不気味な獅子
糸の間を縫ってくる幾千の板状の強化マグネット。それは一種の波となって、その一帯を支配する。
本体があの糸をものともしない、もしくは、絡まった糸の力学を理解しているならば、容易にその間を縫って切ることが可能、ということだろう。無暗にそんなことをすれば最悪の場合マグネットそのものが行動不能になる。
だが、それは当初の予想通りである。
『よっ――こいしょ』
目的の一本を掴み取る。それにぶら下がりながら、慣性の力でその糸を思い切り引っ張る。
瞬間、建物に溶かして設置したワイヤーが外れ、連鎖的に別の個所の糸を外し、張っていたワイヤーの何本かが一つの方向に向かって直進する。そうなるように予め糸と糸を絡ませ、そのような動きをするように誘導した。ドミノのパイを少し押すのと同じ原理で。
それは、仮に人的鎧であろうと、トップランカーであろうと見切れるものではない。
それを。
『ふーん』
そんな白けきった反応を示した後に、最小の動作で躱して見せる。黒い磁石の群に囲まれながら、しかし彼は自身に迫っているものを、糸を蹴った瞬間に別の糸を掴み、態勢を変えることで容易に軌道を読んで見せた。
驚愕を示さずにはいられない。というより、そんなことが出来る時点で、この人物は十分に異常なのではなかろうか。
張り巡らせた糸を蹴り、建物の上部に着地する。そのわずか一秒後に、くるくると回転しながら、大量のマグネットを引き連れて黒い人的鎧が現れた。
『にーさん、本当に人間?』
まず、口をついて出た感想はそんなもの。それを聞いた向こうのにーさんは黒い大群のなかでゆっくると体を立て直した後、首を傾げてきた。
『なんだそりゃ?』
『いや、なんとなく、確かにアーマーだけの人じゃなさそうだ』
『パターンを憶えているだけだよ。そんな大したことじゃねえ。まあ、おまえからすりゃ、異様なんだろうけどな。糸の通達なんざ、三度見りゃ完璧に覚えられる』
どうにも目の前にいるのは怪物らしい。隔週能力が高いどころの話ではない。これはすでに学習をしているのではなく、学習という過程を省略してその先にあるものを手にしてしまっている。
彼がキカクの中でトップランカーになれた理由としては、その辺に理由がありそうだ。
『しかしやっぱ面白ぇな、おまえ。人的鎧の加速をそんな風に使うかね。本人にも視認できないほど高速で移動ができるなら、そのスピードをあくまでトラップを仕掛けるためにたぁな。お前が高速で通った後にはどこから知らに仕掛けた糸が引かれてた。ま、確かにあのスピードで伸ばしていけば、あっという間に蜘蛛の巣が完成だ』
全身に黒い霧を纏いながら、向こうからは赤い眼だけが視認できる。
その数千というマグネットの中に見える、ハリヤマ・ネズという青年の姿は、うっすらとしか視認できない。
『それで? もう終わりかよ少年。ならあのお嬢さんがどこに行ったか教えてくれない? こっちから探すの面倒なんだよ。現地住民の調査とかあるからオレ達じゃ無理だし、そうなると組織内の誰かがその旨を報告しなきゃならない。分かる? この徒労』
あんまり分かりたくもない苦労だ。元々、そういった人間同士の責任とかいうものから離れた、もしくは離れたい人間が集まるのが技術廃棄街なのである。そこに住んでいる俺としては、そんなものを問われても分からない。
『それは大変ダネ。しかしにーさん。分からないことがあるんだケド、あのおねーさんに対してなぜそこまでの捜索を実行しようとしてるワケ?』
『ん? そりゃまあ、キカク地域のVIPみたいなもんだからな。あの顔は』
『でもその人物はとっくにお亡くなりになってるんデショ? だったら彼女のことをそこまで追う必要はないはずだけど』
『あー、それなぁ。そうしたいのは山々なんだが、これも上司命令? なんだよなぁ。どうにもその貌のヤツを連れて来いってんで、それに従ってるに過ぎない』
『……もしかしてだけど、あのおねーさんを殺害することが目的かな?』
『そう怖い声を出すなぁよ。オレのグループの人員かおまえは。まあ、それもあり得るかもしねえな。でもオレはやらんよ。そんなもん幾ら命令だからってやる気が起きない。それに結構重労働じゃないか? 死体の処理とかって』
ああ、と理解する。数時間前にスラムにいた精神科医が言っていた言葉の意味をようやく認識した。確かに、彼のような人間からしてみれば、これは異常と診察されるに決まっている。
『いや、別に。そーゆーの嫌いなジャナイよってだけだからさ』
現状の認識、正常な認識。その正統がすべて、他者からの強要によって冒される。その、通常とは言えない精神で、その判断で、この人物は己の行う正義を遂行している。
その正義が、あまり積極的でも協力でもないのは、ひとえにこの人物の特有か。
――いや。
これはいい。これこそが望んだものだった。この人物は最高だ。最高のサンプルだ。そうでなければならない。
冒涜と強引と怠慢を合わせたようなその自我。これこそが、本当に望んだものだった。
『きみは、ハリヤマ――ネズくんだったかな?』
向こうの人物が反応したのが分かる。
口調が変わったなどということからではなく、その全身を包む悪寒によって強制的に認識させられたという方が近いか。
『中々に上々だ。きみのような者がキカク地域にいることがどれだけの意味を持つか。面白いを通り越して色々試したくなったよ。もしきみが、この状況下において、圧倒的有利にさらされた状況から、最悪の敗北を喫したら、どのような変化をするのか、などをね』
『おまえ――』
臆した声ではない。その声は、目の前に存在する敵が、自身が想像していたものとは明らかに違う人種であったと把握したものだ。本当に鋭い。そんなものに今更気づいたところで、どうなるとも思えないのだが。
『は、オレがこの状況で敗北するって? かもな。勝負なんてそんなもんだし』
『そうだな。ああ、といっても勘違いはしないでくれ。きみは謙遜をしているつもりなのだろうが、私にきみは打倒できない。きみと私の実力差は歴然だ。きみの行動をすべて把握しても、私には一部の勝率ものこされてはいない』
『ふーん。それで?』
『きみにとっての敗北を選ぼうと思う』
言って、私はアーマーからそれを引き抜き、建物の上に晒してみせる。
『――――チ』
あちらが小さく舌を打つ音が大量の群が犇めきあう音に混ざりながら聞こえてくる。
私がそこに出していたものは、人的アーマーのランカー用にある、対物ハンドグレネードだった。一つでビルの倒壊が可能なグレネード。それを、足元の民家に晒す。
『私に触れた時点で起動する。爆風ではその磁気では払えまい。さて、どうするかね? キカク地域の正義官』




