雪間の君と鳥足くん
妹の騒動がある少し前。
大学生協の二階書籍部へ上がる階段でそれを見つけた。海外旅行のパンフレットがずらりと壁にならぶ中、公務員講座のチラシもあったのだ。
修士課程終了後は就職するつもりの私には、地元就職が可能な公務員が身近な選択肢としてあった。うちの文学部や大学院の進路先でも公務員になる人がいる。特に意外な選択肢でもないのだ。
そろそろやるか。
やる気満々というわけでもなかったのだが、現実的な選択として、チラシを手に取った。
親との交渉の末、就職後に講座費用を返金するという条件でお金を借りられた。
申込のカウンターに辿り着いたのは、妹の騒動の後。聞けば、定員ぎりぎりだと言われたから、今更ながらひやひやした。
「申込書はこちらになります。あと、詳しい説明はこの紙にあるので読んでおいてくださいね。うちの講座、大学内でやってくれるから通う手間がない分、人気なんですよー」
四人掛けテーブルに腰かけて、ボールペンを持った。生協のお姉さまの話に耳を傾けつつ、申込書の欄を埋めていく。お姉さまが離れる気配がしたので、集中して書き進めていると。
背後から視線を感じた。ふと振り返ってみれば。
あ、という形をした口のまま、文庫本コーナーからこちらを見ている鳥足くんが。今日もバイトをしているようだ。爽やかな緑色のエプロンをつけている。
「書けましたか?」
ふたたびお姉さまから声をかけられて、はい、と答えた。
「よろしくお願いします」
「お預かりしますね~。……はい、大丈夫そうですね。これで受付けました。一年間、よろしくお願いしますね!」
講座を担当するスタッフも兼ねているという生協のお姉さま。はあ、よろしくお願いします、などと口をもごもごさせていたところ。
「神坂さんには、一緒に講座を受ける知り合いはいますか?」
「いいえ。よく知らないんです」
同級生でいそうな気がするけれど、行ってみなければわからない。
「じゃあ、不安ですよね。最初はそういう子が多いんですよ~。講座でも親睦を深める機会は設けたりしているんです。公務員試験は切磋琢磨する仲間がいる方が伸びるんですよ」
「へえ、そうなんですか」
「大学受験と同じですよ」
「あ、なるほど。たしかに」
ひとりきりで頑張っていると、心折れそうになる時はあるからなあ。
受講生は大学三年生になる子たちの方が多いだろう。元々の知り合いでない可能性の方が高いのだ。ぼっち確率はそこそこ高い気がするぞ。
「仲良く話せる人を探すのは大変そうですね」
適当な相槌を打っていると、お姉さまは「あ、そうだ」と思いついた様子で、私の後方へ「青谷くん」と声をかけた。
「ちょっとこっち来て」
不穏に心臓が鼓動を打った。
お姉さまが手招きした相手。「鳥足くん」だ。
彼は座っている私の前に立つ。心なしか気まずそうである。
「青谷くん。ここにいる神坂さんも同じ公務員講座を受けるんだって。同じ講座を受ける人同士だし、せっかくだから知り合いになってみたらどうかな」
お姉さまは、私を見ながら、
「神坂さん! 少なくともここにひとり知り合いになれる子がいるから、きっと大丈夫だよ! 困ったらガンガン話しかけてみて! 彼、ものすごく真面目でいい子だからね。ちょっとシャイボーイだけれど、いい子!」
「はい……」
どういう表情をしたらいいのかわからなかったけれど。
お姉さまに促されるがまま、とうとう「鳥足くん」へ軽く会釈してこう挨拶した。
「神坂紫です。よろしくお願いします」
鳥足くんもそれに応じて、「青谷湊人です」と名乗る。
あおたに、みなと……。鳥足くん、やたらキラキラした名前を持っているな。
「経済学部の三年生です。よろしくお願いします」
三年生ならば、年齢は二個下ぐらいだろう。
ああ、まぶしい。
私はまったくお近づきになるつもりはなかったのに、縁は何度もやってくる気がする。いったい、私をどうしたいんだ、神様。
よくわからないエネルギーを使ってしまった私はヘロヘロになってしまった。
