夏の炎(その5)
屋敷の庭から門にかけて、そして表の通りにも、白いものが敷きつめられている。それが砂や小石でないことに、雪華はようやく気がついた。雪華は屈んでそれを拾い上げた。
「そりゃ貝殻だ」
門まで雪華に見送られて来た彫鉄が云う。不思議そうに雪華は彫鉄を見る。彫鉄の見慣れた(と思っていた)あどけない無邪気な少女の雪華がそこにいた。
「この空気の臭いはなあ」彫鉄は話し出す。「土地の者じゃねえ奴はみんな海の匂いだと思うんだ。だが違う。これはみんなこの貝殻の出す匂いなのさ。この浦益のあの向こうはずーっと遠浅の海だ。そこでアサリやハマグリがいっぱい採れる。その毎日いっぱい出る貝殻の処分の元締めをなさっているのがこちらの杉戸の親分さんだ。立派なお人だってえのは、雪ちゃんもお会いしてわかったろう? もとより、無常さんや丹波さんが心から信頼なすっているお人だし、俺もいざとなったらここに雪ちゃんを預けるようにって、無常さんからも丹波さんからも云われていた。そんなお人だ。雪ちゃんは大船に乗ったような気持ちでいりゃ、間違いないさ。ただし、親分さんの云いつけは絶対に守るこった。特に…」
特に、手刀云々の云いつけは守らなくちゃいけねえぜ。
そう云おうとした彫鉄の脳裏に裏腹なもう一つの言葉が浮かぶ。
雪ちゃん、本当に手刀を捨てるつもりかい?
彫鉄はわずかの間云い淀んで、結局どちらの言葉も呑み込んだ。どちらもこの場ではいかにも野暮な科白だ。彫鉄は代わりにニッと笑って、別の言葉を続けた。
「…まあ、俺がどうのこうの云わなくても、何より雪ちゃんが一番よくわかってるこったなあ」
そう云って彫鉄は、ちょっと目をしばたかせながら、浦益の遠浅の海の方を見やった。ここからでは海は見えないが、空が広く抜けていて、とんびが二三羽遠くに近くに舞っている。
(彫りたくなる、肌だねえ…)
会うたびに雪華に云っていた言葉が、彫鉄の脳裏に谺する。
「彫鉄さん…」
雪華が云った。
「ん?」
「いろいろと…ご迷惑をお掛けしました。そして…有難うございました」
「いいってことよ」彫鉄は馬面に猿の造作の顔面をくしゃくしゃに崩して、大きく右手を振った。「水くせえことを云うもんじゃねえ。俺は無常さんとの約束を守っただけだよう」
彫鉄は熱くこみ上げるもので真っ赤になった自分の目を雪華に見られまいと、顔を背けた。
「彫鉄さん、このご恩は、いつかきっと必ず…」
「それが水くせえって云うんだよ」彫鉄は向こうを向いたまま、雪華に手を振る。「子供がそんなこと云うもんじゃねえ。だいたいが、これからは俺みてえなヤクザな、しかもマモノの彫物師となんか関わっちゃいけねえ。今度会う時はもう雪ちゃんなんて呼べねえ。お嬢様って呼ばなきゃいけねえかも知れねえしな」
「そんな…」
「ま、それは冗談だが…。ま、そういうこった。達者でな」
そう云い置くと、彫鉄はもはや雪華の方へ振り返らず、しかし手だけは振り続けながら、屋敷の門前から去って行った。寂しげなその後ろ姿に向かって、雪華は深々と頭を下げた。
頭を上げると、もう彫鉄の姿は見えなかった。雪華はホウッと一つ、複雑な感慨のこもった溜息をつき、踵を返した瞬間、思わず右腕を構えていた。
詰襟の学生服姿の若い男が、鳩が豆鉄砲食らったような顔をして、雪華のすぐ後ろに突っ立っていたのだった。見るからに実直そうな青年だった。雪華は慌てて構えを解き、ペコリとお辞儀をした。青年も慌ててペコリとお辞儀をする。
「彫鉄さんが連れて来られた娘さんというのは、あなたですね」
青年はややぎこちないながらも、爽やかな笑顔を浮かべて云った。
「…はい」
探るように青年の顔を見ながら、雪華はおずおずと答えた。雪華は何だか気恥かしさを覚えた。先程思わず身構えてしまったからか?
