夏の炎(その4)
翌日の朝八時過ぎである。
閑静な白砂の庭に面した座敷に、雪華はいる。傍らに、彫鉄の姿もある。彫鉄は紋付袴、雪華は何故かダブダブの男物の黒ズボンに白シャツという姿で、二人とも青畳の上にかしこまって正座している。障子の開け放たれた表からは、かすかに潮の香が漂って来る。
ここは下総浦益。無常や丹波が度々口にしていた、杉戸の親分の屋敷、その奥座敷に二人はいる。
前夜、濡れそぼって裸足で駆けて来た雪華を、彫鉄は自分の家にかくまった。
案外近い半鐘の音を聞いて、イヤな予感がした彫鉄は、すぐさま家を出て、無常の長屋の方に向かった。幾つか角を曲った所で偶然、雪華とぶつかったのだった。雪華も実は、彫鉄の家に向かっていたのだ。何かあったら彫鉄を頼れと、雪華は日頃から無常に云われていた。
まんじりともせず、明け方まで雪華と一つ屋根の下に過ごした彫鉄は、自分のシャツとズボンを雪華に着せた。独り身の彫鉄には、女物など家にないのだ。自分は紋付袴を着て、夜が明ける前に、雪華を連れて家を出た。雪華の頭には鳥打帽を被せた。すると、あんまりとっくり見るのでなければ、マア男の子には見えた。だがしかし、それでもどうしても、雪華の白い肌と整った美しい顔は人目を引く。乗車駅までの道すがら、省線電車の中、そして下車駅から浦益までの道のり、雪華はずっとうつむき続けていた。そして今こうして、通された奥座敷に正座していても、うつむき加減のままだった。
二人の背後の襖がスッと開いて、ズカズカと人が入って来た。雪華と彫鉄は慌てて畳に手をつき、深々と頭を垂れた。
「アレ? 女の子って聞いたけど、男じゃねえか。チェッ」
素っ頓狂な声に驚いて二人が頭を上げると、齢の頃二十歳前後といった所か、白のズボンに白のシャツ、革帯の代わりに真っ赤なサスペンダー、そして白地に赤の水玉の蝶ネクタイ、頭はチックでオールバックに固めている、現在流行りのいわゆるモボ・スタイルの若い男が、唇をとんがらせたふくれっ面で突っ立っている。
「こりゃ源太郎坊ちゃん」彫鉄は云いながら平伏する。「お久しぶりでございます」
「アレ、やっぱり女か」源太郎は彫鉄の挨拶は無視して喋り続ける。「何でこんなカッコしてんの? ひょっとして現在流行りの男装の麗人ってヤツ? よう、彫鉄。おまえが連れて来た娘って、この子だろ?」
「ハァ…」
彫鉄は困惑顔で生返事する。
「なかなか可愛いじゃねえか。仲良くしようぜ」源太郎は雪華の前に屈み込んだ。「こっち向けよ。もっとちゃんと顔見せろよ」
そう云いつつ源太郎は雪華の顎に手をやった。雪華はその手をパシッ! と払いのける。
「おい、てめえ何すんだ」源太郎はたちまち気色ばんで立ち上がった。「他人ん家に逃げ込んで来て、その態度は何だ」
「源太郎、何してやがる」
目の前に落雷があってもこれほどではなかろう、というほどの大音声が轟き、源太郎ばかりでなく、雪華も彫鉄も飛び上がった。庭に面した廊下に悠然とした足音が聞こえ、まもなく人影が現れた。その人は源太郎に近付くと、有無を言わさずその頬に往復ビンタを喰らわせる。源太郎はバッタリ畳の上に倒れると、女形のように嬌態を作ってメソメソ泣き出す。
「ひどいよ、お父っつぁん」
「うるせえ、とっとと失せやがれ」
落雷以上の怒声と共に、声の主は源太郎の尻を蹴り上げた。源太郎は「キャッ」と叫んで飛び上がると、そのまま文字通り庭へ転げ落ちて、尻を押さえて一目散に駆け去って姿が見えなくなった。
「お見苦しい所を見せちまった。何とも面目ねえ」
一転して落ち着き払った柔らかい声になったその人は、床の間を背に上座に座った。彫鉄は再び平伏したが、雪華はポカンと見上げたままだった。
その人は涼しげな利休鼠の紬に同色の夏羽織を羽織り、胡麻塩の髪を短く刈った、初老の男だった。その男の顔は、つい先程源太郎を怒鳴りつけていた時には不動明王か閻魔大王かといった恐ろしげな面構えだったのに、こうして眼前に着座したその顔は、滋味溢れる布袋様か大黒様といった笑みを浮かべている。
