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魔俠伝  作者: 自嘲亭
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悲母観音と炎般若(その2)

 冴え侘びた満月がくっきりと夜空に浮かび、地上の万物はその光に淡く照らし出されている。

 しかし月光だけではいかにも心もとないので、カンテラのチロチロした光が、もう少しはっきりと、その場をさらに照らしている。その光が時折ぼうっと霞むのは、立ち上る湯気のせいであった。今宵、風がかすかに吹いている。

 廃村の中を流れる川の、川原の一隅にこの温泉が湧いている。村に人がいた頃は、共同浴場として使われていた。川原へ下りて来る段やら、脱衣所やらの跡があり、かつ湯を溜められるように岩を組んで湯船としていた。村に人がいなくなるとこの露天風呂も荒れてしまったが、丹波と彫鉄と雪華も手伝って、何とか入れるように修復したのだ。

 その岩風呂に立ち上る湯気の中に、恐ろしげな炎般若が牙を剥いている。丹波は手桶(丹波が木で作ったのだ)に汲んだ湯をその炎般若に浴びせると、湯船に入り、肩まで浸かった。ふうーっ、とこうして人心地つく度に、丹波は不思議に思う。この俺が、人並みに風呂に入って心地良いなんて、おかしな話だ…。

 そして、こうしていると、丹波の脳裏に浮かぶのは、雪緒の面影だった。十数年ぶりに会ったのに、ほとんどロクな話も出来なかった。あの医院にいたのも、一時間にも満たない短い時間であった。…だが、たとえその時間がもっと長かったとして、果たして何か話をすることが出来たかは疑問だ。

 この十数年の間に、いろいろなことがあった。積もる話と云うには、思い出話をするには、あまりに重い年月だった。雪緒に云いたいことはいっぱいあるし、雪緒もまた同様だったろうが、しかし、いざ向き合うと、ほとんど何も言葉は出て来なかった。かろうじて、一番問い掛けたかった問い、すなわち、何故雪華を捨てて逃げたのかと問うことが出来、かつその答えを聞くことが出来ただけで、そして雪緒が昔とあまり変わらぬ美しさを保っているのを確認出来ただけで、充分だった。

 しかし、丹波もそれなりに長い月日を過ごし、人の心の機微も少しは心得て来たので、あの雪緒の答えが、雪華を捨てて逃げた理由のすべてを云い尽しているとは思っていない。多分それは、雪緒自身にも良くわからないのではないだろうか。一言で云うなら、それは本能的なものだったのだろう。責め、追求するのはたやすいが、それをしても詮無せんない。そして何より、雪華がそれをまったく望まないだろう。

 この廃村にたどり着いて、まる一夜経って、ようやく雪華は意識を取り戻した。自分が身にまとっている着物が雪緒のもので、雪緒が直に着せてくれたものだと知った時の、雪華の喜びようといったら。雪華があんなに嬉しそうな顔をしたのを、丹波はこれまで見たことがない。それからというもの、「手刀術」の鍛錬の時と夜寝る時以外は、雪華はずっとその紬を着ている。夜寝る時も、雪華は丁寧に畳んだその紬は枕のすぐ脇に置いて、鼻先を押しつけて、その匂いを嗅ぎながら眠るのだ。雪華は寝る時は黒装束だった。万が一の時にすぐ対処出来るからで、無常を喪った時の苦い教訓によるものであった。

 ハタと、丹波は我に返る。自分は、雪緒のことをどうこう云えた義理ではない。俺は、雪緒なんかよりも、もっと酷い。結局、雪華を幸福な、普通の女の子にしてやることが出来なかった。それどころか、もっと酷い境遇へと、雪華を追いやろうとしている。そう、俺は結局、雪華にあんな嬉しそうな顔をさせてやることが出来なかったし、どうしたらそう出来るのか、今だってちっともわかってやしないのだ…。

 丹波は頭を横に振った。今は、こんな感傷に浸っている場合ではない。

 丹波はこの山奥に雪華を匿って以来、初めて東京に出て様子を探りに行って、今日先程、ようやく戻って来た所なのだ。計三日ほど、この廃村を留守にした。その間、雪華は自主練習に励んでいたはずだ。

