第7話 夜の始まり
……ああ、今夜は満月じゃなくて良かったわ。
暗い空に浮かぶ細い月を見上げて、私は軽く息を吐く。
満月は眩し過ぎる。いくら夜とは言え、油断したら顔が見られてしまうもの。
(戸締りは万全。一応『結界』も張ってあるし、人の来る気配も無し、と)
念のためもう一度鍵を確認してから、目深にかぶったフードを引き寄せる。
吐いた息を深く吸いこんで、体の奥の魔力へ意識を向けて、
「――行くわよ」
そのまま、勢いをつけて地面を蹴る。
唇からこぼれるのは、もう何百回と唱えた補助魔術。≪身体の軽量化≫と≪跳躍力の増強≫。
わずかな発光と熱を感じれば、私の体は屋根と同じほどの高さまで跳びあがっている。
「――よし」
そして、トンと軽い音を立てて踏むのは地面でなく、屋根の板の上だ。
普通に生活していれば知ることのできない広い視界に、少しだけ目を細める。
「今夜も上手くいったわね」
軽く首を回して、どこにも異常がないことを確認。魔術を使った身体強化は、今日もただの人間に軽業師のような動きをさせてくれたようだ。
最初の頃は筋肉痛や魔術反動で動けなくなっていたけれど、何年も続けた結果、この魔術にもすっかり慣れてしまった。
そんな私の眼下に広がるのは、夜のメルキュールの街なみ。鳥の視点で見る世界は、今夜も暗く静まり返っている。
昼の賑やかさはどこへやら。賊が多いこの街は、日が沈む頃には店じまいを始め、夜になればほとんど外に人がいなくなってしまう。
一応酒場や宿、また風俗系の店は開けているけど、街の規模から考えればずいぶん少ない。
私からしてみれば好都合だけど、やはりもの寂しさを感じる景色だ。
「さて、どこから行こうかな」
気を取り直して外套のポケットから取り出すのは、昼間マスターに貰った書類の一部。
奴らの今までの手口や標的を見れば、この街で狙われる場所もだいたい見当がつくというものだ。
危険な団体ということだし、なるべく被害が出る前に掴まえてしまいたい。
「せっかく特製シチューで気合いも入れてきたことだし、今夜も悪者退治を頑張りますか」
ぎゅっと拳を握り締めて、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
なびく外套を夜空に馴染ませながら、私は暗いメルキュールの街へ走り出した。
* * *
「……ん?」
リーズリット邸のとある一室。
終わりの見えない茶会を続けていたレンは、ふいに立ち上がり、カーテンのかかる窓へ顔を向けた。
「どうかしたのか? レン」
「風が……」
鋭い赤眼が睨みつけるのは、窓ガラスの向こうの夜空。平時よりさらに低くなった声が呟く。
「……うるさい、な」
「風、ですか? 何も聞えませんけれど」
話を中断されたロザリアが、続いた言葉にきょとんと首をかしげる。
喋り主のロザリアが黙ったせいか、部屋の中は時計の音が聞えるほど静かだ。
しかし、ふざけた様子でもないレンに、カイも窓辺へ近付き外を伺う。
「……これは」
窓の外は一見静かだ。
暗すぎる程の夜空が広がっているのみで、庭木が揺れていることもない。
――しかし、
「……殺気立ってるな。何かあったか?」
それは戦場を知る者にしか気付けない、かすかな空気の緊張。肌を刺激する嫌な感触に、カイの眉間にも皺が入る。
相方も感じ取ったことで、気のせいではなかったと確信したのだろう。レンは軽く頷いて、ゆるめていた装備を締め直す。
「多分まだ屋敷の近所じゃないが、どうする?」
カイがレンを見やれば、返事もなく彼はすでに背を向けていた。
戸惑うロザリアを気にするでもなく、白い外套の背中には無骨な凶器が担がれている。
「先に行く」
「了解。視察官殿にはオレから話しておく。十分で戻らなければ、追うからな」
かけられた声には扉を閉める音で応えて、そのまま屋敷の廊下を走り出す。
驚く使用人たちをすり抜けて外へ出れば、隠す気のない下劣な殺意が肌にまとわりついてきた。
「……南か」
どうやら気配が濃いのは屋敷から南の方向、暗くてはっきりとは見えないが、他の方角よりも建物の影が大きい。恐らくは高級住宅区画だろう。
闇に映える外套を翻し、レンは気配の先へ走り出した。