第9話 闇に交わる糸
「嘘でしょ!? あいつら何人がかりで小娘を追いかけてるのよ!!」
上手く撒けたと思えたのは、ほんの数秒。
気付いた時には、私の周囲を何人もの男たちが追ってきていた。
人数を確認している暇はないけれど、少なくともさっき目くらましをかけた五人とは違うようだ。
つまり、他にも待機してたらしい。規模が大きいことは知っていたのに、完全な慢心だ。
「ああもう、最悪だわ!!」
本当はあまり騒ぎたくはないけど、今はそんな余裕もない。
地上へ降りたら取り囲まれるのは明白。家の持ち主には悪いけど、このまま屋根伝いに走り逃げるしかない。
もちろんこのまま家に帰るなんて論外。こんな民家の多い場所でことを構えるのも却下だ。
(何とか撒ければいいんだけど……)
少しだけ振り返って、首を横に振る。
駄目だ、人数が多過ぎる。こんな集団を野放しにはできない。
(なんとか街の外れまで誘導して、そこで私が対処しないと)
――しかし、ぱっと見ただけでも人数はもう十を越えていた。私一人でどうにかするには、なかなか苦しい状況だ。
眼下で喚く男たちの声は、今なおも数を増している。
(これ以上増えられたらさすがにきつい! 公安の施設に直接行くべきか……でも、多分顔を見せないと……)
どうするのが最善手か。
行き先を決められないままに、とにかく足を前へと突き出して駆けて――
――――それは、ほんの一瞬。
焦った心が起こした油断。ちょっとした失敗。
しかし、場所が悪かった。
「え……?」
次の屋根へ飛び移ろうとした私の足が――空を切った。
「しまった……!?」
気付いた時にはもう遅い。
がくんと体勢を崩した体は、重力に逆らうことなく下へ落ちて行く。
(嘘でしょ……ここ三階建てじゃない!!)
何か唱えなきゃと思う心とは裏腹に、頭には何の呪文も浮かんでこない。
伸ばした手は何も掴めず、唇からこぼれるのは乾いた吐息だけ。
(駄目だ、もう間に合わない……落ちる!!)
妙にゆっくりと流れる景色を見て――私はきつく目を閉じる。
せめて少しでも痛くないよう、肩を両手で抱き寄せて――――
ぼすっ
「――――ッ!?」
鈍い音とともに、時間の流れが元に戻った。
(あ、あれ? 痛く……ない? なんで?)
ゆっくりと手を動かしてみる。
指先に触れたものは、思ったよりも柔らかい。
(これは……布? どこかの店の天幕?)
この時間で干しっぱなしの布団はないだろうけど。何にしても助かった。
あの高さからでは骨折はまぬがれなかっただろうし。おかげで体のどこも痛くない。
(早く起きて動かないと――ああでも、何かしら。温かい……)
「ん……」
次第に脳も覚醒して、開いた視界もハッキリとしてくる。
体を包み込むのは柔らかい生地で、でもなんとなく硬さもある……不思議な、
「…………?」
声を発した唇に、確かに“吐息が触れた”
何だったのかと、確認するために顔を上げて――
「……うそ」
――後悔した。
私の下敷きになっていた温かいもの。
それは、間違いなく、『人間』だった。
「…………」
体躯から見て成人の男性。鋭い赤の瞳が、真っ直ぐ私の間抜け顔を見つめている。
それもそのはず。だって彼の顔はとんでもなく近く……それこそ、髪が重なり、吐息が触れるような至近距離にあるのだから。
「あ……あ、の」
頭の中で、色んな情報が交差する。
動揺、混乱、謝罪と――“現実逃避”。
心臓から昇る熱が、みるみる内に私の頬を染めていくのがわかる。
――――どうやら私は、彼の上に落ちてきた挙句、
唇を、触れさせていたようだ。
「あ、の……ご、ごめんなさ…………」
妙に乾いた声がこぼれる。
謝らなきゃいけない。ひどい迷惑をかけてしまった。
この人は怪我をしていないだろうか。私のせいで、大変な思いをしていないだろうか。
ああ、そうだ。私は追われていたんだった。だから早く、彼にも逃げてもらわなきゃいけない。
頭ではやるべきことがわかっているのに、私の体は動かない。
彼の瞳に捕らわれたように、動いてくれないのだ。
触れ合う手が熱い。
耳に響く鼓動がうるさくて――これは、どちらの心臓だろう?
