第32話 うちに寄っていって
「――……うわ、外すっごい明るい」
見慣れた自宅の寝室、窓から差し込む朝というには明るすぎる日差しを見て、目を覚ましたばかりの私は深く息を吐いた。
昨夜はあの宿に泊まらせてもらったものの、実は全く眠ることができずに夜を明かしていた。
何せ生まれてこのかた、この家以外に泊まったことがない隠れ生活の身だ。高そうな良い宿を堪能できなかったのは残念だけど、体が受け付けないのだから仕方ない。
……ただまあ、予想以上に家から離れていたらしく、帰り着くまでは結構大変だった。
途中で何度も道に迷ったし、改めて生まれ育った街を知らないのだと痛感したわ。
そうして、何時間も歩いてようやく帰宅できたのだけど、寝不足と溺れた疲労が重なって、即爆睡――そして今にいたる。
日の出と共に宿を出たはずなのに、もうとっくに昼もすぎた時間だ。体の節々が『寝すぎてだるい』なんて贅沢な痛みを訴えている。
(……それにしても、本当になんにも言われなかったわね)
布団の上で筋を伸ばしていると、ふと、昨日の宿の記憶が浮かんでくる。
あの宿の人たちには色々と迷惑をかけてしまったのに、彼らはいっさい詮索をしてこなかった。もちろん、見られてしまった私の顔についてもだ。
事前に騎士の二人が説明してくれていたのかもしれないけど、それにしたって「気になってつい見てしまう」ぐらいはあると思っていたのに。
もしかしたら、私が思っているよりもロザリアは有名ではないのかもしれない。それならそれで、私にはとても有難い話なのだが。
「尾行されたりもしなかったし、昨夜のことはひとまず無事に終わった……と思っていいのかな」
とりあえず、私は無事に帰宅し、今の今まで寝ていられたわけだ。私を狙った賊は、この家までは知らないらしい。
しかし、昨日倒した赤髑髏については、ちゃんと確認しなければならないだろう。
(あの賊、きっとレンが公安機関に手配してくれたと思うけど)
最初の夜と昨日の分、合わせて考えれば結構な人数になるはずだ。もしかしたら、全員捕まえられたかもしれない。
その辺りの確認も含めて、今日はギルドに顔を出しに行かなければいけない。それから、騎士二人にも連絡をとらないと…………『きゅるる』
「……の前に何か食べよう」
これからについての真面目な考えを吹き飛ばすように、腹部が切なげに鳴き声を上げた。そういえば、昨日街で賊に会ってから何も食べていなかったわ。宿でも時間が遅すぎて、食べ物は頼めなかったし。
「何かすぐに食べられるものあったかしら……」
腹が減ってはなんとやら、だ。寝間着に上着を羽織って、のろのろと寝室を出る。
ヘレナがいたらまたお小言をもらいそうな格好だけれど、今回は事情が事情なので見逃して欲しいわ。
「……えーと?」
半日ぶりに見回した家の中は、昨夜の宿と比べてずいぶん寂しい様子だ。散らかってはいないけど、生活感もない。
ここ数日は外出時間が長かったとはいえ、女の部屋というには殺風景すぎるそこに、また溜め息がこぼれる。
目的の台所にも、隅っこに一人分の食器がぽつんと重ねられているだけ。残念ながら、すぐに食べられるものはなさそうだ。
「今から料理するのも面倒だな……買いに行ってもいいけど、まず着替えをしないとだし……」
息を吐けば、再び腹部が鳴き声を上げる。
ひとまずお茶でも淹れて空腹を紛らわせようかと、ヤカンに手を伸ばして……
「ひっ!?」
視界の端、締め切ったカーテンに突然大柄な影が映った。
思わず落としてしまったヤカンが、がらがらと大きな音を響かせる。
(だ、誰!?)
一瞬取り乱してしまったが、すぐさま姿勢を低く下げて、魔術の発動準備に入る。つい先ほど大丈夫だと安堵したばかりだというのに……!!
(うちは大通りから離れてるし、周りには何もない。用もなくこんなところに人は来ないわ)
外観も『どう見ても庶民的なもの』にこだわっており、これまでも泥棒の類は寄ってこなかった。そもそも、周囲には結界魔術を張り巡らせてあるので、他人が易々と近付けるものではないはずだけど……。
(さっきの音で在宅中だとバレてるわよね?)
