初めて香水をつけた今日は特別な日
タイトルを少し変更しました。
電車の時間に遅れるぞとばたばたと大学へ行く準備している最中、ふと机の上に鎮座する香水瓶に目が行った。
全体がピンク色で、キャップ部分がリボンを巻いたような形をしている。
少し迷ったけれど、蓋を開けてワンプッシュだけ手首に振りかけることにした。ふわりとお花の香りが鼻をくすぐる。まともに使ったのは初めてだった。これがなんとも不思議な感覚で。
今日の私は少しだけ特別なのだ。そう思うことができた。
千年の昔、好みの香を衣に焚きしめた平安貴族はこんな気持ちで日々を過ごしていたんだ。和歌のひとつでも詠んでみたくなる。
――春日野の……紫の、恋ひわたるべき……?
いや、やっぱり思いつかないや。
下手の横好きは置いておいて。
いつもより胸ときめかせながら家を出た。
午後九時過ぎ。公務員講座を終えたのだが、珍しく電車を一本乗り過ごしてしまった。地元の駅の本数が少ないため、いつもは講座終わりに急いで駅に走るのだけれど、その時はたまたま講師の話が長引いたから諦めたのだ。
地下鉄の駅のホームでぼうっと電車を待っていると、お疲れさまです、と声がかかる。鳥足くんだ。
「珍しいですね。普段は講義が終わるとすぐ帰ってしまうのに」
「電車の都合で、今日はゆっくり帰ることにしたんだよ。次の日は大学に行かなくてもいいし」
「お休みの日は何をしているんですか」
「だいたい本を読んでいるかなー」
眠気が勝っているせいか、変に緊張しなかった。夜はいかん。判断力も鈍る。
「鳥足くんは?」
「とりあ……へっ?」
「……あ、ごめん。間違えた。青谷くんは、休みの日は何かやってる?」
「バイトとか、音楽聞いたり、たまに登山もしますよ。登山サークル入っているので」
「登山。アグレッシブだねえ」
「基本的にはインドアですけどね」
「ふうん?」
ちょうど地下鉄がやってきたので、一緒に乗り込んだ。鳥足くんは途中まで電車の経路が同じである。
私は座席に座ったが、鳥足くんは目の前に立った。この時間帯はほとんどがらんとした車内で、席も座り放題なのだが、彼は立つのが好きらしい。
鳥足くんの顔を見上げるのはなかなか新鮮だ。爽やかな風が吹き抜けそうなお顔立ちなので、美術品を眺める気持ちになる。
ガタガタと揺れる車内で、鳥足くんが私から微妙に視線を逸らしていたのをいいことに心置きなく観察した。
――好みといえば好みなんだけどねぇ。
残念ながら「だれかを好きになること」が面倒かつ厄介なことを知っている私は以前のように頑張れない。最近は特に生涯独身かもしれないと思い始めてもいる。……大人になった悲しみを感じるね。恋愛は別世界のお話なんだよね。
「あの……そんなにじっと見つめられると……」
「そうだね。ごめんね」
案の定、鳥足くんに指摘されて、見ないようにする。前は鳥足くんの方が私を見ていたのに、これではあべこべだ。
スマホをいじろうと取り出したら、鳥足くんが何かを差し出してきた。ちょっぴりくしゃっとなった紙の切れ端を見てみると、電話番号とメッセージアプリのIDらしきメモだ。
あ、と思い出す。居酒屋でばったり会った時に渡されたメモ。あれはどこにやったっけ……?
「連絡先を交換しませんか? こんなに話しているのに知らないなんて変ですよ」
そうかなぁ、と思いつつ、メモの紙に目を落とす。
「青谷くん、前も思ってたけど、達筆だね」
「え? まあ、書道習っていたので」
講義のノートをたまたま見かけた時もやたら達筆だなぁと思ったのだ。しかも鳥足くん、万年筆愛用者なのだ。黒い万年筆でさらさらっとノートを取る鳥足くんの意外性よ。大学生で万年筆が好きなのはちょっと渋い。
「習っていても私みたいに癖のある字を書いちゃう人もいるから、きれいに書けるってそれだけで強みだよ。いいねぇ」
「どうも……」
鳥足くんは肩をすくめた。まぁ、私に褒められても反応に困るだろう。
会話が途切れてしまった。どうしよう、気まずいぞ。鼻歌で誤魔化せばいいかな。
「紫さんはクールですよね」
「いや、全然そんなことないけど」
突然、よくわからないことを言い出す鳥足くん。すぐさま否定せずにはいられなかった。少なくともあなたに対しては相当ぼろが出ていると思いますが。
「私には青谷くんの方がかなり謎めいているよ。何考えているんだろうって思う」
「わかりやすいですよ、俺。友達にも言われますし。自覚するよりも早く態度の方に出るらしいです」
「そうなんだ」
さして鳥足くんと親しいわけじゃないから、私にはどのみちわからないけれどね。世の中は人の気持ちしかり、学問しかり、わからないことが多すぎるのよ。人生短いんだから、あれもこれもなんてできないぞ。学問だけで手一杯だ。
「この際に言いますが……俺は紫さんともっと話してみたいですよ。どんな人か気になるんです」
熱をはらんだ眼差しは、いつかの夢で見た公達と同じだった。夢と違うのは、浅黒い肌にわかりやすいぐらいに血がのぼっていることと、今は現実だということだ。
鳥足くんの真意はいまだ霧に包まれているが、望みは言葉どおりに受けとるべきだろうか。
あれか、目の前に現れたタイプの違う人間に新鮮味を感じる現象が起きているのか。……それならば、互いに慣れたぐらいのタイミングで自然と離れていくのだろうなあ。学部の時にこじれた彼のように。
当時と違うのは、私自身に多少の経験がついたことと、主導権が私の手にあるということだ。私はもう誰かを好きになってのめり込まない。
せっかく和歌に感心を持ってくれた後輩なのだから、むげな扱いもしたくなかった。連絡先交換ぐらいなんだ。研究室の面々とだってやってきたことではないか。自テリトリーの庭で遊ばせるぐらいたいしたことではないし、許容範囲だと思おう。
「ありがとう。すごく光栄だと思う。連絡先に入れておくよ」
「ちなみになんですが、紫さんはメールの返信が早いほうなんですか」
「ううん。めちゃくちゃ遅いほう。早くて翌日とか。なんなら講座で直接手紙をやりとりした方が断然早いぐらい」
「手紙?」
不思議そうになる鳥足くん。変なことを言ってしまったと思った私は「冗談だよ」と誤魔化した。
「ごめんね。おかしなところで平安時代が出ちゃったかも。今どき手紙のやりとりなんてそうそうしないもんね」
「いえ。それはいいんですが。……もし俺が手紙を書いたら返事くれますか?」
「まあ、返事はするかなあ」
せっかく書いてくれたんだからそれぐらいはする。小学生のころに違う学校の友達と文通をしたことを思い出した。彼女は元気かしら。
「もしかして書いてくれるの」
「書きますよ。今度、持ってきます」
鳥足くんとは乗り換えの駅で別れた。……連絡先交換の話題から文通することになった。どうしてこうなったのか。それこそ謎すぎる。私と鳥足くんが加わるとなにかしら化学反応が起きるのでは。
「ま、いっか」
実際に手紙が来たら考えよう。そうしよう。
スマホをいじろうとすると、手首につけた香水の残り香が立ち昇る。そうか、今日は「特別な日」だったから、いつもと違うことが起きるのかもしれないね。
そわそわする心を押さえつつ、家に帰ってしっかり寝た。