血の祭り(その4)
雪華は黒装束に身を包み、手甲、脚絆で手足を覆い、黒髪は赤い紐でポニーテールに結ってある。腰を落とし、右足は前、左足は後ろに、左手は地を鎮めるが如く腰の辺りで下に向け、右腕を顔の前で縦に構える。これが、「手刀術」における正眼の構えなのだった。
凄まじい「気」がその場を圧する。「気」…。いやそれは「殺気」だ。雪華は竜宮寺大助たちの方を向いて、平之助たちの方に背を向けている。なのにその背中からも凄艶なまでの殺気が漂い、一分の隙もない。雪華は豹変した…。いやまさに今この目の前にいる雪華は、一匹の黒豹に変じている。
しかし、場がその「気」に呑まれたのは一瞬だった。次の瞬間、ヘビ吉は平之助をなぎ倒すように振り払い、左手の拳銃を雪華の背に向けて放った。だが雪華はたちまち宙高くとんぼを切ってヘビ吉の背後に廻り、右腕を振るう。ヘビ吉といえども右手の匕首でそれを受けるのが精一杯であった。火花が散る。
その雪華の姿が突如ヘビ吉の眼前から消えた。ヘビ吉が初めて驚きの表情を見せた。次の瞬間には、再びとんぼを切った雪華の右脚が強烈にヘビ吉の後頭部を蹴り飛ばしていた。この攻撃を予想していなかったらしく、ヘビ吉はそのまま顔面から甲板に倒れ込み、その弾みで匕首と拳銃を手放してしまった。クルクルと回りながら甲板を滑り行く拳銃を、平之助がそれと並行するように横滑りして全身でキャッチする。
雪華は再び竜宮寺大助たちの前に降り立った。目の前に、キンカン頭の坂田の首が、まるで甲板から生えているかの如く鎮座しているが、雪華は動じる風もなく、キッと猛々しいまなざしを甲板上の連中に向け、素早く正眼の構えを取る。
だが、竜宮寺大助はヘビ吉が蹴り倒されたのを見るや、たちまち長脇差を工藤に押し付け、自分はさっさと、甲板上にわらわらと現れた手下どもの後ろに紛れてしまっていた。雪華は動じない。「手刀術」を使った闘いにおいて、最もやってはいけないこととは、右腕に集中している「気」を乱すことだ。「気」を右腕に集中させることによって、それはどのような名刀よりも硬く、鋭い刃となり得る。
雪華の呼吸はまったく乱れていない。それどころか、普段の呼吸よりも深く、ゆっくりした呼吸を続けている。その表情の猛々しさと異なり、その内側には清々しいほどの透明なものが漲っている。それはまさに明鏡止水という言葉こそ相応しいものだった。もっとも、今の雪華はまったくそんなことは考えていない。ただひたすら右腕に「気」を集中させ、眼前の敵の動きを、本能的に、獣のように、敏捷に、察知するのみだ。
工藤は屁っぴり腰に松五郎の長脇差を構え、船村はガクガク震えながら自前の拳銃を構えている。工藤はともかく、警察官僚である船村は、これまで拳銃なんてほとんど撃ったことがないのだ。その背後には、凶悪なツラをした有象無象の男どもが、拳銃だの長脇差だの短刀だの匕首だのを構えている。この男どもと雪華は、ジリジリと、少しずつ位置を変えながら、間合いを計っている。と…。
「うりゃあああっ」
竜宮寺の手下か工藤の手下かわからないが、男が一人、長脇差を振りかざして雪華に向かって突進して来た。迷わず雪華は身をかがめ、男をかわしざまその太腿を斬った。
「ぎゃああああっ」
凄まじい叫びとともに男は甲板の上に転がった。それをきっかけに、「野郎」「死ねい」などと口々に叫びながら、刃物を持った者は突撃し、拳銃を手にした者は闇雲に発砲して来て、たちまち甲板の上は阿鼻叫喚の修羅場と化した。それを雪華は素早く、的確に、時にしゃがみ、時に飛び、右に、左に、右腕を振るい、とんぼを切り、足蹴も駆使してさばき、料理してゆく。しかし、殺さない。動けないように、武器が使えないように、傷つけるだけだ。
相手は闇雲なものだから、同志討ちが相次いでいる。味方を撃ち殺し、味方をぶった斬る。だから雪華が殺している訳じゃないのに、屍体の山が甲板上に累々と築かれてゆく。たちこめる血の匂いが、男たちをますます駆り立て、凶暴にする。いくら雪華が的確に対処していても、次第に疲労が溜まってゆく。甲板に流れるおびただしい血に足を滑らせ気味になる。幸い、本物の刀と違って「手刀術」の場合は、刃が血脂で斬れにくくなるということはないものの、長時間の闘いでは、集中力が途切れかねない。その一瞬の隙が、もっとも危険だ。
雪華の視界の隅に、平之助の姿が映った。拳銃を手にして、突っ立ってオロオロしていた。
次の瞬間、背後に気配を感じ、ハッとして雪華は思わず右腕を払った。鮮やか過ぎる、イヤな感触が右腕から脳天に、電撃のように駆け抜けた。雪華の視界の内で男の首が切断されて、首は雪華の肩越しに飛んでゆき、胴体の首の斬り口から盛大な血が噴射された。雪華の視界はたちまち真っ赤に染まった。己の顔に、腕に、生温かく鉄臭い液体が大量に飛び散るのを感じた…。