「僕は杉戸松五郎の息子で、平之助といいます。ごらんの通り、学生です。よろしくお願いします」
青年は少し慣れたのか、ハキハキとしたもの言いで名乗ると、またペコリと頭を下げ、爽やかな笑顔を浮かべる。
「あ、あの…」雪華は口ごもり、顔が赤らむ。「ゆ、雪華です」
「雪華さん。いいお名前ですね」
雪華はそう云われて、ますます気恥かしくなって、うつむいてしまった。しかし、悪い気はしない。気障に聞こえかねないこんな科白も、この青年が云うと実に素直な気持ちの発露に聞こえる。
「ありがとうございます」
そんな言葉が、小さい声ではあったが、自然に雪華の口からこぼれ出る。
「この家には母と女中たち以外は、女性がいません。特に女の子供がいないので、きっと母が喜びます。…でもその服装は…」
平之助は顎に手をやって、雪華の上から下までを無遠慮にしげしげと見回した。雪華は彫鉄の家から着て来た男物のシャツとズボンの姿のままであり、履いているのも彫鉄の雪駄だった。
「あっ、これは、その…」ますます雪華は顔を赤らめ、しどろもどろに答える。「急いでいたものですから…」
「いえいえ、ごめんなさい、冗談です」雪華があまりに真面目にうろたえるので、平之助も慌てた。「からかったりして、すみません。雪華さんは、その、何を着ても似合いますよ。か、可愛らしい方だから…」
若い男にそんなことを云われたことのない雪華は、ますます真っ赤になってゆでダコのようになってしまった。それを見て平之助も真っ赤になった。
「じゃ、僕、学校へ行くので、失敬」
平之助はそう云うと、慌てて貝殻を敷き詰めた道を駆けだして行くのだった。
****
鏡の中の雪華は神妙な顔をして、鮮やかな青に、赤や白や金の金魚の模様を散らした浴衣を着て立っている。無常と暮らしていた時には、こんな派手な上物の浴衣を着たことなどない。
「私のお古でごめんなさいね」傍らで畳に正座している中年婦人が、柔らかな笑みと口調で云う。「私には派手過ぎてあまり着なかったんだけど、でも雪ちゃんは、ほんとによく似合うわねえ。…娘が生まれたら着せようと思ってたんだけど、あいにくウチは男だし…。ホント、取っておいて良かったわ」
雪華は微笑んで、くるりと鏡に背を向ける。黄と赤の格子縞の帯が、浴衣の青とくっきりした対照を作って、お互いを引き立て合っている。
傍らに座る中年婦人は、夏だというのにきっちりと萌黄色の紬を着ているが、額には汗一つ浮いていない。雪華も色白であり、目鼻立ちがくっきり整っているが、この婦人もそれに劣らぬ色白の美人であった。柔和な笑みと口調と物腰を常に湛えているが、まなざしに凛としたものがあって、隙のなさを感じさせる。この婦人は杉戸松五郎の妻、かねであった。
二人がいるのは、裏庭に面した杉戸夫妻の居室の一つであった。雪華が浦益に来て一週間が経っている。かねは長持から引っ張り出した幾枚もの浴衣を、ずらりと畳の上に並べ、大きな姿見の前に立たせた雪華に、とっかえひっかえ、次々と着せて行くのだった。その上、部屋の隅に立てた衣桁には、振袖までが掛かっている。どれも高価で派手なものばかりであった。
雪華はあとで知ったのだが、これらはすべて松五郎がかねのために買い与えたものであった。前妻の死後、品川だか洲崎だか、場所はよくわからないが、遊郭からかねを身請けして後妻とした松五郎は、それはもう目に入れても痛くないといった溺愛ぶりだったそうだ。それが、長持三つだか四つだかにぎっしりと詰まった、あらゆる種類の織物による、様々な着物として、形になって現れているのだ。
「さあさ、これも着てみて頂戴」
そう云ってかねは、淡い黄色の地に夕顔の柄をあしらった浴衣を雪華の前に押しやった。雪華が帯を解こうとした時、「失礼します」と云っていきなり部屋の襖が開いた。平之助は帯を解きかけの雪華を見て慌てて「あっ、失礼」と襖を閉めた。
