夏の炎(その1)
十余年の月日が経っている。
ここは帝都東京。神田明神。七月の真夜中。
半月が薄ぼんやりと境内を照らしている。シンと静まり返っている。
しかしその中に、ほんのかすかな気配がある。耳を澄ますと、ほんのわずかな足音もする。闇の中目を凝らせば、何かがそこにいるのが見て取れる。
それは、二つの人影だった。二人は、拝殿の正面で対峙していた。互いに右腕を正面に立てて構えながら、間合いをじりじりと縮めたり、広げたりしている。互いに互いの眼を睨み据えている。闇の中、四つの眼がわずかな月の光にギラギラと反射している。
凄まじい殺気が漲っている。
片方に立つのは、花澄無常だった。相変わらずの坊主頭であったが、僧衣ではなく、裾をからげた小ざっぱりした浴衣姿、腰には団扇など差している。ちょっと夕涼みにでも来た風情だ。その長閑な姿と緊張漲る構えの形、そして何より鋭く凍った殺気に満ちたまなざしとが、まったく相容れない。
無常と対峙するのは、齢の頃十二三の、おかっぱ頭の少女だ。こちらはしかし、忍者の如き黒装束に身を包んでおり、構えた右腕には黒の手甲をはめている。そして、無常に負けないほどの緊張に満ちた構えの姿、無常以上の殺気が漲っている。そのまなざしの力だけで、無常を射殺すことさえ出来そうだった。
二人はしばらくの間、わずかに間合いを広げたり縮めたりしていたが、ある所でピタリと動かなくなった。真夏であるのに、空気がスッと凍りついた。
対峙は続く。ピタリと止まったまま、二人とも動かない。
よく見れば、二人とも素足だ。近くに大小の雪駄が仲良く並んでいる。
と…。
二人とも同時だった。足音はない。ただ微細に空を切る音がしただけだ。次の瞬間には、右腕と右腕が激しくぶつかり合い、火花が散った。続けざまに、めまぐるしく立ち位置を入れ替えながら、無常と少女は右腕を激しく何度もぶつけ合う。だが次第に、少女は先程自身が立っていた位置の方へ後退してゆく。無常の打ち込みは容赦ない。少女は次第に防戦一方になって来た。
と…。
とどめ、とばかりに一気に突きを入れて来た無常の右手の下を、少女はひょいとかいくぐり、次の瞬間にはとんぼを切って、無常の頭上を越えた。一瞬ひるんで振り返るのが遅れた無常の喉元に、少女の右手が鋭く突き入れられ、喉仏の寸前で止まった。少女がニッと笑った。
とたんに無常は少女の右腕をつかんで背負い投げを食らわし、地にねじ伏せた。
「お父っつぁん、参った、参ったよう」
無常に抑え込まれた下から少女はフガフガ云うのだったが、なおもしばらく無常は少女をねじ伏せたままにした。
「実戦じゃあ参ったなんてこたあ、聞いちゃもらえねえぜ」少女をねじ伏せたまま無常は云う。「いいか雪華。相手に完全にとどめを刺すまで、ニヤニヤするんじゃねえぞ」
雪華は無常の下でなおもフガフガ云う。無常の表情がフッと和らいで、身体からスッと力が抜けた。無常は苦笑しつつ身を起して、雪華を抱き起こさんとそちらを向いた。その瞬間。
無常の喉元に鋭利な感触が突き付けられていた。その向こうには、鋭く刺すようなまなざし。
「お父っつぁん」雪華はニヤリと笑う。「油断しちゃ駄目だよ」
無常は本気で顔を引きつらせていた。たった今の、雪華の殺気は本物だった。危なかった。本当にこの首が打ち落とされかねなかった。
雪華は右手を無常の喉元から外した。同時に殺気も、雪華のまなざしと全身から消えた。いつもの無邪気で可憐で、そして美しい少女に戻った。雪華は心配げな顔付きで無常の顔を覗き込んでいる。
「お父っつぁん、大丈夫?」
無常はまだ顔を引きつらせていたのだ。無常は慌ててつるりと自分の顔を撫でた。顔面がひんやりと汗ばんでいた。無常は無理矢理笑みを作った。
「ああ…大丈夫だ。…雪華、腕を上げたな」
「うん」
