一度あったことは二度あって
「――と、まぁそんなことがあったわけだよね」
話のネタに提供するのはたわいなくて、ちょっと情けない話に限る。自分が少し恥ずかしく思うぐらいで誰も損しないのだから。自慢話を延々と聞かされるよりはよほどいい。
たまたま居合わせた後輩へ話の肴に先日の滑稽譚を聞かせた。
「いやー、あれはきっとイケメンだったね! そうに違いない」
はっはっは、と大げさに笑いながら研究室でお弁当を広げる。今日も今日とて、冷凍食品フィーバーである。まぁ、弁当作ってくれるだけありがたいけれど。ありがとう、母上。
「そんなことがあったんですねえ」
後輩が興味深そうな顔をして、自前のサンドイッチを一口齧る。下宿生の彼女はお弁当も自分で作るのだから大したものだ。
「もし逃げなかったらどうなっていたんでしょう?」
「さぁ。当時の私にそんな余裕はないよ。逃げる一択、決定ボタン連打だよ」
「もったいない気がしますね」
彼女はふわふわの卵焼きのような笑顔になる。
「私だったらどきどきしますけどお話してみたいです。話を聞く限り、絶対神坂さんのこと気になって話しかけたように感じますもん。何とも思ってなかったらあっちがすぐにその場を立ち去るだけでしょうし……神坂さん、もしかしたら本当に脈ありだったのかもしれません!」
はっとした様子になって、次には「どうしましょう!」と自分のことのように慌てだす後輩兼友人。かえってこっちが冷静になった。
「梢ちゃん、深呼吸。はい、吸ってー。吐いてー」
彼女は言われた通りに大きく息を吸って、吐いた。ついでに私まで釣られて深呼吸する。
「よし」
「はい」
交互に笑顔で頷きあったところで、彼女はカバンからカルパスを取り出して「どうぞ」とおすそ分けしてくれた。どうしてカルパスなのだろうと思わんこともないが、以前はドライトマトを手作りして研究室中に配りまくっていた前科があるので何も考えまい。それに私もカルパスは好きなので。
「カルパスを食べると自分の中の野生が目覚める気がするわぁ」
むしゃむしゃと肉の塊を食すライオンかハイエナの気分になる。
「わかりますー」
私たちの会話を聞いたもう一人の人物がここで書き物をしていた眼鏡顔を上げ、ぶんぶんと首を横に振っていた。何を言いたいのかな、君は。
私が彼と眼を合わせれば、相手は気まずそうに顔を伏せてぼそぼそと尋ねてくる。
「先輩って肉食系だったんですか……?」
「まあ、物理的には? ……あ、ごめんね。田沼くん勉強中だったのに。私たちの声がうるさかったよね」
「いや、それはいいんですよ、もう……」
田沼は青白い顔にうっすらと朱を上らせていた。彼は私よりよほど繊細な中身をしている。色々とこちらが気を遣わなくてはいけない。いつも彼の手作りお菓子に空腹を救ってもらっている身なので、先輩としてあまり強く出たくないのだ。
「お話は存分に続けていてください。多少雑音が入った方が集中しやすいので」
それなら遠慮なく。
私はまた彼女と向き合った。
「梢ちゃんは今年の演習授業で取り上げる作品は聞いた?」
「中古文学のやつですか? 噂によると『伊勢物語』だそうですよ」
「へえ。やっぱり去年と変えることになったのか」
去年までは『今昔物語』だったが、昨年度の終わりに中古文学の島津先生が「次の演習では久々に別の作品を取り上げようと思います」といつもの真面目顔でおっしゃっていたのを思い出す。
この間も『伊勢物語』をちらりと見たからなんだかとってもタイムリー。
「特に和歌調べに気合入れなくちゃいけないやつだね」
『伊勢物語』は歌物語に分類される。「物語」というからには基本フィクションだ。主人公は在原業平だが、業平以外から採られた和歌がかなり多い。その元となった歌とされているものを、色々な注釈書の指摘から引っ張り出し、発表の時に提示し、考察しなければならないのだ。
「そうですね。またそのうち参照しなくちゃいけない注釈書リストが渡されて……発表に追われる日々が始まるんですねえ……」