「失礼しますと言って本当に失礼をはたらく馬鹿もないものじゃないか」かねが呆れて云う。「…さあ、もう大丈夫だよ」
その間に雪華は慌てて帯を直した。再びソロソロと襖が開いた。平之助は真っ赤な顔をしてうつむいて座っていた。
「おまえは真面目だけど、ちょっとそそっかしい所があるね」以外に厳しくかねは平之助を叱る。「杉戸一家の息子が、そんな軽々しいことじゃ、駄目だよ」
「はい。すみません、おっ母さん」
神妙に云って平之助は畳に平伏する。
「まあいいさ」かねは口調を和らげる。「で、どうしたのかい」
「あの、雪ちゃ…いえ、雪華さんに、お客さんです」
「お客さん? 彫鉄さんかい?」
かねが云うと、平之助は「いいえ、丹波さ…」と答えかけたが、その時にはもう、雪華は裏庭に素足で飛び降り、駆け出していた。そして、裏庭の隅に姿を現した丹波の、着流しの胸板に飛びついていた。
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿」雪華は叫ぶ。「何で居てくれなかったの。もっと早く来てくれなかったの」
雪華は丹波の胸を握り拳で叩きながら、大声で泣き始めた。浦益に来て初めて見せる涙であった。堪えていたものが堰を切ったようにとめどなく溢れ出して、もう抑えが効かない。
「すまねえ」丹波は手荷物をその場にドサリと置いて、雪華を抱きすくめる。「新聞でコトを知ったんだが、向こうでの用が片付かなくてな。今になっちまった…」
だがもう雪華はそんな言葉など聞こえていない様子で、丹波の胸に顔を埋めて大声でわあわあと泣き続けるばかりなのであった。こんな大声でなりふり構わず泣く雪華を見るのは、丹波にとっても初めてのことだった。
「雪坊、姐さんにご挨拶するから、ちょっと離れてくれねえか」
困惑して雪華に云う丹波に、かねが云う。
「いいんだよ丹波さん。雪ちゃんはこの家に来てからずっと涙一つ見せなかったんだ。じっと我慢していたんだ。思う存分、泣かせておやり」
丹波はかねにすまなげにペコリと頭を下げ、改めて全身震わせて泣く雪華を抱きすくめた。おかっぱの髪を撫でた。そして雪華は、まるで丹波の身体の内へ潜り込もうとするかのように、ますますその胸に深く顔を埋めて泣くのであった。
その様子を見つめるかねは、もらい泣きしている。そのかねの背後に座って同じくこの様子を見つめる平之助の顔には、何やら複雑なものが浮かんでいるのだった。
その晩…。
部屋には布団が二つ並べて敷かれている。丹波と二人っきりで一つ部屋に寝るのは、雪華が記憶する限り、初めてだった。
しかし、二人はそれぞれの布団の上に正座して、向かい合っているのだった。お互い、真剣な顔つきだ。
空気が、ピンと張りつめている。
雪華が丹波に、本当のことを包み隠さず話して欲しいと云ったのだ。
その雪華の懇願を、丹波も拒みきれなかったようだ。布団の上で雪華と対峙した時には、丹波の顔も真剣なものになっていた。
対話はすべて、雪華の問いに丹波が答える形で行われた。
まず、なぜ雪華と無常は命を狙われたのか。
そして、雪華の本当の両親は誰か。その人たちは生きているのか。生きているのなら、今どうしているのか。どこにいるのか。
丹波と無常、そして彫鉄の三人が知り合ったいきさつはどういうことか。そして、これはすでに杉戸松五郎にも訊いたことだが、丹波と無常が時々出向いて行う「仕事」の内容とは、どういうものなのか。
これらを雪華は丹波に問い、そして丹波は答えた。
答える中で、丹波は云った。
「俺たちのようなヤクザな仕事に手を染めたマモノを、「魔俠」と呼ぶヤツもいる」
「魔俠…」
雪華はその言葉を低く呟く。
翌日、丹波は再び旅に出た。そしてこの日を境に、雪華は丹波を「おじちゃん」ではなく「丹波さん」と呼ぶようになり、丹波もまた、雪華を「雪坊」と呼ぶことはなくなった。