かつて見た図書館の君は
鳥足くんと図書館内のカフェに移動した。適当にドリンクを頼み、窓際のカウンターテーブルに並んで座る。
私は抹茶フラペチーノ、鳥足くんはアイスコーヒーだ。近くでは留学生たちの集団が熱心に何かを論じており、話し声が心地よいBGMに聞こえてくる。
ふと息をつきながら考える。
……私は鳥足くんに何を求めているんだろう。
話すのは鳥足くんじゃなくてもよいはずだ。なんなら田村くんでもよかった。しかし実際には田村くんに話すわけでもなく、鳥足くんに話そうと思った。さて、これからの話をしたとして、鳥足くんになんと言ってほしいのか。
「鳥足くんに言ってほしい言葉」を想像すると、辟易する。
ずずっとストローでフラペチーノを啜って、鳥足くんを観察しても答えが目の前に書いてあるわけでもなく。
「あの、そんなに見つめられると……」
「あ、ごめんね」
乙女な鳥足くんがアイスコーヒーに口をつける。
「ん、とね。なんと切り出したらいいか、わからないんだけど……」
言おうか。誤魔化してしまおうか。二つがせめぎ合った。けれど、喉の奥から絞り出すように言葉を出した。
「公務員に、なりたくないと思ったんだよね。漠然とだけど」
変でしょ。もう講座もはじまって、安くない金額を払っているというのに。
早口で言う。鳥足くんの顔は見なかった。
「正確には公務員そのものではなくてね。行政のお仕事は大事なものだし、なりたい人もいっぱいいるのはわかってる。ただね、自分のこれからを考えて、仮に自分が公務員として働いているのを想像したら……なんか少し違うのかもと思い始めて」
以前の夢で見た「公務員の自分」はとても苦しんでいた。
公務員は安心安定、よほどのことがない限り、定年までの雇用を保障してくれる。不景気の中では人気の職業だし、うちの大学の卒業生でも公務員になった人は山のようにいる。
「何となく公務員になるのでもいいと今までは考えていたんだよね。でも、何となく、という理由では私自身は納得できないみたいで」
このまま進んだらきっと後悔する。公務員になったもしもの私は……自分が嫌いだった。
違う違う、私がなりたかったものはこれじゃないんだ――そう、「言い訳」する自分が嫌だった。
「私は……私の知る美しいものを眺めて暮らしたいから。それは私にとって、文学、歴史、美術だったりするから、やっぱり違うんだなぁって。だから私は、学芸員に、なるんだと思う」
しばらくの沈黙。
そうですか、と鳥足くんの相槌がやたら鮮やかに聞こえた。
「すごいなぁ」
そう、鳥足くんが言った。恐る恐る鳥足くんの表情を見たが……なんと形容したらいいのだろう。少し目を細めて、どこか遠くを見つめ、じわじわと湧き出てくる、自分でもわかっていない感情を噛み締めているような。
「やりたいことがあるんですよね。俺は紫さんをまだよく知らないですけど、それでも似合っているんじゃないかって思います」
「学芸員になるのが大変なのはわかっているんだけれどね」
鳥足くんの反応が好意的だったからほっとして口が滑らかになる。
「就職口が少なくて、正規雇用は難しいし、試験の倍率も高いんだよ。事務職の公務員になる方がきっと簡単なんだけれどね」
「いいじゃないですか。難関ほど燃えませんか?」
「あはは、私はこれでも安定志向だから」
「そうだとしても。……欲しいものがあるから、頑張るんですよね」
「そうだねぇ」
鳥足くんは何かを考えているようだった。
「……本当にすごいですね。尊敬します」
「え、どうしたの、急に」
尊敬という言葉がいきなり出てきたことに面食らう。日常会話でそうそう出てこないワードだ。
「いや。俺、実は紫さんに少しだけ救われたことがあったんですよ」
鳥足くんはこんなことを話してくれた。
「俺の家、父親がいなくて。母が育ててくれたんですけど、経済的に苦しくて奨学金やバイトをしながらどうにか大学に通っているんです。バイト、たくさんしなくてはいけなかったんですけど、周囲が遊んでいたりすると落ち込む時があるじゃないですか。
でも、紫さんにおすすめされた本を読んだり、文学や歴史の話をしていると、気持ちがだいぶ紛れるんです。
俺、今まで文系の学問のことよくわかっていなかったんですけど、心底いいものだなと思うんです。たしかにすぐ役立つ学問ではないかもしれないですが、いつも隣にいて心を支えてくれる。だから、学芸員という仕事につくのが難しくとも、目指すだけの価値があることなんです」
私はしばらく動けなかった。息の仕方も忘れたかと思った。
鳥足くんが何を考えていているのかわからなかった。私と話していても何も面白いことなんてないだろうと。
だが、鳥足くんは私の好きなものを「価値があるもの」と言ってくれた。私の求めていた答えをくれた。文学も歴史も。心を支えてくれるのだ。
鳥足くんは頬を赤くして、「この際だから言ってしまいますが」と続けた。
「初めて紫さんに会った時。和歌を口ずさむ姿を見かけた瞬間に。不思議と、絵巻で見るような十二単のお姫様に見えたんです。いいなって思ったんですよ」
十二単のお姫様って。私はちょっと笑ったのだけれど。
「そっか。……ありがとう」
それだけは、伝えられたのだった。