おすすめは後拾遺和歌集!
今のところ、通い始めた公務員講座は順調だった。講座は大学内で完結するし、学部生からの知人も通っていることがわかったのだ。ぼっち講義を覚悟していた私だが、同じ人文学系の院生の仲間を得られたのでほくほくである。毎回三人そろって講義室の最前列に陣取り、講義前にぽつぽつと世間話をしているため、講義の先生からは「三人組」で括られているらしい。
環境は悪くないとはいえ、心配ごとはある。講義科目は法律や経済系が多いのに、ちっとも馴染みがないから難しい。あと、数的処理。あれはなんだ。数字とグラフで頭がこんがらがってくる。理解できないところは先生に尋ねるようにしているけれど大変なことに変わりない。
大学の研究室での発表の準備なども並行してやらなければならないから、学生らしい多忙ぶりである。研究はある程度本があればできるから、家に引きこもっていたい。
最近は特に帰りが遅いため、夕食はもっぱらコンビニ弁当だ。レタスたっぷりのサンドイッチ。たまに学食にも行く。
公務員講座前の講義室で、ひとりでもそもそとサンドイッチを食べていると、前方の入り口からだれか入ってくる。
お疲れ様です、といつもの挨拶をされたから、視線を上げて、お疲れ様です、と渋々と返した。
「学食にはあまり行かないんですか。けっこうおいしいのに」
「行く時もあるよ。時間に余裕があれば」
最前列を確保するべく早めに来るようにしているのだ。あと、最寄りの学食に目の前の人が通っていることも知っている。
それにしても鳥足くんは律儀である。生協のお姉さまから「仲良くしてね」というお達しのとおり、ほぼ毎回、私への挨拶を欠かさない。私もそれなりにそっけない態度を取っているのだろうに、へこたれないのである。
……いや、へこたれていないというか、鈍感なのか?
少し前、こんなことがあった。講義が終わった午後九時半。復習をしっかりしなくちゃ、と思いつつ、たまたま講義前に食堂でもらった来週のメニュー表を眺め、おいしそうだなあと思っていると、二列後ろに座っていたやつから声がかかったのだ。
『来週水曜の日替わりメニューがおすすめですよ』
『この、煮込みハンバーグ? へえ。おいしいんだね』
『肉汁があふれ出ます。やばいっす』
頭の中でじゅわわ~と肉汁が溢れでるハンバーグの図が浮かびあがる。
よし、水曜の昼ご飯はきみにきめた!
『……よかったら行ってみます?』
『え? 行くけどどうして聞くの』
私が学食に行くかどうかの判断って聞くほどのことなの、とその時は純粋に疑問に思った。
――よかったら『一緒に』行ってみます?
本当はそう尋ねられていたのでは、と気づいたのが数秒後である。その時にはすでに鳥足くんは目の前から去っていて。鳥足くんの顔をまともに見てなかったので、私の反応に何を思ったのかなんてわからない。
ただ、翌日も彼は挨拶してきたし、今日もずっと続いている。私の知る限り、彼はいつもひとりで勉強道具を広げている。同じ院生仲間に囲まれている私と違って。
ただ、私は大学内で見かける彼が男女問わず友人と話しているのを見ているので、この講座内でも作ろうと思えば仲間は作れるはずなのだ。彼が今、ひとりなのは彼の意思なのだろう。
「実は、古今和歌集を読み終えました」
「古今和歌集を? ……え、ほんと?」
「本当です。さっき読み終えたばかりです」
大真面目に頷いた鳥足くんはトートバッグから青い背表紙の文庫本を出してみせた。
「詩集みたいなものだと思えば、案外悪くないですよね。小説みたいに話を覚えていなくてはならないこともないし。短くまとめられている感じがよかったです」
本を前にしてもなお、信じられない気持ちだった。
どちらかと言えば、細身のパリピ気質(偏見)だと思っていた鳥足くんが、古今和歌集を、読み通した。
彼が古今和歌集を手に取った理由ってさ、うぬぼれなくても私がいたから、だよね。元が経済学部らしい彼の生活圏内に和歌集が入っているとはとても思えん。
入学式の日に図書館で私が呟いていた和歌を聞いて意味を調べただけでなくて、自分でも和歌集を読んでみるとは。
勉強熱心やな、鳥足くん……! いいと思うよ、鳥足くん! 私、君のことがちょびっとだけ好きになれそうだよ、鳥足くんっ。
「ほかにおすすめの古典はありますか?」
「お、おすすめ……」
「日本文学専門ですよね。紫さんのおすすめが読みたいです」
「お、おう……」
心臓に悪い言い方をしているけれど、きっと他意はないのだろう。和歌好きならば信用しなければ。
「なら、後拾遺和歌集はどうかな」
「あまり聞かない名前ですね。あー、でも昔、授業で少し習った気も……」
続きを促してほしそうな鳥足くん。ふふん、答えてあげるよホトトギス。
「古今和歌集と同じ勅撰和歌集なんだけど、古今和歌集より後に編纂されているんだよ。取り上げている時代が、王朝文化の最盛期で、和泉式部や、赤染衛門、藤原公任の歌も入っているのがいいんだよね。あと「釈教」の部みたいな宗教色の強い和歌が入っているのも面白かったよ。岩波みたいな有名どころで文庫になっているから手に入りやすいところもいい!」
「な、なるほど……」
やや押され気味の鳥足くんだが、まあその反応は慣れ切っているから気にしない。好きなものは好きなんだし、好きなものを語るときには熱量が上がるものなのだ。
「でも、好きな歌人がいるならその人の歌集を読んでみるのもいいと思うよ。とりあ……青谷くんはだれが好き?」
「好きなのは……」
鳥足くんの目が宙を眺める。あ、と鳥足くんはすぐに思いついたようで。
「好きかはわからないですが。気になるのは在原業平と……壬生忠岑ですかね」
――春日野の 若紫の すり衣 しのぶのみだれ かぎり知られず
(鄙びたところでふいに出会ってしまった紫草にかぎりなく心が乱れてしまったのです)
――春日野の 雪間をわけて 生ひ出でくる 草のはつかに 見えし君はも
(雪の間からほんのちょっぴり若草の芽が見えたように、あなたのことも見つけてしまいました)
入学式の日の図書館を思い出して、「そう」とうわっつらだけの相槌を打った。
忘れられないですね、と鳥足くんはそっと、葉の上の白露に触れるような声音で言ったのだった。