事故と呼ぶには柔らか過ぎた感触が、唇に残っている。
「……きゃっ!?」
どれぐらいそうしていたのか。
ふいに体が浮いたと思ったら、次の瞬間には地面に下されていた。
私を抱きとめていた彼が、立たせてくれたらしい。
「あ、あの……」
「……無事か?」
低く、背筋に響くような心地よい声が問いかけてくる。
怪我はないかということなら、彼のおかげでどこも痛くない。
「だ、大丈夫です」
「ならいい」
なんとか頷いて返せば、彼はほっと軽く息を吐いた。
たったそれだけの短い会話。
けれど、この人は怒鳴るでも責めるでもなく、真っ先に私を心配してくれたらしい。
(……なんて、親切な人)
建物の三階から人間が落ちて来るなんて、下手をすれば大惨事だ。
私はもちろん、彼が大怪我をしてしまった可能性もあるのに、怒っている様子もない。
なんて優しい、命の恩人だろう。
「あの、助けてくれて有難う御座います。貴方のお怪我は――」
「動くな」
「えっ!?」
お礼を言おうと話しかけた瞬間、彼の腕が制止するようにかざされる。
「おい、居たぞ! こっちだ!!」
「っ!! まずい、あいつら……!?」
落下の衝撃にすっかり気を取られていた。そうだ、私は追われていたんだ。
ちゃんと撒けてもいなかったし、落ちたからといって解決しているわけがない。
暗闇の中には続々と人影が浮かんでくる。
右にも左にも増え続け……最悪だ、囲まれてるじゃないか。
(これぐらいの距離なら、まだ間に合うか)
幸いにも民家の密集区域からは抜けられていたみたいだ。建物同士の間にもいくらか余裕がある。
これなら少しぐらい戦っても、周りに被害は出さなくて済むかもしれない。
「……巻き込んでごめんなさい。すぐ片付けるから、下がっ……あ、あれ!?」
親切な恩人へ向けてかけたはずの言葉が、空しく夜風に飲まれる。
隣にいたはずの姿はそこになく、慌てて捜せば後ろ姿が奴らの目前まで駆けている。
「ま、待って!? 危ないわ!!」
止めようと伸ばした手も当然届かず、私が言い終わるよりも先に、澄んだ剣戟の音が聞えてくる。
「なんだテメ……ぐああっ!!」
続けて聞えてくるのは、男たちの品の無い呻き声。
一音響くごとに増えるそれは、淡々と作業のように男たちを片付け――
「う、嘘でしょ……」
……時間にして、わずか数分。
私が加勢する間もなく、剣を鞘にしまう硬質な音が終結を告げる。
闇の中から現れたのは、白い外套を翻す彼一人だけだ。
「なんて、強さ……」
呆然と立ち尽くす私に、何事もなかったかのように彼が歩み寄ってくる。
「終わった」
「は、はい、そうですね」
彼の背後はすっかり静まり返っている。
大所帯で騒いでいた賊の全てが、動ける状態ではないみたいだ。
対して、二十を越える数の男たちを相手にしていた彼は、息も上がっていない。
(……何者なの、この人)
はっきりとは見えなかったけれど、この動き、身のこなし。無駄も隙も全然なかった。
それに、あの高さから落ちた私を、彼はしっかりと受け止めていたのだ。
只者でないのは確かだけれど、この存在を指す言葉を、私は知らない。
「……なんだ?」
私の不審な視線に答えるように、彼が見つめ返してくる。
「……あ」
視線が絡んで、ようやく気付いた。
よく見たらこの人、凄い美形じゃないか。
目付きはちょっと鋭いけれど、赤色は宝石のようにきれい。
筋の通った鼻と、引き結ぶ唇の配置は完璧だし、男性らしい輪郭すらも理想的な形だ。
(――私、こんなきれいな人に、キスしちゃったのか……)
急に恥ずかしくなって、つい視線を逸らしてしまう。