どうあがいても避けることなんでできないじゃないか……。
それでも心の中で鳥足くんと呼ぶのはやめないけれど。
「神坂さん、これで不安は少し減ったんじゃないかな?」
「は、はあ……」
「あ、これ。詳細な資料ね。講義の日程も載っているから、読んでおいてね」
紙の束を渡してきたお姉さま。そこへ近くの店員が「佐藤さん」と声をかけたものだからそのまま去っていく。私と鳥足くんを残して。
「あの……」
鳥足くんが話しかけてきた。思わずびくついた小動物のようになる私。いや、おどおどする必要もないんだけどさ。
「大丈夫でしたか、妹さん。この間のことはショックだっただろうから」
その言葉にほっとした。ちゃんと共通の話題があるじゃないか。
「あの子はあれでもそこそこ丈夫なんです。心配していただいてありがとうございます。妹にも伝えておきますよ」
「……あなたは?」
「へ?」
「紫さんは?」
ナチュラルに、下の名前を呼ばれた。下の名前で。
家族や同性の友人以外でめったに呼ばれることのない、下の名前で。
「わ、私のことはいいんですよっ!」
思いのほか、声がうわずった。恥ずかしい。なんで恥ずかしがらなくちゃいけないんだ。
私が居酒屋にいた時にしたのは、妹をたぶらかす不審者に恥も外聞もなく怒鳴り散らしただけ。どうせたいしたことはしていない。
ああ、もうやだ。逃げたい逃げたい逃げたい。
「す、すみません」
申し訳なさそうにする鳥足くん。対する私には罪悪感がむくむくと湧いてきた。年下に感情的になるなんて最低だ。
「こちらこそごめんなさい。……じゃあ」
「あ、待って」
反射的に店から出ようとした足が止まってしまう。目の前に差し出されたのは、鳥足くんの手。
「同じ講座なんですよね。……だから、握手です」
「え、えぇ……?」
「握手、です」
なぜか力強く主張してくる。引く様子がこれっぽちもない。
仕方がないので、おそるおそる差し出された手を握る。
当たり前だが、私よりも骨ばって、大きな手だ。思っていたより体温の高い手に少し驚いた。
「ん……」
手が離れると、彼は妙に色っぽい息を吐いた。
「――春日野の 雪間をわけて 生ひ出でくる 草のはつかに 見えし君はも、でしたっけ」
「春日野の……?」
脳裏に蘇ったのは、鳥足くんと初めて接点を持った入学式後の図書館のことだ。
彼は、まだ憶えていたらしい。……和歌を口ずさみながら浮かれていた恥ずかしい女を!
「和歌とか詳しくなくて、自分で調べました。最初はよくわかりませんでしたが、今なら意味をよく理解できます。和歌もいいですね」
さらっとそう告げてきた鳥足くんはやっぱりスペックが高そうだ。私が喜ぶ絶妙なツボをつついてくる。
和歌が好きと言われたら、あれやこれや話したくなってくるではないか!
きっと鳥足くんは私とは違う別の生き物なのだ。一体、何を考えているのさ……!
「紫さんですよね。あの時の、雪間の君は」
「う……」
なぜか今日は追求が厳しい鳥足くん。
彼は私に何を求めているんだ。私にどうしてほしいんだ。
頭がぐらぐらしてきた。
「また和歌のこと、教えてください」
鳥足くんはさらりと微笑みながら去った。
言いたいことだけ言って、人の気持ちをさんざんかき乱しておきながら、自分自身はそっけなく仕事に戻っていったのである。
もう動揺しないぞ。私は思った。
どうせ同じ講座であっても話す機会もあるまい。あちらにはたくさんの友人がいるだろうし、その中には好意を寄せる女の子だっているだろう。彼らの世界に私が入ることはないのだ。
――我ばかり 物思う人は またもあらじと おもへば水の 下にもありけり
(私くらい物思いをする人はほかにいないだろうと思ったが、たらいの水面の下にもいたのだ)
たらいを使うかは別として、トイレの鏡で自分の顔を覗き込むのだけはやめようと思った。きっととてもひどい顔をしているに違いないから。
絶対に、期待などしてはいけない。