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恋はもだもだ、ザッハトルテ

 人によっては驚かれるかもしれないけれど。

 私にも純粋な乙女だった時期もあった。

 大学入学したてだった学部一年の春。全学共通の授業で出会った工学部の同級生と少しだけ距離が近づいた。爽やかで顔も好みで、私にも優しかった。連絡交換をし、胸をときめかせながらメールを打った。

 恋の予感を感じていた。私の一目惚れのようなものだったから、頑張ってアタックしたのだ。


 ――けれど。


 たまに送る遠慮がちのメールに返信が来なくなり。講義の時には慎重に距離を取られるようになり。

 困って当時の友人に相談したら、私の気持ちを相手に勝手に伝えられた。告白すらしていないのに「今はそんなの考えられない」と友人を通して返事された。

 最後の最後、勇気を振り絞って「少しだけでもお話しできませんか?」とメールを送ったが、それも無視された。

 それからはまったくの音信不通。縁は完全に切れ、今、相手がどこで何をしているかも知らない。


 ――こんな思いをするぐらいなら。恋《こんな気持ち》はいらない。


 人の真剣な気持ちを流して、なあなあにして。連絡を無視して放っておけば忘れるだろうって思っていそうなところに腹が立つ。どこまで人を軽々しく扱えば気が済むのか。

 それともやんわり断っているのを察せない私が悪かったと思っていたのだろうか。だが言葉にしない以上、私が相手の事情を察してやる必要はどこにある?

 今から思えば、工学部の彼も大した人ではなかったと思う。私は恋に目が眩み、上辺の優しさだけで一喜一憂していた。

 間に介入した友人もよくなかった。なぜ私の気持ちが勝手に伝えられなければならないのか? その答えもなぜ彼女の口から聞かされなければならないのだ。

 途中まで、彼女を「頼りになる友人」と思っていたが、実のところ彼女が動いていたのは「自分がもやもやしたから」。本人がそう言っていたのだ。

 私の話を聞いた彼女は自分のために動いていたのに。私のためと勘違いしていた私はどれだけ馬鹿だったのか。

 疲れ切った私は彼女を責めなかったが、代わりに顔も見たくなかった。彼女との縁もその後、完全に切れた。

 今のスマホには工学部の彼や例の友人の連絡先は入っていない。自分の意思でぜんぶ消した。恋心も跡形もなく燃やし尽くし、残った黒こげの物体は踏み砕いてやった。

 私は生まれ変わったのだ。――ドイツのフライブルクの大聖堂で。厳粛かつ荘厳、歴史の重みを感じさせる知の迷宮で、美しいものを見ながら暮らしていこうと決めた。

 古今東西、あらゆるテキストは私をわくわくさせてくれた。過去の人間が創り上げたものは、読み手をはるか遠くはずの過去にまで連れていってくれる。その世界に浸っていれば、私は幸せ。

 だからね。その聖域に土足で入ってこようとしないでくれるかな――鳥足くん。





「『大鏡』は、大宅世次おおやけのよつぎ夏山繁樹なつやまのしげきという二人の仙人のお話しなんだよね」

「仙人、ですか?」


 研究室の後輩、梢ちゃんは自分のパソコンから不思議そうに顔を上げた。

 授業の合間、人の少ない研究室で雑談しているうちに、そんな話になったのだ。


「もちろん直接は書いてないけれどね。百八十歳と百六十歳の老人という年齢設定からしてもおかしいでしょ。そりゃあ、『大鏡』は歴史物語だから、己が見聞きしたものを語るという形を取るために必要なことだったとしても、その年齢にしたのはそれなりの《背景》があったからそうしたんだと思う」


 雲林院うりんいんで行われる仏事で久しぶりに出会ったふたりの翁。仏事を行う僧侶が来ない間に、ちょっとした世間話をすることになり、傍にいた人びとが聴衆となって彼らの語りに耳を傾けることになる。

