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紫姫の憂鬱

 

 灯台あかりだいに灯った火が頼りなく揺れている。夜のしじまに耳を澄ませても、虫の声ばかり。

 ひとり、文机の前に座り、白い紙に思うことを綴る。傍にはだれもいなかった。今晩はもう、女房さえも下がらせている。

 キシ、キシ……。板を踏む音がして、紙から顔を上げた。

 外との隔てに使っていた几帳きちょうの白い帷子かたびらに男の影が浮かび上がる。


『雪間の君……ゆかり姫』


 几帳の前で片膝をついた影が甘い声で呼ぶのだ。

 そうだ、呼ばれている。相手は最近訪ねてくるようになった物好きな男。恋文のひとつも寄こしもしないで、私がぽつぽつとする世間話に耳を傾けるだけの。


「お待ちを」


 立ち上がって、蝙蝠扇かわほりおうぎで面を隠し、几帳の傍に腰を下ろした。

 いかがいたしましたか、と公達きんだちに尋ねようとしたのかもしれない。


「あっ」


 几帳の下から伸びた手が、私の手を掴んだ。指同士が絡まって、引っ張られて、体勢が崩れる。扇が手をすり抜け、お気に入りの藤の衣にも皺ができてしまった。

 倒れ込んだ先で、男の目と真正面から向かいあった。恋情に燃えた目だ。男の胸元に引き寄せられる手が熱くて仕方がなかった。


『紫姫。どうか私の心を受け取っていただけませんか』

「いきなり何をおっしゃるのですか」

『いきなりではないですよ。ずっと想っていたことです。……ずっと、こうしたいと』


 とられた手の甲に、唇が押し付けられた。吸い込まれそうな黒い眼が、私を見ている。

 ふわり、と男の衣から焚き染められた香が鼻をくすぐり、胸が高鳴った。


『かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしもしらじな 燃ゆる思ひを――

(どれだけ私があなたのことを想っているのか言いたいのに言えないでいるのです。この燃える恋心をあなたはご存知ではないのでしょうね)』


 私を腕に抱いた男が躊躇いを見せながらゆっくりと覆いかぶさってくる。顔と顔が近づいて、顎に手をかけられて。しかし、私は脱力してしまって動けない。それどころか、早くきてほしいとまで思っている。

 夢うつつのままに彼の頬に手を添えて、私は。


「鳥足の君」


 そう、呟いた。

 鳥足の君。そう、鳥足の君だ。……え。



 鳥足くん?

 あぁ、そうか。これは――夢だ。






 時計を見れば、午前五時半になっていた。自宅のベッドからむくりと起き上がった私。ついさっきまでの夢の内容は覚えていた。だから恥ずかしい。……猛烈に恥ずかしい。

 辛うじてぎりぎり健全な場面で目が覚めてよかった。

 勉強机には、源氏物語の本が開いてある。夜遅くまで源氏世界に浸っていたから、あんなものを見てしまったのだろう。そうに違いない。

 ――夢とは。平安の昔は、己に逢いたいと思っている人が夢に出てくるものと思われていたらしい。すなわち、夢を伝って逢いたい人に逢いに行くと思われたわけだ。今とは全然考え方が違う。

 まあ、この場合、鳥足君が私に逢いたくて夢に出て来たわけではないだろうけれど。さすがにそこまで頭はおめでたくない。


 ――さすがに今日は顔を合わせたくないなあ。


 大学に行く準備をしながらぼんやりそう思う。顔を合わせて夢のことを思い出したらいろいろとやりにくい。


「ゆかりさーん」


 部屋のドアから妹が顔を出した。


「目玉焼き食う? ベーコン付きの」

「食う食う」

「わかったー」


 妹が軽快に階段を下りていく。朝食をついでに作ってくれるとは珍しい。料理方面では私のはるか先を行く妹だが、基本的に私のためには振る舞われないことが多かったのに。

 まあ作ってくれるのならそれはそれでよし。朝食をもそもそと食っていると、妹がねえ、と声をかけてきた。


「あのさ、あの人、ゆかりさんの知ってる人だよね」

「ん? だれのこと」

「ほら、前の居酒屋にいたバイトの人。しゃべってたじゃん」


 …鳥足くんのことか? 

 思わず渋い顔になった。


「まあ少し知ってるだけ。それがどうした?」


 妹は声をひそめた。付き合ってないよね、と。


「い、いやぁ…それはないなぁ」

「そう。よかった。姉ちゃん、紹介して」


 ねえちゃん、しょうかいして。

 空耳かと思った。だれが、だれを紹介しろと。


「なんで⁉︎」

「思い返したらかっこよかったじゃん。お店でも気を遣ってくれてさ。次はああいう誠実そうな人がいいなーと思ったんだよね。きっと同じ大学でしょ。頭いいじゃん。紹介して?」


 猫撫で声の我が妹に言ってやった。


「やだ。やるなら自分でなんとかしなさい」

「えー、なんで? 接点ないじゃん」

「私はやりたくない。あんたはもう少し男を見る目を養ってから出直してこい」


 その物言いが妹の気に障ったらしい。だん!とダイニングテーブルを叩いて立ち上がる。


「今まで彼氏がいなかった人に言われたくない! 姉ちゃんは待っているだけで王子さまが来ると思ってるかもしれないけど、大間違いだから! 自分の顔を鏡で見ろっ」

「自分がおかめ顔だってことぐらいいやというほど知っとるわ!」

「そうじゃない! この顔を見ろ!」


 妹はメイクをばっちり済ませた自分の顔を指さした。


「あたしも姉ちゃんも元はおんなじような顔だよ! でもモテるのはあたしだよ! だって努力してるもん! 姉ちゃんは何にもしないで諦めてるでしょっ。ばかみたいじゃん! 頭がいいくせにこんなこともわからないんだね!」

「……言いたいのはそれだけ?」


 ゆっくりと聞き返す。


「あんたにどう見えてるのか知らないけど、私は好きでそうやってるんだし、それをとやかく言われたくないんだけど。私はさ、あんまりあれやこれや言いたくないんだよ。あんたが人に迷惑をかけずにいてくれればそれでいいと思ってる。……ちょっと、踏み込みすぎじゃない?」

「あたしは! そういうのじゃなくてさ! ……もうっ!」


 妹は怒ったような顔つきをしたが、すぐに部屋から出て行った。

 しばらくしたら祖母が来て、心配そうに言った。


「なんや、また喧嘩したんか。はやく仲直りせなあかんよ」


 仲直りって。まるで子どもの喧嘩みたいじゃないか。

 そう祖母に返そうとも思ったけれど、思い返せばたしかに子どもじみていた。妹の言葉に意固地になって、きつい言葉を投げていたのは間違いない。

 でもやっぱり、妹に鳥足くんを紹介するのは……なんというのか、筋が違う気がするのだ。私の仕事ではないと思う。だから頑張るならひとりで頑張ってほしい。姉ちゃんは妹の恋路を応援できない女なのだ。

 今日はコンビニでご機嫌取りのお菓子でも買って帰るか。そんなことを考えながら大学へ出かけたのである。








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