 丹波はこういう時、いつもの着流しではなく、スーツに丸眼鏡などを着用して変装する。東京へ行くまでのある場所に、その一式を隠してある。そういう変装用具や拳銃の隠し場所を、丹波は各地にいくつか持っているのだ。それはともかく。

 杉戸組は、屋敷こそそのままだが、何だかすっかり寂しくなっていた。人の出入りがなく、何というか、しょぼくれていた。迷惑がかかるといけないと思ったが、保険の勧誘員みたいな顔をして、表から入った。かねはすっかりやつれていた。平之助は手紙は定期的によこすのだが、住所は書いてないし、文中にも居所は書いていないのだと、かねは疲れ切った声で云うのだった。そしてかねは、目を潤ませて、雪ちゃんに酷いことを云ってしまったと、深い悔いに満ちた声で云うのだった。丹波も同情を禁じ得なかったが、故あって二人の居場所は云えないが、二人とも元気でいますと、それだけしか告げようがなかった。それでもかねは、涙ながらに手を合わせ、どうか二人を頼みますと、丹波に懇願するのだった。

 「帝国グランギニョール一座」改め「帝国グランギニョールランド」の工事は着々と進んでいるように見えた。もっとも、噂では最大のスポンサーである竜宮寺製薬との関係が少々ギクシャクしているらしい。その一番の理由は、何と云っても建設費が巨額に掛かり過ぎることだった。それには、竜宮寺大助とその父で竜宮寺製薬会長である竜宮寺大像との確執というのも背景にあるらしい。ついでに云っておくと、沖合に停泊していた大型ヨットの姿はとっくになくなっている。

 大江医院は普段と何の変化もないように見えた。丹波は表から見ただけだったが、普通に診察を続けているらしく、時折患者が出たり入ったりしている。平之助がいるのかどうかは表からはわからなかった。大江医師の姿も、雪緒の姿も確認出来なかったが、少なくとも表の看板や表札には何の変化もない。

 丹波が中に入らないのは、ためらいのためばかりではなかった。杉戸組を辞去した時から、ずっと後を付けて来ている男がいたからだ。尾行が次々交代するような周到なものだったら、丹波も己の行動を変えなければならなかったが、幸い(?)付けて来るのはずっと同じ奴だった。丹波はそのまま川の方に歩いて行き、川岸の葦原の中に入って行った。のこのこそこまで追って来た男をあっさり射殺して、丹波は駅に向かった。

 返りの夜行列車に乗る前に、丹波は駅で新聞を買った。列車の中で新聞をめくって、思わずギョッとして丹波はある記事を食い入るように読んだ。読み終えて、その新聞をそのまま捨てようと思ったが、思い直し、丹波はその新聞を風呂敷包みの一番下に潜り込ませた。

(俺は、やはり酷い男だ…)

 心地良い湯に肩まで浸かったまま、丹波は繰り返し思う。いつからだろう。俺はどうも感情のはたらきというものがいささか鈍っているのだ。いやそれは、いつからのことなのか、よくわかっている。あの時からだ。そうだ。やっぱり俺は、あの時死んでいた方が、良かったのだ…。

 この風呂に降りて来る石段を、一個の灯がゆうらりゆうらりと下って来るのが見えた。カンテラの光であった。彫鉄が来たのかと、丹波は思った。この風呂へは、三人が代わりばんこに入ることになっているのだが、彫鉄は待ちきれなくなったものか。

 カンテラの灯が下まで来て、やがて先に置いてある丹波のカンテラの光に浮かび上がったのは、雪華であった。雪華はカンテラを掲げて丹波の姿を確認する。しかし何も云わない。驚きも笑いもせず、無表情に、張りつめたような顔をしている。

 雪華がカンテラを、丹波のカンテラの隣に置き、ずっと着ている紬の帯を解き始めたのを見て、丹波は湯から立ち上がった。

「俺はもう出るぜ。あとはゆっくり入んな」

 そう云って湯船から足を上げた丹波に、「待って」と紬を脱ぐのはやめずに、そして丹波の方を見ようともせずに、雪華は云った。

「出ないで。私も入る」

 そして雪華は着ているものをすべて脱ぎ去った。脱いだ紬と帯を丁寧に畳んで、その場に置いた。月の光に、背中の傷が浮かび上がる。痛々しいというより、そういう意匠であるかのように見える。丹波は一つ溜息をつき、また湯に戻り、湯船の一番奥に身を沈めた。雪華はそろそろと湯に入り、丹波の向かいに身を沈める。右腕で乳房を、左手で秘所を隠している。丹波が思っていたのよりも、もっと豊かな、形の良い乳房であった。

