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勝手にホールの椅子を動かしたところを見咎められた、と私は慌てて振り返り、
「あら、失礼いたしました。ちょっと腰掛けさせていただきたくて」
と弁解したが、声をかけてきた相手は、怪訝そうな表情を浮かべたカスター・ロウフォードだった。乾杯用のものらしいグラスを手にしている。カスターは、
「持って」
と、グラスを私に手渡し、すぐに椅子を引っ張って向きを変えてくれた。
「どうぞ、お掛けなさい」
「ありがとうございます」
私はグラスをお返ししようとしたのだけれど、カスターはきびすを返して行ってしまった。どうしよう。腰掛けるわけにもいかず、うろたえているとすぐにカスターは新しいグラスを手に戻ってきた。うながされるままにグラスを交換し、カスターが
「乾杯」
と言って、薄暗いホールの片隅で二人で杯を掲げる、おかしな具合になってしまった。改めてカスターが座るように勧めてくれたので、私はありがたく腰を下ろした。カスターはお行儀悪くテーブルにお尻を預けた。でも彼の場合、それすらスマートに見えてしまう。私はうつむきがちに少しだけワインをいただいた。
「あなたは中へはお入りにならないんですか?」
カスターが尋ねた。
「受付の仕事が、まだございますの」
「もうお見えになる方もないでしょう」
受付をしてくれと言われた時には、いつまで、とはっきり指定がなかったし、ご一緒するはずのE嬢も戻って来られない。会場の様子は見たいけれど、先ほど、私からE嬢に『私が受付におります』と言ってしまった。彼女にしてみたら、それで私に後を任せたというお積もりかもしれない。
私が迷っているとカスターは、なんでもないことのように、
「もし遅れてこられた方があったら、ギャラリーの職員が案内しますよ」
と言った。私は意を決した。
「では、その、その前に、ロウフォードさん、お話させていただきたいことがございますの」
「おや?何でしょうね」
「あの、弟のローレンスのことです。先日あなたとお目にかかった後で、彼に聞いたのですが、弟はあなたに大変感謝しておりますの。私が溺れそうになった時、あなたに、正直に言うように励ましていただいたと。
そのこと、私からも、お礼を申し上げますわ。あの子が変にひねくれる事がなかったのは、あなたのお陰です。その節は本当に、ありがとうございました」
「ローレンスはそんな風に言いましたか。そうか、彼は、いい子に育ちましたね」
「ええ、もちろん普通にふざけたりもしますのよ。ただ、あのときのことを、うちでは話題にできませんでした。私たち、それが弟のためだと思って、避けておりましたの。でも先日ローレンスが話してくれたとき、あの子が内心でずっと気に病んでいたことを、誰にも打ち明けられないでいたのかもしれないと、私、初めて思い至ったんです。
可哀想に、とってもいい子なんです」
私が勢い込んで話す間、カスターは細いグラスを廻すようにもてあそんでいたが、テーブルにことり、と置いて膝の上に指を組むと、その手を見つつ、静かに言い出した。
「ねえ、オリーブ。君にはどんなふうに伝えられたか知らないけど、あの時僕らみんな、君が助からないかもしれないって、震え上がったんだ。
ローレンスに足を引っ張られた時に、頭を岩に強くぶつけたんだろう。僕は、医者が、水を飲んでいるはずがないのに意識が戻らないと青い顔で告げた時を覚えている。手の施しようがない、できるだけ早くご両親を呼んでくださいと言われたって、これはペネロピが泣きながらヘレンに打ち明けるのを横から聞いた。
だからねえ、ローレンスが気に病むのは当然さ。それだけのことをしでかして、気に病まないわけがない」
私が意識を取り戻した時に、枕元に母がいたので、いろいろと混乱したのを覚えているが、周囲の人たちにそんなに心配をかけたとは知らなかった。そんな話を聞くと、今更ながら身体が震えた。グラスを手にしているのが怖くなって、私もそれを机の上においた。両手で、口元から鼻にかけてしっかりと押さえ、カスターを見上げた。カスターは、私の表情を見ると優しい口調になって、
「でも、ローレンスは運が良かった。君が許してくれるって、ちゃんと信じて、打ち明ける勇気を出せたのは、君が彼を愛していたからだよ。僕がしたことは、ローレンスにそのことを思い出させただけさ」
にっこりと話をまとめた。私はますます息が苦しくなって、両手を顔から離して膝の上で握り締めた。今度は私のほうが、自分の手を見つめながら、なんとかお礼の言葉を、と知恵を振り絞ることになった。
「いいえ、カスター、<だけ>だなんて、そんな、難しいときに、小さい子に寄り添って、道理を言い聞かせて‥誰にもできることではないと、あなただってまだ、子供だったのに、あの、感謝いたしますわ」
カスターの振る舞いを、できればもっと称えたいけれど、気持ちをうまく言葉にできない。いたたまれなくて、私はぴょこんと立ち上がった。それを見てカスターも、テーブルにもたれかかっていた姿勢をまっすぐにする。
「お引止めして申し訳ありませんでした。どうしてもお礼を申し上げたかったんですの。では、私も会場のほうへ、参りますわね」
私は話に区切りをつけて、机の上の名簿などを取りまとめ、胸に抱えた。カスターは二つのグラスを器用に片手で持ちあげたが、あたりを見回して、ギャラリーの職員を見つけると、合図してその人にグラスを渡し、私に代わって
「椅子を動かしたよ」
と断ってくれた。
私はカスターに促されて、展示会の会場に向かった。式は終わったらしく、最初の広間には、来賓の方々が三々五々集まって、歓談を続けておられた。見回してみたが、シーゲル卿は新聞社の方に囲まれておられるし、E嬢の姿も見当たらない。受付を離れたことをどなたかにお断りすることはできそうになかった。
続きの部屋が展示会場で、カスターは私に構わずそちらへ向かって行った。私は父が来賓らしき方と立ち話をしているのを見かけて、会話が終わるのを待つことにした。幸い、すぐに父は私に気づいて、適当なところで話を終えて私に向き直ってくれた。
「やあ、オリビアはもう展示を見たのかい?」
「まだ拝見しておりませんわ」
「じゃあ、一緒に行ってみるか」
私は久しぶりに父の腕をとって、とても気が楽になった。




