スイーツ男子に足向けて寝られない
同じ研究室の田沼は一学年下の後輩男子。彼の作るお菓子に学生どころか先生までもが舌鼓を打つ。クッキーのような定番から、オリジナルレシピのケーキまで作ってしまう。私も完全に彼のお菓子にお世話になっている。恩人と崇め奉るのも当然の成り行きだ。
彼はラッピングも得意だ。以前、研究室一同で先生にプレゼントを渡すことになった時、プロのクオリティーで仕上げてきたのも彼である。どれだけ器用なんだろう。
いつだったか、私が別の後輩である梢ちゃんと「チーズケーキが食べたいねぇ」と、見えない涎を垂らしながら、テーブルに突っ伏してだらけていた。それを近くで聞いた彼が次の日何も言わずにチーズケーキを作ってきてくれたのだ。
彼はさりげない優しさを見せられるいい男なのである。もう少し自信を持てば、もっといい。彼の心はその体型と同じくらいひょろひょろしているのだ。発表時にも「あー」だの、「えー」だのが妙に多い。おどおどしているから「しゃんとしろ!」と先生やほかの院生の先輩にお叱りを受けることもしばしば。発表内容はとっても調べが行き届いているのにもったいない。
しだれ桜もとっくに散って、朝に羽織る上着も薄いものに変わった。青々とした緑が目につくようになってきて、キャンパス内の繁みにはアゲハ蝶が舞い、下を見るとダンゴムシがせっせと前を横切ろうとしている。何気なく立ち止まって観察していたところ、お疲れ様です、と声をかけられた。例の田沼である。
「お疲れ様です。今もう帰り?」
「そうです。明日就活のイベントのために早く帰って東京に行くつもりなので」
「そっか。頑張れ」
「ところで神坂さんは何をされているんですか?」
私は今にも道を渡り終え、繁みに消えようとする小さな生き物を指さした。
「ダンゴムシを見てた。大学内で見かけなかったけれど、都会の片隅にも生息しているんだなぁ、って」
「へえ」
彼も何となく私の視線を追いかけてから頷き、そうだ、と思い出したように取り出したるは、小さな半透明の袋だ。光沢のあるピンクリボンで結ばれていて、可愛らしい。
「今日はお菓子の差し入れもしてきたんで。これ、神坂さんの分です」
「お、私の? ありがとう。中身は何?」
「春なので抹茶マドレーヌにしてみました」
抹茶も好きで、マドレーヌも好きな私は、にっこりした。
「そうなんだ。早めにいただくことにするよ」
どうぞ、と彼は弱気に微笑んだ。
「これ、皆にも配っていたんだよね。ラッピングも大変だったでしょ」
「いえ、そうでもありません。ラッピングしたものは少ないので」
「そっか。でもあんまり無理しないでね。田沼くんは就活中なんだし」
「俺にとっては全部息抜きですよ」
彼と別れた。研究室にいくと、抹茶マドレーヌが入ったタッパーがどーんと鎮座している。
そのタッパーの前ではなぜか梢ちゃんが落ち込んでいる。片手にはもちろん食べかけの抹茶マドレーヌ。
彼女は私を見て、唇を引き結び、「負けました」と敗北宣言をした。
「私がこの間たまたま作ったマドレーヌよりはるかに美味しいんですよ……。ずるいです」
彼女は田沼に対してライバル意識を持っているらしい。今日初めて知ったよ。同い年だから色々と思うところがあったのかもしれない。それか、女子力的な何かに訴えかけるものがあったのか。
それに比べ、遠慮なしに飛びついた私の女子力はこれ如何に。
「あ、神坂さんも食べられますか……?」
眉をへにゃりとさせた梢ちゃんがタッパーをこちらに押しやってこようとするけれど、私は「さっきそこでもらったから」と言う。
「そうでしたか……。あ、そうだった。忘れないうちにメモを張り付けておかないと」
彼女は慌ただしく立ち上がり、適当な付箋に『保存料は入っていません。できれば本日中に食べること! 基本一人二つまで! 田沼からの差し入れです!』とボールペンで書き、タッパーにぺたりと貼った。
マドレーヌはあと三分の一ぐらい残っている。
「まだ昼前の時間なのに大学までお菓子を置きに来てくれたんだね。私さ、本当に田沼くんに足を向けて寝られんわ」
「うーん、そうですね……?」
疑問符のついた返答に彼女の屈託が見えるが、そこはあえて触れない方向で行こうと思う。
「ところでさ、梢ちゃん。今度美術館に行かへん? ファッション関係の面白い展覧会があってさぁ。ドレスの展示もあるんだって!」
彼女が衝撃を受けた顔になる。
「それは! いかないと!」
梢ちゃんは立ち上がった。立ち上がって、周りの視線が集まったのを気にして、しゅんと座った。彼女の持ち味はこういった全力でから回っているところじゃないかと私は感じている。
その場で日程調整をして、授業と発表準備とを進めてその日は帰った。帰り際の午後五時ぐらいに田沼の抹茶マドレーヌの袋を開ける。
なんと、マドレーヌが計四つも入っていた。抹茶味二つ、プレーン二つ。
大盤振る舞いだな、田沼。
私の中で田沼の株はさらに上昇しつつ、お菓子はもちろん完食した。
※
ただいま、と帰ってきたところ、玄関でばったりと妹と出会った。今日は帰って来たらしいが、案の定私に何も言わずにどたどたと階段を登っていった。おい二十一歳!
そのままリビングに入ると、おじいちゃんがビール片手に半裸でテレビを見ていて、「もうちょっと紫は折れた方がええやんけ。だって、お姉ちゃんなんやからなぁ」なんて言ってくる。
なぜ私だけ折れなくてはならないのだろう。
――ごめん、じいちゃん。私、あの妹と分かり合える気がしないんだよ、それこそ一生ね。