「雪ちゃん、雪ちゃん」彫鉄が雪華の袖を引っ張って囁く。「杉戸の親分さんだ。ご挨拶しなきゃ、ご挨拶」
雪華はハッと我に返り、慌てて畳に両手をついて頭を伏せた。
「いいってことよ。堅苦しい挨拶は抜きだ」鷹揚な口調で男は言う。「それより、改めて失礼をお詫びする。この通りだ。済まねえ」
男は頭を上げた雪華に向かって深々と頭を下げた。その潔い態度は、雪華の心にいたく感銘を与えた。その顔、その声にも好感をもった。
「俺が杉戸松五郎だ」男は頭を上げると云った。「この浦益でどうにか一家を預からせてもらっている、つまらねえ野郎だ。が、マア、おまえさんの手助けぐらいはどうにか出来るだろうて。…話は聞いた。とんだ災難だったな。無常さんはさぞ無念だったろう。無常さんにはいろいろ恩も義理もある。…雪華さんと云ったね」
「はい」
「ここなら安心だ。自分の家のつもりでゆっくりしたらいい。学校の算段はこっちでする」
「ありがとうございます」
雪華は再び深々と頭を下げる。松五郎は目を細めた。
(ほう…。ひでえ目に遭ったのに、ずいぶんと気丈な娘だ…)
「一つ、教えて頂きたいことがございます」
再び顔を上げた雪華は松五郎に云った。
「何だい?」
「お父っつぁんは…。いえ、私の父、花澄無常は先日こちらにお邪魔していたと伺っております。父は一体、ここで何をしていたのですか」
傍らの彫鉄が慌てた様子で、再び雪華のシャツの袖を引き、「雪ちゃん、今それを云う時じゃ…」と囁くのを、「いいってことよ」と松五郎が制した。
「それを聞いてどうする」松五郎は間近にあった煙草盆を引き寄せると、煙管に刻みを詰めて、火入れに突っ込み、一服吹かして、続けた。「知らねえ方がいいことだって、世の中にはあるぜ」
「もし教えて頂けないのでしたら」雪華はまっすぐに松五郎を見据えて、ハッキリした口調で言う。「申し訳ありませんが、私はここにご厄介になることは出来ません」
「おい、雪ちゃん…」
彫鉄がすっかりうろたえて口をはさむのを、「マア彫鉄はちょっと黙っときな」と再び制した松五郎はじっと雪華を見た。雪華もじっと見返していささかもたじろがない。
「もしここを出て行くとして」松五郎は灰取りにポン、と灰を落とす。「それからどうする」
「…働きます。下女でも、子守りでも、給仕でも、何でもして…」
(この娘なら、本当にそうすることだろう)
松五郎は思い、そして訊いた。
「どうしてそんなに思いつめる」
「…お父っつぁんも、丹波のおじちゃんも、それに…」雪華はちらりと横目ですまなそうに彫鉄を見た。「彫鉄さんも、私に隠していることがあります」
彫鉄はギョッとした顔になる。雪華は続ける。
「私は、そんな風に隠し事をされたまま、何も知らず、ヌクヌクと生きているのが嫌なんです。そんな風に必死に隠し事をしたまんま、お父っつぁん、あんなことになっちまって…」雪華の目からホロリと一滴の涙が落ちたが、それをサッと雪華は拭った。「それが私を思ってのことだって言うのはわかっているんです。でも、それじゃ、あんまりやり切れない…」
腕組みをしてじっと雪華を見据えていた松五郎は、雪華が言葉を切った後もしばらく黙っていた。やがて。
「それじゃ、仕方がねえ」一つ溜息をついて、松五郎は云った。「おまえのお父っつぁんはなあ、用心棒をしてくれていたんだよ。おまえさんのいまの話にも出て来た、魔弾の射ち手の丹波さんと、手刀使いの無常さんは、その筋じゃよーく知られたお人だ。…まあ、俺は今でこそこんなデカい家に住んでいるが、昔も今も、表通りを堂々と歩けるような身分じゃねえ。ハッキリ云っちまえば、ヤクザだ。ヤクザってのは、いろいろつまらねえ義理だの人情だのってえのがあってな。マア、面子を立てなきゃならねえ時ってのがある訳だ。わかるかい?」
雪華は困惑気味ながらも、うなずいた。松五郎は苦笑して続けた。
「まあいい。ともかく、要するに俺たちは切った張ったのやりとりってえのを、時々しなけりゃならねえ。そういう時に助けてくれるのが、おまえのお父っつぁんや丹波さんって訳だ。うちにも威勢のいいのが揃ってはいるが、マアこいつらは血の気は多いが、タダの野郎だ。その点、無常さんや丹波さんはマモノだ。…マモノって呼ばれるのは、気に喰わねえかい」
