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魔俠伝  作者: 自嘲亭
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夏の炎(その2)

 カナカナカナカナ…。

 あかね色の空に蜩の声が染みてゆく。

 庭、と云ってもほんの猫の額ほどの、申し訳程度の空間であったが、そこに湯を張ったたらいが置かれ、その中に窮屈そうに裸の丹波が屈んでいる。浴衣姿の雪華がその湯を手桶に汲んで、丹波の背に掛けてゆく。湯を掛けながら、雪華の手が愛おしげにその鋼のような丹波の筋肉を撫でさする。

 丹波の背で、鬼が牙を剥いていた。燃えさかる炎の中で、凄まじく恐ろしい形相の鬼が、雪華を睨み据えている。

 雪華は平気だった。ものごころついた時から見慣れているから、この鬼に親しみどころか、愛おしささえ感じている。

 この鬼は、般若と云うのだそうだ。能楽の面だそうだが、これまで実際に能というものを観たことがない雪華には、それがどういうものかよくわからない。だが紅蓮の炎の中に浮かぶ般若が、凄まじい怒りを発していることだけはわかる。そして、同時にその裏にある深過ぎる悲しみにも、雪華は気付いている。感じ取っている。ただ、まだ少女の雪華には、それらを何となくしか感じ取ることが出来ない。具体的にそれがどんな怒り、どんな悲しみなのかを察することまでは、出来ないでいる。

 丹波が何故こんな窮屈な場所と格好で湯を使っているかと云えば、すべてはこの彫り物の為であった。

「カタギの衆に不快な思いをさせたくねえ」

 そう云って丹波は、決して街中の銭湯には行こうとしなかった。この当時は今と違って、倶梨伽羅くりから紋紋もんもんをしている者が銭湯に入っても咎められはしなかったが、丹波は自ら遠慮していた。こうして竈で沸かした湯をたらいに入れて、それで汗を流すというのが、ここを訪ねた時の丹波の習いだった。

「おじちゃん、旅先で湯をどうやって使ってるのさ」

 手拭でグイグイ、丹波の背をこすりながら、雪華は訊いた。

「ほう。おまえもそういうことに気がつく齢になったか」丹波は湯をすくって顔を洗いながら答える。「なに、小汚くならねえように気を使ってるよ。小汚ねえ格好してたら、雪坊に嫌われちまうからなあ」

「大丈夫だよ」雪華ははにかんだように微笑む。「私は絶対おじちゃんのこと、嫌いになったりしないもの」

 云ってしまって、ハッとしたように雪華は頬を赤らめたが、向こうを向いている丹波にそれは見えなかった。雪華はそれを誤魔化そうと慌てて「おじちゃん」と呼び掛けた。「ああ」と丹波は向こうを向いたまま答える。

 雪華は急いで話の継ぎ穂を探した。丹波の左肩に古傷があった。幼い頃から何度も訊いて、すっかり訊き古しているその質問を、今回もしてみた。

「この傷、痛む?」

 傷にそっと触れながら訊く雪華に、これまた丹波は同じ答えを返す。

「痛みゃしねえよ」

「これって、鉄砲傷なんでしょう」雪華は自分でもよくわからないが、少し勢いづいて話を続ける。「おじちゃんの鉄砲は百発百中だって、お父っつぁんが云ってたわ。なのに何で撃たれちまったの」

「百発百中は褒め過ぎだが」丹波は苦笑する。「撃つのは確かにそうだが、撃ち返して来るのを百発百中…いや百避けか…って訳にはいかねえよ。たまには当たることもあるさ」

「当たったら…死んじまうのかい?」

 少々、丹波は云い淀んだ。そして、「そりゃ、当たり所が悪けりゃな」と答えた。

「そんなのヤだ」

 そう云って雪華は丹波の背に思わずしがみついてしまい、そして慌ててパッと身を離した。また顔が赤らんでしまう。何だかどうにも自分が変だ、と雪華自身気が付いた。雪華は動揺した。動揺のあまり、不用意なことを訊いてしまった。

「杉戸の親分さんの所に呼ばれたのも、鉄砲のお仕事?」

 浦益の杉戸の親分に呼ばれた、とは先程丹波が無常に話していたのだが、雪華の耳にも聞こえたのだった。だがそう訊いてしまって、雪華はハッとした。案の定、丹波の鋭い叱責が飛んで来た。

