ある日、大聖堂にて
大学時代、海外研修に行く機会があった。大学が提携している海外の大学で、春休みの三週間を過ごす。語学に、観光に、現地学生との交流に……大学の寮に滞在しながらめまぐるしいスケジュールをこなしていく。
私の行先はドイツ南部のフライブルク。バイエルン地方にある学生が多い街だ。選んだ理由は、第二外国語がドイツ語だったことと、ヨーロッパに行ってみたかった、ただそれだけだった。
初めての異国。カーニバル、トラム、プレッツェル、ドイツ人。日本語、日本人はあまり見かけない。
目に飛び込むもの、すべてが新鮮で、刺激になった。
一番のお気に入りは、町のシンボルの大聖堂。日本ではまず見ない壮麗なゴシック建築の建物で、中にたくさん並べられている木製の信者席に座ることだった。
蝋燭から電気に代わって長い照明はそれでも薄暗い。鉄扉のすぐ外では朝市の喧噪があるのだが、それさえも今は遠い。音ひとつが石の床に染み込んでいくようだった。
ちらほらと信者席に地元住民が座っていた。慣れたように座って祈りを捧げている。
聖壇と説教台と、ステンドグラス。天井から吊り下がった黄金のキリストの磔刑像と、その背後にかかる巨大なタペストリー。柱に彫られた聖者たちは現代人を静かに見下ろしていた。
無宗教と言われる日本人。私も、自分が何かの宗教を信じていると思ったことはない。ドイツ語どころか英語さえ怪しいただの日本人女学生で、人を感心させるようなたいした考えを持っているわけでもない。
だが、信仰の場はこうして今も守られていることに、頭が下がる思いがした。心の中で噛みしめるような小さな感動を覚えた。
正午になると、この大聖堂では鐘が鳴り響く。この音も好きだった。
ただ、この鐘の音を聞くのは今日が最後。明日には日本へ帰る。非日常の旅を終え、つまらない日常に戻ってしまう。
使い込まれた木製のベンチを感傷的に撫でながら、決意するのだ。
――私は、私の思う美しいものをたくさん眺める人生を送りたい。
そんな夢への指針を定めた十九歳の春。若草を噛みしめる乙女のように純粋だったと言えよう。
それから約三年。二十二歳の春になる。今となって振り返れば、その決意は若芽のごとく柔らかく繊細に繊細を極めたものだとわかった。
現実と理想のギャップは深い。この春、同世代の大勢が働き出したというのに、「入院」したのだ。この入院生活の期限はひとまず二年の予定だ。
パリッと糊のきいたワイシャツも、何度も着ていればくたびれる。真っ白な雑巾も黒くボロボロになる。大学通い始めの初々しい一年生のころと比べたら、大学内を我が物顔で闊歩する大学院生はだれもかれも疲れた風情を漂わせた風体で、華やかさは欠片もない。
大学院に進学するのは学部にもよるが少数派だ。理系学部では進学が当たり前のところもあるが、私のいた人文学部では珍しい。どのくらい珍しいかといえば、うちの学部生を十人捕まえたうち、一人進学すればいい方である。
文系の大学院に進学した後は、修士課程を終えて就職するか、博士課程に進み、研究者の道に入るかに分けられる。後者はともかく、前者はほぼ専門外のところに進む。
理系の大学院だと、教授の口利きで企業の研究員になるなど少なからず専門を生かせる仕事につけると聞く。学問に潰しが利くというのはこのことだろう。
時々、ひどくうらやましくなる。
彼らの能力は社会で必要とされている。その成果は人から注目されるし、実用的だともてはやされる。
一方で「文系」はなんだ。一昔前には「文系廃止論」が囁かれるわ、友人には「化石みたいでつまらなさそう」と罵倒されるわ、と散々なものだ。
人文学に関わる者は、少なからず考えたことはないだろうか?
――自分がこの学問を学ぶ意味はどこにあるのだろう?
目に見えにくい成果。
現代社会で役に立つわけでもない膨大な知識。教養はどれだけ世間で必要とされるのか。
何にせよ、理系の大学院生だと言えばなんとなく「カッコイイね」と思われるのに対し、人文学系の大学院生だと「何で就職しなかったの」と無言のプレッシャーがかかっている気がする。半ば、モラトリアム人間という称号持ちだ。
しょっぱい世の中だ。生きづらくて仕方がない。
ここまで来たからにはもうわかるだろう。私は世間との隔絶の感がある人文学系の院生だ。日本文学歴四年目に突入した。中古文学を専門にする博士課程前期課程の一年。『入院中』。
レモンサワーにはまって夜な夜な作ってしまう今日このごろ。
経済学部のしだれ桜が満開だったことに心がほんの少しだけ軽くなります。
神坂紫、二十二歳。
今年もどっぷりと文学の世界に浸かり切りの一年を過ごします。
進学の理由? ……そんなもの。文学が好きだからそうするんです。いいでしょう?