「一体どういうつもりだ」丹波はことさらに低く抑えた口調で訊く。「俺はもうずいぶん長く入っているから、そろそろ逆上のぼせちまうんだが」

「幾度か、訊いたことがあるけど」雪華は淡い光を揺らめかす湯の面に目を落としつつ、張りつめた声で云う。「丹波さんは、私の本当のお父さんなの? それとも、そうじゃないの?」

「昔答えたのと同じだ」丹波は湯で顔を洗った。「それは、ありえねえ。昔言ったように、おまえの父親は…」

「そうなのか、そうじゃないのかを訊いてるの。ちゃんと答えて」

 そう云うと、雪華はバシャッと手ですくった湯を丹波に掛けた。そして、そのまま飛びかかるように丹波にむしゃぶりついて、叫んだ。

「馬鹿馬鹿、私がこの三日、どんなにか心配したと思っているの。私は、私…は…」

 雪華は丹波にしがみついたまま、さめざめと泣き出した。その雪華の髪を、そして背の傷を、丹波の手がゆっくりと優しげに撫でる。雪華は涙声で云う。

「もう、どこにも行かないで。ずっと、私のそばにいて。お願い…」

 丹波の手が、雪華の両肩をつかんだ。丹波は壊れやすいものを扱うかの如く慎重に、雪華を自分から離すと、立ち上がった。ハッとして顔を上げた雪華は、次いでギョッとした。雪華の鼻っ先に、丹波の男性があった。

「自分で答えを確かめろ」

 丹波はそう云ったきり、まなざしは向こうの二つ並んだカンテラの方に向けて、何だか超然とした表情になっていた。

「確かめろって」雪華は涙も引っ込んで、戸惑う。「一体何を…」

「馬鹿野郎」丹波は淡々と云う。「それだけの覚悟があって来たんじゃねえのか」

 雪華は、ゴクリと生唾を呑んだ。丹波の云わんとすることがわかった。同時に、その結論も、何となくわかった。わかったが、もはやここまでしたからには、引き返せない。雪華は意を決した。

 雪華は丹波の男性をじっと見つめた。久し振りに見るそれは、すっかり上気して赤くなっていた。その色と形を、雪華は美しいと感じた。自然に、そこに手が伸びた。

「やめろ」丹波の声にわずかな狼狽がある。「止すんだ」

 しかし雪華は止めなかった。丹波の顔は見ず、左手をさしのべた。右手では、間違えてこれを切断しかねない。

「痛えよ」丹波が少し声を荒げる。「そんなに強く握るもんじゃねえ」

 雪華は左手の力を弱めて、改めてやんわりと握り直す。どうしていいのかわからず、丹波の顔をチラリと見上げたが、丹波は夜空を見上げたままだった。雪華は黙って、試行錯誤の格闘を続けるより他はない。そうしているうちに、雪華の中に次第に妖しいものが高まって来た。自分の内側がじんと熱くなって、疼いた。何かが割れて、とろけ出す感じだった。いつしか、雪華の息は荒くなり、頬が上気して、行動は大胆になった。雪華は、いつしか唇を寄せていた。そこに唇が触れる寸前、雪華の額に丹波の手が当てられ、押し止められた。丹波は雪華を押し止めたまま、再び湯の中に身体を沈めた。

「これでわかったろう」丹波はもの憂い表情と声で云った。「俺は、男として役に立たねえ。何故なら…」

 丹波は云い淀んだ。その先のことは、これまで雪華には一度も云ったことのない事実だったからだ。このことだけは、これまでどうしても、雪華に告げることが出来なかったのだ。だが、もう、隠すべきではない。

 不意に、丹波の表情が和らぎ、微笑みさえ浮かべたのを見て、雪華はかえって不安になった。丹波が自分をそっと抱き寄せ、ギュッと抱きしめたので、雪華は覚悟した。これは、間違いなく、衝撃的な何かが起きる…。

 丹波は雪華の耳に、まだ彼女に告げていない事実を、告げた。

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