第2話 それぞれの日々-ルキア
「う、ん……」
東向きの窓から、朝特有の白い光が差し込んで来る。
瞼を刺激する眩しさから逃げるように、私は反対方向へ顔を背けた。
遠くに聞えるのは、元気な鳥のさえずり。
……ああ、間違いない、もう朝になってしまったんだ。
目を開かずとも感じる清々しい朝の風景なのに、私の口からこぼれるのは深い溜め息だ。
それはそう。何せ、ベッドに入ったのは空が白み始めた頃――“ついさっき”だ。
体はまだ重いし、倦怠感が頭も心も支配している。
(もう少しだけ、寝ててもいいわよね……)
幸い今朝は急ぎの用事もなかったはずだし、私を起こしに来るような人間は、この街にはいない。
かけ布団を頭まですっぽりとかぶり、さあ寝直そうと足を伸ばした……次の瞬間。
「……うん!?」
かぎなれた良い匂いに鼻をくすぐられて、私の意識はばっちり覚醒してしまった。
慌ててかけ布団を跳ね除け、ハネた髪をささっと手櫛で整える。
服装は寝間着のままだけど、それを気にするような相手ではない。急いで扉を開けて目的地まで駆ければ、そう広くもない台所に“思った通りの光景”が広がっていた。
「……あらルキア様、おはよう御座います」
「おはようヘレナ! 今日はご馳走ね!」
台所に居た中年の女性――ヘレナは私の顔を見て、全てを悟ったのだろう。くすくすと微笑みながら、そっと体をよけて彼女の向かっていたものを見せてくれる。
そこにあったのは予想通りのもの。我が家にはいささか大きすぎる鍋からは、私の大好物の特製シチューが良い匂いを漂わせていた。
私の名前は、ルキア・リーズリット。
産まれたその時から一族を追放された双子の姉。しかも魔力が強かった、正しく“禁忌の子”である。
小さい時は聞いても実感がわかなかったし、それがわかるようになった今も、己の境遇についてはよくわかっていない。
確かに、こそこそと生きなきゃいけないこの身は、普通の人から見れば不憫かもしれない。
しかし私にとっては、それこそが『普通』だったのだ。他を知らない私からすれば、己が不憫なのかはよくわからない。
街外れに建てられたこの小さな家の暮らしにも、もうすっかり慣れてしまった。全部で三部屋しかない家だけど、私一人が住むには十分だ。
街の大通りへ出れば、生家であるリーズリット家の大きなお屋敷が見える。
しかし、あそこで暮らしたいとは、不思議と思ったことがない。
両親にも、“同じ顔の妹”にも、見たことはあれど逢ったことはないのだ。それを寂しいと思うはずの心は、もうすっかりなくなってしまった。
「……私って、冷たい人間なのかな」
「はい? どうかなさったんですか?」
「ううん、何でもないよ」
朝食に用意してくれたレタスサンドを頬張りながら、曖昧に笑う。シチューは夜までじっくり煮込んでいる最中だ。
この食事を用意してくれた女性・ヘレナは、もちろん私の母ではなく『乳母』である。つまり、リーズリット家の使用人だ。
成長した今も何かと私の世話をやきに来てくれる唯一のひとで、私にとって母代わりと言っても過言ではない。
もしかしたら監視を兼ねているのかもしれないけど、真意なんてどうでもいいことだ。
彼女の作るシチューは本当に絶品で、幼い頃から私の大好物でもある。
かつて同じレシピで作ってみたことがあるのだけど、何故か味は同じにならなかった。
『愛情の差ですよ』と笑った彼女の言葉が、とても嬉しかったのを覚えている。
癖のある茶髪とややぽっちゃりした体型。ヘレナは決して美人ではない。
いつ見ても同じようなゆったりしたエプロン姿の、どこにでもいそうなおばちゃんだ。
けれど、彼女の笑顔が私は好きだ。年をとるならこうなりたいと願うほどに、彼女が好きだ。
……私が『家族』を恋しいと思わないのも、きっと彼女のおかげなのだろう。
洗い物をすすぐふくよかな背を眺めながら、こっそりと頭を下げた。
「ああそうです、ルキア様。これからしばらく、こちらには来れなくなりそうなのですよ」
ぼんやりと彼女の背中を眺めていると、ふと思い出したように彼女が振り返る。
「それは構わないけど、向こうで何かあったの?」
「王都から視察官様がお見えになるそうです。私もお屋敷の手伝いに回らなければならないので」
ああ、そういえばそろそろ定期視察の時期だったか。
領主はあくまで国から土地を『預かっている身』だ。こうして定期的に王都から監査が入り、きちんと運営できているかを調査される仕組みになっている。
きっと屋敷の方は、今頃準備でてんてこ舞いだろう。
「そういうことなら仕方ないわ。ヘレナも無理しないでね」
「本当に申し訳ありません。なるべく早く済ませて、こちらへ顔を出しに来ますからね」
「大丈夫だって。それに、特製シチューを作ってくれたでしょう? 私のことは気にしないで」
垂れた目をますます下げる彼女は、本当に優しいひとだと思う。
リーズリット家からどういう指示を受けているのかは定かではないものの、私ももう十七歳だ。
何も出来ない子どもならまだしも、もう結婚もできる年の娘。そんな私を自分が忙しい時期にまで気遣ってくれるのだから、お人よしというか何というか。
「ヘレナこそ無理しないでね。忙しいだろうけど、ちゃんと休んでよ?」
「お屋敷の使用人は沢山いますから、大丈夫ですよ。それよりルキア様の方が心配です。私がいなくても、食事はちゃんととって下さいね? 洗濯物は溜めると大変ですから、せめて三日に一度は片付けてですね……」
「う、うん。わかった、ちゃんとするわ」
「明日は朝市で食材が安いそうですが、この間のように買いすぎないで下さいね? ルキア様は食が細いので、使いきれずすぐに駄目になってしまいますから。それから……」
「……ご、ごめん。もう大丈夫だからさ」
心配したつもりだったのに、いつの間にか内容は私に対するお説教なのだから困ったものだ。
ヘレナはお人よしでなく、心配性。あるいは、過保護なのかもしれない
そうされてしまう私が一番情けないのだけどね。
「……母親と言うのは、幾つになっても子供が心配なんですよ」
「…………」
母親、と。確かにそう言ってくれた響きが、耳に残って温かい。
そう思っているのは私だけではなかったのか。……とても、嬉しい。
去り際に頭を撫でてくれた手を忘れたくなくて、見送った後も、彼女を想う私の頬はゆるみっぱなしだった。