顔が熱い。いや、体が全部、燃えるように熱い。
「……どうした?」
「い、いえっ……何でもありません!」
かけられた声がくすぐったくて、顔だけでなく体も逸らしてしまう。
「怪我か?」
「ち、違います。本当になんでもないですからっ!」
……ああ、意識したら本当にまずい。この声も耳に心地よくて、背筋がぞくぞくするのだ。
(私の知っている男と、全然違う)
偏っている自覚があるとは言え、こんなにきれいな人は見たこともない。
筋肉隆々ないかつい男たちしか知らないのに、急にこんな素敵な人とどうやって話せというのか。
「おーい、レン-? そこに居るのかー?」
「……ッ!?」
私を現実に引き戻したのは、遠くから響いて来る足音と、誰かの呼ぶ声。
やはりさっきの騒ぎで人を集めてしまったみたいだ。
公安機関が来てくれるのは助かるけど、事情聴取に捕まえられるのは困る。顔を隠さないといけないのはもちろん、身元を調べられては厄介だ。
(何のためにギルドを通してると思ってるのよ! と、とにかく何とかして逃げないと!)
慌てて逃げ道を捜せば、それを引き止めるように目の前の彼が腕を掴んできた。
白手袋に包まれた掌は大きく、振り解くのをためらうほど力強い。
「ごめんなさい! 助けて頂いたお礼は必ずしますから! 私は今、公安に捕まるわけにはいかな……」
「逃げろ」
「……え?」
この人、今なんと言った? 逃げろと聞えたのは、空耳か?
「ここは引き受ける。逃げろ――ルキア」
反応する間もなく、低い声が静かに囁く。
そしてそのまま、私の手の甲に優しく口付けを落とした。
「え、なっ何を……っ!?」
「また、すぐ逢える」
最後に彼が見せたのは、とても穏やかな微笑み。
赤眼を優しく細め、そっと私の手を離すと、彼は闇の中へ駆けて行ってしまった。
「……な、何、今の……?」
残されたのは、半分放心している私のみ。
しかし、近付いて来る足音に慌てて距離を取り、家までの道を走り出す。
“また逢える”と囁いた彼の声が、いつまでも耳に残っていた。
* * *
「おー居た居た。レン、大丈夫か?」
背後に数人の警備員を連れて、薄青髪の騎士が手を振りながら呼び掛ける。
その腕にはぐったりとした男たちの姿。いずれも先程レンが相手をした賊だ。
「随分遅かったな。ちょっと心配したぞ?」
「すまない」
「無事なら構わんさ。それで、こいつらお前がやったんだろ? 指名手配中の賊みたいだぞ」
「…………ああ」
カイの説明を受け、ようやく合点いったように頷く。
彼女を追いかけていたから倒したのであって、相手の素性は気にしていなかったらしい。
「殺気の正体を突き止めたのは良かったが、もう少し大人しく動いて欲しかったな。この辺の持ち主から、多分明日にでも苦情が来るぜ?」
相変わらず、とでも言うようにカイが溜め息をつく。
視線の先には、暗闇でもわかる程すっぱりと斬り落とされた、看板の残骸が転がっていた。
「……善処しよう」
「そうしてくれると有難い。悪者を倒したのに苦情なんて、オレも受け取りたくないしな」
苦笑を浮かべながら、ポンポンと慰めるようにレンの背中が叩かれる。
レン自身は特に気にしていないのだが、それでも己を気遣ってくれる友人の言葉はどこか温かい。
「――カイ」
「ん?」
だからこそ、カイには早く伝えなければと思ったのだろう。
カイもまた、レンの声色がいつもと違うことに気付き、首をかしげて返す。
「何かあったのか? ご機嫌じゃないか、レン」
赤い瞳に浮かぶのは、とても柔らかな笑み。
らしくない穏やかな表情で、レンははっきりと口にする。
「見つけたぞ。ルキアを」