「あれ。梢ちゃんもう必要単位取っていたんじゃないっけ?」
「そこはまあ……進学組なので」
遠い眼をした彼女はもそもそとサンドイッチを咀嚼する。
「そうでなくても卒論の中間発表を控えていますから」
「そだね」
かくいう私もM1《マスター一年》の身。単位取得のためにたくさん授業を受けねばなるまい。コマ数が少なくとも、一個一個の授業内容が重いので油断は禁物である。発表準備にはべらぼうに長い時間がかかるのが日本文学専攻生の宿命だ。
のんびりできるのも今だけ。
大学のしだれ桜が散ってしまうころには課題に押しつぶされているんじゃなかろうか。何せ、今年からますます忙しくなるような予定を入れてしまったことだし……。
かじりかけのカルパスを口の中へ放り込んだ。
まあ、何とかしてみるか。
※
相変わらず「春日野の」と心の中で呟くのが好きだ。
若い紫草としのぶ摺りの衣か、雪間の中の若草か。
とくに恋の和歌は心浮き立つ。
好きだなんだと言われるよりも、ずきゅんと胸を打たれてしまう。
ありふれた「好き」は言うだけなら誰だって言えてしまう。
「ありがとう」と同じだ。本来は「有難い」から来ているのに、現代人は何でもかんでも「ありがとう」。何度も使われていくうちに、その言葉の価値は低くなってしまう気がする。
文字だけの「好き」はもっと伝わらない。伝えるにはやっぱりその人自身の言葉で聞かせてほしい。その人の持つ限りの言葉を尽くしてこその意味がある。
言葉に自分の心を乗せて歌い上げるからか、和歌の言葉の羅列を眺めるだけでも美しいと思ってしまう。
駅から自宅へ至る自転車での帰路はちょっとした思索の時間だ。足は勝手にペダルを漕ぐから、とりとめのないことを考える。頭の中を自分の好きなもので埋め尽くしてもいいし、誰にも邪魔されない。
ただいま、と自宅に帰れば、とんでもなくカラフルでポップなブーツがでんと玄関の土間に一足。三日ぶりにヤツが帰ってきたらしい。
二階からはけたたましい笑い声が響く。ヤツの部屋からだ。在宅中かそうでないかだけで家の雰囲気がまったく違う。
台所の方からは祖母がひょっこり顔を出した。お風呂上りのパジャマ姿である。
「おかえり。あんた、奈月が帰ってきとるよ」
「あー、わかっとる。靴見ただけでわかる」
――まったくあのビッチめ。どれだけ外泊するつもりだ。
妹は男をとっかえひっかえするビッチである。髪をアッシュグレーに染め、冬にはミニスカ、夏にはへそ出しルック、派手なピアス。二重瞼を作り、つけまつげをつけて、マスカラを塗りたくる原宿系だか新宿系だかのギャルである。住所は紛れもない田舎だが。
昔からやたらおしゃれに気をつかう娘だった。中学生ぐらいから何人もの男と付き合ったり別れたりを繰り返し、それにつれて化粧も濃くなっていった。元は私と似たようなおかめ顔なのだが、今のメガ盛り状態ではとうてい私と姉妹には見えまい。
ヤツも留年もせず、私立大学の大学四年生だが、就職活動をしているとはとうてい思えない恰好をしている。一体将来どうするつもりなのか。
聞いてみたところで親は親で煮え切らない返事だし、直接本人との会話も成立しないのでよくわからない。
笑い声が近づいてきて、階段のところで玄関にいた私とばったり目が合った。奈月は硬い顔になって階段をどたどたと降りてくる。私の前を通る時にはご丁寧に舌打ち付きだ。
……私はヤツと長いこと冷戦をしている。重苦しい鉄のカーテンが下りているのだ。
お返しにふん、と私も鼻で笑ってやると、ぎろりと奈月が睨んでくる。姉に向かって何さ。どんだけ外泊をしているんだ、このふしだら娘! と、言わないまでも視線に込めた。
ヤツはまだ近くにいた祖母にはこういった。
「ばあちゃん、今日も友達のうちに泊まっていくから。母さんには言ってあるから!」
「あんた、もうちょい家に寄り付きいな。紫ともさぁ……二人きりの姉妹なんやから」
ちらっと私は妹を見やった。奈月は私を真正面から見ながら、しらん! と言いおった。