雪華は思わず呆然とした。人を、殺した…。
背中に鋭い一閃が走った。雪華は振り返った。長脇差を振り下ろした格好の工藤がいた。引きつりながらも、その工藤の表情には達成感もあるのだった。工藤は再び長脇差を振り上げた。雪華はそれを振り払うように右腕を大きく左から右に動かした。肘から切断された工藤の両腕は、長脇差をつかんだまま高く飛んで、川へと落ちていった。
雪華の背に激痛が走ったのと、「ああっ」という平之助の叫びを聞いたのが同時だった。背中の激痛は置いといて、雪華は声の方を見た。ヘビ吉が平之助の腹に匕首を突き立てていた。
「うわああああっ」
獣のような叫びを上げて、雪華はそちらに突進した。ヘビ吉が平之助から身を離すよりも速く、雪華はその腕を斬った。が、ヘビ吉が身を翻すのも速く、右腕はごく浅く斬れたに過ぎない。
「人を殺すのは初めてかい」ヘビ吉が薄笑いを浮かべて、無表情な声で云った。「ヘヘッ、これからクセになるぜ」
雪華は答えず、素早く身を屈めて右腕を振るう。「ギャッ」とヘビ吉が叫んだ。ヘビ吉の股間から小便の如く鮮血が噴き出ている。赤黒く醜いものがヘビ吉の足元に転がっている。
雪華は、腹に匕首を突き立てたまま甲板に呆然と尻もちをついている平之助の方に駆け寄った。平之助は匕首を抜こうとしている。
「抜いちゃ駄目」雪華は叫ぶ。「さあ、私につかまって。痛いけど、少しガマンして」
平之助の肩に雪華は己の肩を回して、立ち上がった。背中に激痛が走ったが、歯を食いしばる。平之助は素直に雪華に従う。激痛とこの状況とでは、もはや雪華への反感もクソもない。愚図愚図してられない。甲板の上はもう生き残ってるヤツの方が少ない位だが、それでもまだ何人かの猛り狂った阿呆どもが、こちらに向かって来るのが見える。警察署長の船村が、漏らした小便で股間をぐっしょり湿らせてへたり込んでいるが、こいつの始末はとりあえず置いておこう。雪華は平之助を引きずるようにして、船べりまでやって来た。男たちが迫って来る。雪華は平之助の頭を抱え込むようにして、壇ノ浦の平家武者よろしく、もろとも下の水面に向かって、飛び込んだ。
やがて、数分ののち…。
竜宮寺大助の船から三百メートル以上は離れた水面に、平之助を抱えて雪華は浮かび上がった。ずっと水中に潜って、平之助を抱えて、ここまで来た。雪華はずっと潜っていても平気だが、平之助はそうはいかない。だから雪華は時折水面に顔を出しては息を吸い、平之助に口移しで息を与えつつ、ここまで来たのだ。雪華にとってそれが男との初めてのくちづけだったのだが、当然ながらそんなことを雪華は露ほどにも意識していない。
だがそれも、三百メートル超のこの距離が限度だった。水面に顔を上げた雪華は、岸辺を探した。しかし真っ暗な川面が四方に広がるばかりで、遠くに灯りは見えども、どの方向が岸なのか、ハッキリわからない。
と、向こうから一層の小舟がゆうらりと姿を現した。雪華はギクリとした。一瞬、黄泉からの迎えに思えた。果たして、敵がもうここまで追って来たのか、それとも、ただの通りすがりの舟なのか。害のない人なら、救ってもらおう。だがこんな夜更けに小舟を出して、一体何をしている人なのか…。雪華はこちらから近付くことはせず、様子を窺った。
小舟は、しかしこちらに近付いて来るのだった。舟から、何か声がする。次第に、その声が明瞭になって来る。
「お嬢…。お嬢…。若…。若…」
聞き覚えのある声。いや、今の雪華にとっては、涙が出るほどに懐かしいような、とっぱずれた声だ。
「辰さん」雪華は呼ばわる。「ここよ」
「ああ、お嬢。無事でしたかい」
ようやく雪華の目の前まで来た舟の、櫓を漕いでいるのは坊主頭に額の傷、出っ歯のとっぱずれの辰だった。
「や、若も一緒」辰は雪華に手をさしのべながら真顔で云う。「こんな夜中に、川ン中で逢引きですかい。酔狂だな」
「馬鹿云ってないで、早く上げて」雪華は云う。「平之助さん、腹を刺されてるの。お医者さんに、早く診せなきゃ」
「えっ、そりゃいけねえ」辰は案外力持ちで、両腕で先に平之助を抱え上げて舟に乗せ、雪華には片腕を貸してこれもグイッと引き上げる。「アレッ、お嬢も背中にケガしてるじゃねえですか。しかしこんな夜中に、あからさまにこんなワケありな患者を診てくれる医者なんて、いるものかねえ」
「心当たりが一つある」雪華は低く云った。「そこまで、連れてってもらえる?」
「そりゃもう、お嬢の頼みとありゃあ何だって」
辰は櫓を漕ぎかけて、ふと思い出して舟床から何かを拾い上げた。
「こりゃ、親分の長脇差でしょ。さっき空から降って来やがった」辰はそれを振り回しながら困惑顔で云う。「でもこの一緒にくっついてる二本の腕は、こりゃ何です?」