雪華は心底うれしそうに顔をほころばせる。
と、雪華の顔に不意にまた緊張が走る。
「誰か来る」
…神田明神の境内に巡回の警官の姿が現れたのは、それからまもなくのことだった。
その時にはもう、無常も雪華も、その姿は境内にはない。
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ちりん、ちりりん…。
軒先にびいどろの風鈴が鳴る横で、吊るし看板が一枚、風に揺れている。
「書道教室。手紙・書類ノ代筆致シマス」
神田明神裏の貧乏長屋の一隅であった。
御一新より数十年、帝都東京には近代的ビルヂングが林立し、電車や自動車が走り回り、人々も洋装の方が多くなったが、木造長屋が未だひしめき合うこの界隈は、昔ながらの呑気さを残している。
さて、件の書道教室、そう云えば聞こえは良いが、そしてマア確かに狭い部屋に文机を並べ、壁には「大志」と大書きされた手本が貼り出されていて、それらしいのであるが、いかんせん、生徒の姿は皆無であった。
ここの主はと云えば、文机の間にゴロリと横になって、犬の如く舌を出して、団扇を使っているのだからザマはない。現に、ぶらりと姿を見せた客も呆れて開口一番、「ざまあねえな」とのたもうた。
主の花澄無常はノロノロと身を起こして、面倒臭げに客の方を見た。とたんに無常の顔にニヤリと笑みが浮かぶ。
「よう、丹波さん。元気だったかい」無常は団扇で丹波を招く。「入んなよ。雪華が喜ぶぜえ」
「和尚。汗で額が丸見えだぜ」
云いながら丹波は上がって来た。無常は慌てて額に手をやった。普段は上手く塗り隠している額の刻印が、ドーランが溶けて浮き出ている。無常はニヤリと笑って云った。
「いいってことよ」
丹波の方は、額の刻印をきっちり塗り隠している。相変わらず精悍な顔付き、身体つきの今日の彼は、小ざっぱりとした着流し姿であった。髪は短く刈り込まれ、髭も青々と剃り上げている。こうして見ると、強面であるが、なかなかの渋い男前である。
「これ、雪坊に土産だ」そう云って丹波は手に提げていた西瓜を掲げて框に置いた。「雪坊はどうした」
「学校だよ。決まってんじゃねえか。今日は土曜で半ドンだ。じきに帰ってくるぜ」無常は四つん這いでノロノロと西瓜の方へ行く。「土産は雪坊だけにかい。俺にはねえのかよ。半年ぶりだってえのによう」
「和尚、それだがな」丹波は框に腰を下ろすと、声を潜めた。「ユキオの居所がわかったぜ。…無事に生きてた」
「何だと」西瓜に伸ばしかけた手をピタリと止めて、無常はまじまじと丹波を見る。「そりゃあもちろん、生きてはいるだろうが…。しかし、どこにいた」
「ああ、実は…」
云いかけた丹波は急に口をつぐんだ。まもなく、軽い足音がパタパタと駆けて来て、戸口に影を作ると同時に、弾けんばかりの気色に溢れた「おじちゃん!」と云う声が狭い部屋いっぱいに響き渡った。セーラー服姿の雪華は文字通り、丹波の胸に飛び込んでいた。
「ちぇっ。妬けるなあ」無常は呆れ気味の苦笑いを浮かべる。「育ての親の俺にゃあそんなこと一度だってしてくれねえのになあ。まったく、まるで逢引きだぜ」
だが雪華はそんな無常の声などこれっぽちも耳に入っていない。天真爛漫な笑顔をその美しい顔いっぱいに浮かべて、丹波の胸板に深く顔を埋めている。確かにその姿はまるで逢瀬に歓喜する恋人のそれであり、甘えかかる子犬か子猫の如きでもあった。
「雪坊、元気そうだな」丹波の顔も思わずほころぶ。「ちょっと太ったんじゃねえか。えらく重いぜ」
「まあっ、失礼ね」雪華は丹波からピョンと飛びのいた。「おじちゃんのバカ。知らない」
雪華はムクれてプイと背を向ける。丹波と無常は爆笑する。
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