 『大鏡』は主に大宅世次と、聞き手となりつつ時折話を差し挟む夏山繁樹のふたりの語り手により進行する。

 実は聴衆の中には姿はあまり現わさないが、ふたりの話を客観的に聞く聞き手がいて、その人物が見聞きしたこととして、『大鏡』は書かれている。

 この人物は世次たちの話に興味を持ち、もっと聞きたいと思うのだが、最後、仏事の最中に起こったちょっとした騒ぎの最中にふたりを見失ってしまうのだ。


「それが、仙人、ですか?」

「そう、もしくは神様とも言えるかもしれないけれど、たぶん仙人かな。当時だと男性の教養は漢文だったし、歴史書も漢文で編纂されていることも考えると、歴史を語る世次と繁樹の存在に中華的な思想の下地があったと考えてもいいと思うんだよね」


 当時は大陸からいろんな文物が渡ってきていたし、男性貴族の間で漢文は熱心に学ばれていた。学ぶばかりでなく、文書や漢詩を作る教養を持ったひとびとがいたのである。


「なるほど。仙人だと思って読んでみれば、印象が変わりそうですね。『大鏡』の話の構造はとても面白いなあと感じていましたが。……この作者、どんな人かわかりませんけど、ちゃんと計算しているというか、それなりの思想的な根拠を隅々まで行き届かせて書いている気がしてきますね」

「でしょ。それが『大鏡』の奥深さなんだよね。実際、歴史物語なんて書くぐらいの人だから、ものすごい教養があったのは間違いないんだよ。でもそれをわかりやすく、漢文ではなく、かな文字で書いているんだから、確信犯なんだよね。やばいでしょ?」


 梢ちゃんは「やばいですね!」とこくこくと頷いた。

 そこへ同じく後輩の田沼くんがやってきた。何やら箱を持っているなと思っていたら、出て来たのは黒くてつるりとしたザッハトルテというチョコレートケーキ。おおう、コーティングが黒光りする鏡みたいだわ。


「え、なにこれ。おいしい!」

「よかったです」


 田沼くんは無糖の生クリームまで持っていた。熱めの紅茶と合わせれば、ケーキとクリームと紅茶が口の中ですばらしい出逢いを果たした。


「田沼くんはすごいねえ。まるっきりお店の味だよ」

「ありがとうございます」


 恥ずかしそうにする田沼くん。私は食べ物の恩は忘れない女なので、何か困っていることがあったら助けようじゃないか。先輩についてきてくれたまえよ! という気分だ。

 すると梢ちゃんが黙って手を挙げた。


「私、負けません!」


 なにやらめらめらと闘志を目に燃やした梢ちゃん。いや、何によ。


「今度、私も何か……そうです、ミネストローネを作って持ってきますね」


 ザッハトルテに抵抗してミネストローネを作ってくると言い出した梢ちゃん。それ、ジャンルが違うけど。


「日本文学の女子力王の座は譲りません!」


 梢ちゃんはなぜかそんなことを宣言した。変なところで負けず嫌いが発動しているようだが、そんな称号が存在していたとは知らなかったよ。


「田沼くん、このザッハトルテってお酒入ってる?」

「いえ、あんずジャムぐらいしか入ってません」

「そうだよねえ」


 田沼くんが「ところで」とふと口火を切る。


「さっきは何の話をされていたんですか。僕が来る前です」

「ああ、『大鏡』に出てくる語り手の翁ふたりが仙人だな~という話をしていたんだよ」

「面白そうな話ですね」


 調子に乗った私がわかりやすく話せば、田沼くんは興味深くうんうんと聞いてくれた。やはりこの研究室に出入りする人間は興味のツボが似通っているのだ。うちの妹に説明したところで冷めた反応しか返ってこないものね。

 我々が世の中の少数派だということを忘れてはいけないのだ。


「あーあ、私も仙人になれたらいいのにな。いろんな悩みから解放されたい」

「そうですねえ」

「わかります」


 田沼くんの言葉には実感がこもっていた。力の入りようが違う。


「最近、ちょっと落ち込むことがあったので」

「そうなんだ」

「話が合いそうな人と仲良くなれそうだったんですけど、なかなか厳しかったんですよ」

「そ、そうなんだぁ」


 冷や汗をだらだら流した。

 田沼くんは私の様子に気付かないでためいきをつく。


「でもやっぱりぶれるのはよくありませんから。初心に還ろうと今思ったところです。……あ、神坂さん、ケーキもう少し切り分けましょうか?」

「い、いただきます……」


 その後に食べたケーキの味なんてわかりゃしなかった。ああもったいない、私のザッハトルテ……。








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