唯一の来客であるヘレナは合い鍵を持っているので、わざわざ窓を覗きに来たりはしない。何より、映った影の大きさから察するに成人男性だ。
冷や汗を流しながら待つ私に、今度はコンコンと窓を軽く叩く音。やはり、家の敷地内に入って来られている。一体誰が――……
「……ルキア? そこにいるのか?」
「……へ?」
窓越しでくぐもった音だったけれど、その声が耳に届いた途端に、力が抜けてしまった。
背筋に心地よく響く低音。この素敵な声の持ち主を、私は一人しか知らない。
「レン? どうしてここに?」
「よかった、起きたんだな。届け物がある。開けられるか?」
慌てて窓辺にかけよってカーテンを開ければ、立っていたのは予想通りの長身の騎士だ。編み籠を掲げながら、穏やかに笑っている。
「ま、待ってて! すぐに開けるわ」
「ああ。玄関に行く」
ゆったりと踵を返す彼に合わせて、慌てて玄関に行き扉を開く。軽く会釈をしながら現れたのは、やはり白い騎士制服に身を包む美貌の彼。強張っていた頬が、自然とゆるんだ。
「最初は玄関を叩いていたんだが、返事がなかったから。脅かして、すまない」
「私こそ、気付かなくてごめんなさい。ついさっき起きたばかりで……」
「……俺が起こしたのか? すまなかった。すぐに帰るから、これを」
「待って待って帰らないで! せめてお茶を飲んで行って!」
これまで散々お世話になっているのに、配達役をさせた上にそのまま帰すなんてありえないだろう。
驚きと安堵を引きずったままだった私は、つい強引にレンの手を引いて我が家へと迎え入れる。
「……じゃ、少しだけ」
慌しい私を眺めた彼は、また赤眼をふわりと細めて笑ってくれた。
(……いや、勢いで招きいれたけどさ)
そうして冷静になってみて、家の様子と自分の姿を思い出し、今度は反省と後悔で頭がいっぱいになった。
先ほどまで食べるものがないと言っていたばかりだ。「お茶を」なんて言ったが、お茶請けのお菓子などない。
しかも、今の自分の姿はどうだ。寝間着に上着を羽織っただけのだらしない格好に、髪も寝癖でばさばさだ。これなら普段の顔隠しローブの方がまだマシだろう。
ちらりと様子を窺えば、大人しく招かれたレンは小さめのテーブルにつき、のんびりと私の背中を眺めている。顔立ちこそキツめの彼だけど、今はとても穏やかに笑っているので、多分気分を害してはいないのだろう……と思っておきたい。
そうこう悩んでいる内にお湯が沸いたので、不揃いのカップと安物の紅茶葉を持って、私もテーブルへと向かう。
「……ごめんなさい。誘っておいて何だけど、私の家何もなかったわ」
「構わない。ルキアが部屋に入れてくれたのは嬉しい。あとこれ、届け物は食べ物だ。これを食べるといい」
「食べ物?」
そういえばと彼が差し出した編み籠の中を検める。入っていたのは、丁寧に包まれたサンドウィッチだった。一人分にしてはかなり量が多いようだが。
「屋敷の使用人……ヘレナ、だったと思う。差し入れを頼まれた」
「ヘレナから!」
我ながら単純なものだ。恥でいっぱいだったはずの頭は、たった一言で幸せに塗り変わる。
ひとつ手に取ってみればすぐにわかる。それは間違いなく、十七年お世話になっている彼女の手作り料理だ。
「きっと食べていないと言っていた。腹は減っていないか?」
「さすがヘレナ、よくわかってるわ……食べてないし、お腹もすいてるのよ。よかったらレンも一緒に食べて。私一人には多すぎるし」
「ああ、有難う」
急いで平皿を持ってきて中身を並べれば、レンも嬉しそうに微笑みながらそれを手に取る。
量から見ても、きっと彼と食べることを見越して作ってくれたのだろう。さすが『育ての親』の彼女だ。何でもお見通しなのね。
「んぐ……おいしい、生き返るわ」
多少時間は経っているはずだが、挟んだ具は瑞々しさを保っており、噛み締める度に胃が満たされていく。
お店で出るような洒落た要素はないものの、食べる人のことを考えてくれた家庭の味は、疲れた心も癒してくれるようだ。
はじめは私に遠慮していたレンも、途中からは男性らしい速度で平らげていき、一息つく頃には差し入れはすっかり空になっていた。
「……すまない、普通に食べてしまった。ルキアへの差し入れなのに」
「いやいや、私一人じゃ食べきれない量だったし、気にしないで。食べきったほうがヘレナも喜んでくれるわ」
淹れ直した新しいカップを手渡せば、レンは少し恥ずかしそうに微笑む。その表情はいつもより幼く見えて、なんだかちょっと可愛らしい。
中身は安物の茶葉なのに、こうして二人でいると、とても贅沢な時間のように感じる。
(こんな風に誰かとすごせる日がくるなんてね)