「どいて!」
妹はスーツケース片手にどたどたと出ていく。家の前には黒いワゴンが止まっていて、そこから奈月の今の彼氏とおぼしき男性が出てきて、私に向かって頭を下げた。今回の彼氏も金髪のパーリーピーポーそうだ。よくお似合いで。
せめて避妊だけはきっちりしてくれよ、と思いつつ車を見送った。
どうして私の現実はこんなに生々しいのか。
妹を見ていると恋や愛だのには生臭さがあるみたいだ。きらきら、ふわふわしたものは微塵も存在しないのではないか。
少女マンガによくある青春なんてどこにもない。ひどく爛れて醜いものを綺麗に加工しただけじゃないか。だから高校生ものの恋愛マンガが大の苦手なのだ。
昔焦がれた「美しいもの」は人が作り出した創作物にはあっても、人そのものには宿らない。妹しかり、私しかり。どっちもどっちで性格が悪い。
この「美しいもの」だけを眺めて過ごすには、どうやったって世間に背を向け、桃源郷の仙人にでもなるしかない。もしくは図書館の住人になって、一日中古書に埋もれればいいのか。出家して功徳を積み上げて聖になればいいのか。輪廻解脱を目指せばいいのか。
将来の夢、仙人、図書館のヌシ、あるいは聖。
しがらみが多すぎて、私には無理な話だ。
※
すさんだ心に一つの清涼剤を。
そんな心で生協の書籍部へやってきた。予約していた本を買うためだ。学生・教職員は割引になるため頻繁に利用している。すっかり店員に顔と名前を一致されてしまった。
今日は好きなラノベの最終巻の発売日だからいそいそとやってきたわけだが、今日応対に出たのは初めて見る顔だった。
レジに誰もおらず、すみませんと声をかけた。飛んできたのは大学生のバイトくん。陸上をしていたような体つきで、鳥足みたいな足をしていた。ひそかに「鳥足くん」と名付けることにした。
「予約していた本を取りに来ました。神坂です」
彼は私をちらっと見る。わかりました、と頷く。
レジ後ろにある取り置きの本棚の「カ行」のついた場所から二冊の本を取り出した。一冊はラノベの最終巻、もう一冊が演習で使う『伊勢物語』の文庫本だ。
「神坂紫さん。こちらでよろしかったですか」
緑のエプロンをした彼に頷くと、彼はスムーズに会計をしてくれた。研修中のバッジがついているのに慣れたものである。卒がなさそうだな、鳥足くん。
「ありがとうございます」
私は本を袋に入れる彼の手元を見ていた。元々そんなに店員の顔をじろじろ見る性質でないのだが、この時はふと虫が騒いで相手の顔を見た。
浅黒い肌だなぁ、と思うよりも前に熱烈な視線を感じる。彼は緊張したような声で、
「その本は……授業で使うやつですか?」
「え? あ……『伊勢物語』はそうですけれど」
「もしかして……」
ためらったような間の後に彼は言う。
「『かすがのの』っていうのを知っている?」
かすがのの。……『春日野の』?
『『かすがのの』……何? 気になるんだけれど』
先日の羞恥の記憶が鮮烈によみがえってきた。まさか入学式の日のあれか!? 顔バレしたくなくてトンズラしたのに、ダメじゃん!
はっとなって首元を見れば、あの時もみたような銀色のネックレス。声だってこんなテノールだったのかもしれない。
しかし、顔が。予想以上に整っている。表参道で黒いハットを被って闊歩していそうな人。こういうモデルか俳優がいてもおかしくない。……鳥足のくせに!
動揺して顔が赤くなっているような気がするが、気にしちゃいけない。闘うのだ、紫。さあ冷静になって、千の仮面を被るのよ、紫。
「『かすがのの』と言われてもよく覚えていません!」
この早口に彼は秀麗な目を見開いた。
よく覚えていません。……「覚えていますよ」と言っているようなものだった。ぬかった。まあいい、遁世だ。
彼の手から本の入った袋をすばやく受け取って、書籍部を出た。道路に出たところで自ずと「やばいやばいやばい」と言葉が漏れ、出入口で振り返る。
――どうしよう。次回からものすごく行きにくくなってしまったんだけども。




