは思えない。それくらいなら、縫いあげたところをあきらめて、全部下ろし直したほうがましだ。先の細い鋏をとりあげて、私はもう一度ため息をついてから、数日間の努力を無にする作業に着手した。
そんなことがあったせいか、その翌日の奥方様との外出では、私は最初からくたびれて、幾分熱意に欠けていたと思う。それに映画というのは、ご一緒した方々と親交を深めるのには向いていないのではないだろうか。その日、ご一緒することになった男性は、劇場で私の隣に腰を下ろされると、親切に話しかけようとしてくださった。しかし場所柄、どうしても、小声で私の耳元に顔を寄せる具合になってしまう。お声が聞き取りづらくて、
「今、何とおっしゃいましたの」
と、お尋ねするはずみに、2度ばかり帽子の縁で相手のお顔を小突いてしまった。2度目にはどうやら目に入ったらしく、痛そうにされて、それっきり上演の間は話しかけてはこられなかった。私は誓って、わざとやったことではないけれど、正直いい気味だと思ってしまった。薄暗い席で、よく知らない男性に顔を寄せられるのはいい気持ちのものではない。
その後のお茶の席で、私は念のために、
「先ほどは失礼いたしました」
と真っ先に謝罪をしたのだが、彼は唇を結んで、お茶の香りを確かめるように召し上がっただけだった。その様子は、私をとがめないための気遣いというよりも、内心の不機嫌を表しているとしか思えず、いたたまれない気持ちになった。
周囲の人々の話声、令嬢方の上品な笑い、茶器の触れ合う音などに囲まれたなかで、ぽつりぽつりと礼儀正しく会話を交わしながらいただいたお茶は、ほとんど味がわからなかった。会話が途切れたすきに、私はこの方と結婚した場合についてぼんやりと想像した。私はきっとなにかのへまを仕出かすだろう。そうしたら、夫はこんなふうに、目を合わすこともなくお茶を飲むことで、いら立ちを示すのに違いない。ご主人様は何がお気に召さないのかしら、と知恵を絞らないといけない毎日は、大層窮屈そうだ。
その時急に、「この方は私に向いてないのだ」と思い至って、私は気が楽になった。自分と合わない男性には、むしろ断られたほうがいい。シナモンの香りのフィンガービスケットをカリッと噛んで、私は心に決めた。結婚するなら、私の話も聞いてくださる男性がいい。