部屋の中は殺風景なままで、雰囲気もへったくれもない。けれど、ここに彼がいてくれるだけで、とても温かで幸せな気分だ。
もちろんヘレナの差し入れにも感謝したいけど、こうして新たな発見をくれた彼らには、本当に心からお礼を言いたいわ。
「機嫌がいいな、ルキア」
「貴方とヘレナのおかげよ。有難う」
「……? 何もしてないが、ルキアが元気ならいいか」
にまにまと頬をゆるませる私に、レンは不思議そうにしつつもカップをあおる。
そんな彼をゆったりと眺めていたが――しかし、次に見た彼の表情は、一転してひどく真面目なものに変わっていた。
「レン?」
「悪い、くつろがせてもらったが……今日来たのは、差し入れだけじゃない。話し合いの日付について、伝えにきた」
「っ!!」
仕事用の硬い声で告げられた内容に、ゆるんでいた顔の筋肉が一瞬で固まった。
ああ、そうだ。彼らにそれをお願いしたのは私だった。
「心配しなくてもいい。悪い返事じゃないし、夫妻はやはり善人だった。ルキアのこと、心配していたぞ」
「……そう」
レンの赤眼が気遣わしげに細められる。慌てて固まった眉をほぐしたけれど、また余計な心配をかけてしまった。本来ならば、彼らは護衛だけが任務なのに。
「ごめんなさい。それで、時間はとってもらえるのかしら?」
「ああ。明後日の昼食時に会えたらと言っていた。ルキアの都合はどうだ?」
「元々私には何の予定もないわ。今はギルドから他の仕事も請けていないし、大丈夫よ」
「わかった。では、受けると返事をしておく」
ホッとしたように表情を和ませたレンに、私も軽く頷いて返す。
明後日……思ったよりも早く席を設けてくれたみたいだ。しかも、時間も夜でなく昼だとは。
私に『隠れていろ』と思っているのなら、顔を隠し易い夜を指定してきただろう。そうでないということは、周囲よりも私を優先してくれたと思っていいのだろうか。
(……まあ、二人が何度も『両親は平気だ』って言ってくれてるしね)
彼らを疑いたくはない。けどまあ、やっぱり会ったこともない人間を信用できない私だ。誰よりも深く血が繋がっているはずなのに、全く難儀な話だわ。
レンは少しの間様子を見ていたけれど、私が落ち着いたと判断すると音もなくスッと席を立った。
きっと本当は今の話をするために来ていたのだろう。差し入れもついでだったのだろうし、私の都合で勝手に引きとめてしまった。
「時間をとってもらってごめんなさい、レン。色々と有難う」
「なぜ謝る? 俺も会えて嬉しかった」
何歩もない玄関までの道を見送りについて行くと、レンはまた穏やかに微笑んで返してくれた。
しかし、なぜかすぐに視線を逸らすと、ぽそりと何かを呟く。……心なしか、頬が赤くなっている。
「レン? ごめんなさい、聞えなかったけど……何かしちゃった?」
「……いや、その。この家、周りに魔術があるだろう?」
「え、わかるの!?」
言いづらそうに告げられた言葉に、思わず驚いてしまう。
この家の周囲に張った結界は、視認しにくいもののはずだ。弾かれて気付いたならともかく、普通に入ってきたレンが気付いているとは意外だった。
「魔術は使えないが、何となくはわかる。それでも……俺には、効かなかった、から」
「そうね、あれは入れるか入れないかの二択しかないもの。解かれていないみたいだし、貴方には効かなかったのよね?」
「……だから、俺はルキアに受け入れられているんだとわかって、嬉しかった」
「…………」
――……ああ、まったく、そのとおりだわ。
つられるように頬を染めていく私に、レンは一瞬驚いたものの、すぐに蕩けそうな笑みを浮かべた。
そうして、「また明後日に」と颯爽と去って行く背を、私は一言も喋れずに見送る。
……当たり前のように受け入れてしまったが、私の家の周りの結界は『私が許した人物』にしか通れない。
これまで通れた人物は、私自身を除けばヘレナだけ。うちには配達なども来るようにしていないので、それで何の問題もなく十七年暮らしてきたのに。
(……あっさりと、レンを受け入れてしまっていたのね、私)
気付いてしまえば、気恥ずかしさが押し寄せてくる。しかも、それをレン本人にも気付かれていたとなれば、これは無言の好意宣言も同じじゃないか。
「い、いや、ほら……命の恩人だもの! きっとレンも深い意味は考えないわよね!」
自分に言い聞かせてはみるものの、裏返ってしまった声色には何の説得力もない。
破裂しそうな胸を押さえつつ、彼が使ったカップをゆっくりゆっくり片付けていく。
……そうして、レンに賊の処遇について聞き忘れたことを思い出すのは、日がすっかり沈んでからのことだった。