じっと松五郎を見つめていた雪華は、そう問われて、少し間を置いてから、頭をゆっくり、そして小さく、横に振った。
「そうかい。…マモノはおまえさんも知っての通り、世間じゃ忌み嫌われるが、イザって時にゃ、無常さんや丹波さんのような必殺技を持ったお人がいるってえのは、こりゃあ百人の加勢よりも心強え。若い奴らもキュッと引き締まるって訳だ」
雪華は松五郎が「必殺技」と口にした時に何か云いかけたが、そこでは言葉を呑んだ。松五郎が言葉を切ると、何か言いたげに、しかし言葉を選ぶように、畳に視線をさまよわせた。だがやがて、再びまっすぐに松五郎にまなざしを向けた。そして訊いた。
「お父っつぁんや丹波さんは、人を殺したんですか」
その口調も表情もまなざしも、真剣そのものだった。松五郎は、答えるまでにまたも数秒の沈黙を置いた。
「場合によっては、止むを得ないこともある」松五郎は、ゆっくりと慎重に話す。「ただし、本当に止むを得ない時だけだ。無関係な、無実の奴を殺したことはない」
「殺しを…」雪華は身を乗り出してさらに訊く。「親分さんは、お父っつぁんや丹波さんに、人を殺せと、お命じになったことがおありですか」
「雪ちゃん!」見かねて彫鉄が叱責する。「何てことを云うんだい」
「彫鉄、いいんだ!」松五郎は厳しい口調で彫鉄を制して、改めて雪華を見据えた。「天地神明に誓って云うが、この杉戸松五郎、そんなことをあの二人に頼んだことはねえ」
雪華はじっと松五郎の目を見た。彫鉄には、二人のぶつかり合うまなざしの間に火花が散っているように見えた。やがて、雪華は畳に両手をついて深々と頭を下げて云った。
「失礼を申し上げました。こんな若輩者の無礼千万な質問にご丁寧にお答え下さり、有難うございます。おかげ様で、長い間の心のつかえが取れました。…この花澄雪華、謹んで親分さんのご厚意に甘えさせて頂きます。至らぬ所ばかりの不束者ではございますが、何卒よろしくお願いいたします」
云い終えて頭を上げた雪華の顔は緊張で引きつってはいたものの、どこか晴れやかでもあった。
(雪ちゃん、いつの間にこんな口上を云えるようになったんだ…)
内心そんな風に思って舌を巻きつつ、彫鉄も雪華の傍らで神妙な顔をして畳に平伏していた。
と、その時だった。
松五郎が不意に、手にしていた煙管を雪華の眉間目がけて投げつけた。とっさに、雪華の右手が空を切っていた。次の瞬間には、煙管は真ん中から見事に真っ二つになって、畳の上に落ちていた。
「流石に、花澄無常の仕込んだだけのことはある。見事なものだな」松五郎は感嘆したが、続く言葉は静かだが厳しかった。「だがその技はこの家に住まうにゃ不要なものだ。以後一切その技を使っちゃならねえ。今後おまえは大人しく、ごく普通の娘としてこの家で暮らすんだ。それがこの家におまえを受け入れるに当たっての、唯一の条件だ。もしそれを破った時には、すぐにでも出て行ってもらう」
雪華は愕然として松五郎を見やっている。いや、そのまなざしは焦点が定まらず宙をさまよい、口はポカンと半開きだ。その呆然自失ぶりは、松五郎ばかりでなく、彫鉄をも驚かせた。雪華の衝撃ぶりは、無常の死の衝撃以上のもののように、彫鉄には見えた。
瞬きもせず絶句したままの雪華のシャツの袖を、彫鉄は「雪ちゃん」と呼びながら何度も引いた。その何度目かでようやく雪華は我に返った。
「そんなに手刀を捨てるのは嫌か」松五郎は同情とも憐みともつかぬ感情を覚えて云った。「無理もねえ。手刀は云わば無常さんの形見のようなものだからな。そんなに無理なら…」
「無理じゃありません」首を横に振り、キッパリと雪華は云う。「親分さんのおっしゃる通りです。私は今日を限りに手刀を捨てます。普通の娘として、生きます」
じっと松五郎は雪華を見やる。やがて。
「その言葉に、嘘はねえな」
松五郎が念を押すと、雪華は答えるまでほんの少しだけ間があった。そして。
「ありません」
雪華は静かにキッパリと、松五郎の目を見て云った。