「ガキが大人のことに口出すんじゃねえ」

「ごめんなさい」

 雪華は慌てて丹波の背に向けてペコリと頭を下げる。

「もう上がるぜ」

 そう云って丹波がたらいから身を起こした。引き締まった尻が雪華の目の前に来た。いつも通り雪華は乾いた手拭を丹波に渡し、丹波はそれで上半身と己の男性自身を拭く。雪華は背中から尻、そして脚を拭くのだ。雪華は炎般若の上の滴を拭いてゆく。子供の頃、拭いたらこの炎般若も消えちまうんじゃないかと思ったことを思い出す。

「雪坊」丹波は向こうを向いたまま云った。「おまえ、いくつになった」

「十三」

「そうか」そう云って丹波は少し沈黙し、そしてさらに続けた。「もう俺の風呂の世話はしなくていいぜ」

 一瞬、何を云われたのか雪華はわからず、混乱した。丹波の背を拭く手がピタリと止まった。

「…どうして?」

 雪華の問う声は思わず震える。

「もうおまえも年頃だ」

「わかんない」雪華は目に涙を滲ませている。「どうして? 年頃って何?」

「何って…」丹波は返答に窮する。「年頃は、年頃だ。いい歳した娘が、こんなことしちゃいけねえのさ」

「嫌だ」

 雪華は丹波の正面に廻ってハッキリ云った。涙をためた目でキッと丹波の顔を睨み据えた。雪華の初めて見る、困ったような丹波の顔がそこにあった。

「何でそんなことを急に云い出すのさ」雪華は食い下がる。「だったら初めから、そう云えばいいじゃないか」

「まったくだ」丹波は頭をかいた。「悪かった。俺がウカツだった」

「ウカツって何?」さらに雪華は激昂する。「そんな云い方、しないでよ」

 すっかり弱ってしまった様子の丹波の顔は、これまで見た中で一番情けないものに、雪華の目には映った。

「雪坊、勘忍してくれよ」丹波は右手を顔の前に立てて拝む。「褌取ってくれねえか」

「嫌だ」

「しょうがねえな」

 丹波はたらいから出て、縁側に畳まれた(先程雪華が丁寧に畳んだのだ)白の越中褌に手を伸ばしたが、一瞬早くそれを雪華が取り上げ、後ろ手に隠してしまった。雪華は紅潮させたふくれっ面に、涙をためた真っ赤な目で、丹波を刺すように睨み据え続けている。

「雪坊…」

「雪坊なんて、呼ばないで」雪華は叫ぶ。「もう私、年頃なんでしょう」

「声がでけえぜ」

「構わない。さっきはガキ呼ばわりして、今度は年頃だとか云って、おじちゃん、勝手だ」

 雪華ははねつけるように、ありったけの声で叫んでじっと全裸の丹波を睨み続けた。丹波もまた、困惑気味ではあるが、表情を引き締めて、雪華と対峙している。

「…じゃあ、一つ答えて欲しいの」

 雪華の声はグッと押し殺したものになっていた。

「何だ」

 丹波も静かに答える。雪華の顔も目も紅潮したままではあったが、もう感情を闇雲に昂ぶらせている風ではなく、いつもと違う、何かただならぬ真剣さが滲んでいた。

「おじちゃんは…」かすかに雪華の声は震えていた。「私の本当のお父っつぁんじゃないのかい」

 丹波にかすかな狼狽のいろが走ったのを、雪華は見逃さなかった。丹波は沈んだ、真剣な表情のまま黙っていた。雪華は固唾を呑んでその顔を見つめていた。とても長い時間が過ぎ去ったように思えた。

「それは違う」丹波は小さく首を横に振った。「そんな筈がある訳ねえよ」

「じゃあ…」雪華は急いで質問を重ねる。「おじちゃんは私の本当のお父っつぁんを知ってるの?」

「それも知らねえ」丹波は溜息混じりに首を横に振る。「訊きてえことは一つじゃなかったのか。もう答えたぜ。さあ、褌を返してくれ」

 その時、表の扉が開いて、買い物カゴを提げた無常が入って来た。買い物カゴからネギが覗いている。無常の額に黒の刻印は見えない。

「ただいま。…何やってんだ、二人とも」

 無常は庭に突っ立っている二人を不思議そうに見やって云った。

 雪華は褌を丹波に押し付けて返すと、顔を背けて、縁側に上がった。


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